サイパ (2)
つぎにサイパは自分の指をじっと見つめた。指の先がブルブルふるえていた。
「そろそろ、外に出よう」
サイパは思った。それは、血院を、次のまとめ役になる血師、シャーイパにまかせるという意味だった。シャーイパにはもう二人の男子がおり、りっぱな青年の血師として、人からも敬われていた。
マンドゥリから移るという大仕事を終え、サイパは無我夢中で今の血院を支えてきた。おかげで新しい血院はまるで昔からそこにあったように、人々になくてはならない場所になっていた。治療のためにほかの所から移り住む人もいて、村全体の人口はここに移り住んで来た時の三十倍にもなっていた。ちょうど、シャーイパにすべてをまかせる、いい機会だった。
まとめ役として血院の中心となっていた血師が、年をとってから旅に出るということは、血師のしきたりとして今までにもよくあったことだった。自分の役目は次の若い人にまかせて、自分は、町の中心から離れた山間の国、町、村で、病院や医師のいない場所を巡り、人の病気や悩みを診て歩く。その記録は血帳に残されて、いずれ血院に戻ってくる。それが血院で役に立つこともあった。
次の日、サイパはそれぞれ役わりのちがう四人のお供を連れて、血院を出た。
馬に乗り、ロバとヤクを連れて、ゆっくりと旅をする。
サイパは、旅先で倒れてもいいと思っていた。もう、血院に帰ることがなくても、サイパが倒れたことはだれかが血院に知らせ、息子のシャーイパが新たにサイパと名のって、今までのようにほそぼそと、血院は続いていくだろう。
サイパが土にかえれば、一緒に旅をしている者がその土を持って、血院に帰って行くだろう。
サルーパでは、時間はしっかりと、ゆっくりと流れる。そうやって、足の向くままに国を越えて村や町を訪ね歩くうちに三年が過ぎた。
サイパがその旅の最後にたずねた山間の村は、しんと静まりかえっていた。そこは温暖な土地だったが、いつもにない寒い冬を迎えた年だった。
その村には石の土台でできた、しっかりとした小屋がいくつかならんでいるのだが、人の気配がしない。
「ここの村はききんになったのか…」
と、サイパはつぶやいた。土地には作物を育てた跡があり、耕せばまだ使える田畑があった。家畜の臭いも残っていたが、生きている動物はおらず、カラスやハゲタカが家畜の死肉をあさっていた。強い風が吹くと、小屋や石塔にかざった旗がぱたぱたとかわいた音を立てた。
サイパたちは、村の真ん中の道を、静かに静かに進んだ。この村はだれかに襲われたのだ。焼き払われた小屋の土台だけが残っている所が数件続いて残っていた。まだ煙がくすぶっている所もある。だれかが集まってここを荒し、人は殺されたのだろう。でも家の外には死体がない。生き残った人たちが、弔ったのだろうか。だがそうやって残った人たちも、いつもにない寒さに耐えきれず、食べ物もろくになく、小屋の中でそのまま死んでしまったのかもしれなかった。
「なんともひどいことになったものだ。もうすぐ、暖かい風にかわるころだったのに」
お供の一人が目を閉じ、つぶやいた。
サイパたちは馬を下り、小屋を一つ一つ回っては、神様に祈った。
そうして、村の出口、さいごの小屋の前を通りかかったとき、急に赤んぼうが泣き出した。
サイパたちは顔を見合わせた。
その小屋をのぞくと、赤んぼうは母親と思われる遺体の横にかくれており、母親は最後の乳をこの赤んぼうに飲ませながら、力つきてしまったようだった。
「それにしても…」
サイパは赤んぼうを抱きかかえ、じっと見つめた。
「いったい、何日たつのだろう」
若い血師が、母親のからだにさわってみたが、母親はとうに亡くなっており、冷たく固くなっていた。
「さいごの温かみを赤んぼうにあたえ、風をよけていたのだろうか」
サイパは、そう言いながら、この赤んぼうに、ヤクの乳を飲ませた。きれいな布に乳をしみ込ませて赤ぼうの口元に持っていくと、細く、棒きれのような赤んぼうが、力強くそれを吸い取った。次に、うつわにはいった乳を口元に持っていくと、ぴちゃぴちゃと、音を立てて飲んだ。
「これは、すごい」
と、若いお供たちは声を上げた。
飲むようすは力強く、たちまちからだに乳が取り込まれていくかのようだった。
すっかり乳を飲み干すと、赤んぼうはにっこりと笑い、右手でサイパの首飾りをぎゅっとつかんで、左手で肩まで伸びているサイパの髪をひっぱった。
「ほう」
と、サイパは目を細めた。
お供の者も、これをうれしそうにのぞきこんで見ていた。
次に赤んぼうは、そのお供の者の方に手を伸ばし、ふところにしまっていた鏡をまさぐった。死んだ母の乳を恋しく思って、まちがえたのだろうか…。そうとも見えた。だが、その手は、外からは見るはずのない鏡をさぐりあてて、ぶー、ぶーと声をあげた。
それはまるで「それを、おくれよ!」と言っているようだった。
皆は、ふたたび顔を見合わせた。赤んぼうが次々に触ったものは、血師となる赤んぼうが選ぶ物だった。
「この子は、男の子。いい血師だ。リューイポだ」
それはサイパが血院に招かれた頃にいた、二代目ルイポの幼い時の呼び名だった。その名前が自然にサイパの頭に浮かんだのだ。新しい血院ではこの名前を継ぐ者はなく、そのまま忘れられようとしていた名前だった。
「血院に帰ろう」
サイパは、宝物をほりあてたような、うれしい気持ちになって、急にそう思った。そしてすぐに、早足で血院に帰ることにした。
血院にもどってから、サイパは旅の疲れが出たのか、急に弱り、診断することもなく、数日後に静かに息をひきとった。
「この赤んぼうを、見つけるための旅だったのだろうか」
と、今はもう、次の四代目サイパとなったシャーイパは走り回るようになったリューイポを見て思った。