ススム (1)
最初に浮かんできた言葉は「ナカノ」だ。
今もぼくは母さんとおばあちゃん(母さんの母親)と中野のマンションに住んでいるけれど、家で話す時にただ「ナカノ」と言うと、それはおばあちゃんの昔の家のことを指す。マンションに移ったのは、兄さんの葬式が済んだあと、ぼくが中学生になった頃で、それまでは、祖父母が暮らしている一軒家に皆で住んでいた。祖父のことは…、ぼくが小学校の低学年の時に亡くなったのであまり覚えていない。
ナカノの家はけっこう広かった。兄さんの葬儀の後、母さんはどんどんふさぎ込んで行ったから、おばあちゃんが家事をやってくれることが多かった。
そのおばあちゃんの住んでいた一軒家の場所がどこだったのかと言われると、今ははっきりとはわからない。いくつかの家が売られて、マンションが建っている。その場所はわかる。でも、昔の道の面影は残っていないから、どのあたりがおばあちゃんの家だったのか、わからない。
ああ、わからないことだらけだと思った。
遠くで、ラルさんの声がした。
「おばあちゃんの家はどんな家だったの?」
ガラガラと引き戸の玄関があって、中に入ると、小さい庭を囲むような、廊下があった。おばあちゃんはそこが好きで、お天気の良い日はよく縁側に出て、ただ座っていた。
そうだ。
ぼくは小学校の時に空想の街の絵を描いて、特賞を取った。その絵は、もちろん学校に飾ってもらえたけれど、その後、駅に近い銀行のロビーにも飾られた。
母さんとおばあちゃんとぼくと三人でその絵を見に行った。もう学校でも見ていた絵だったけれど、また違う所に飾ってもらえたから、それを見に行ったのだと思う。
描いた時のことは覚えていないのだけれど、貼り出された絵を皆で見ている光景は覚えているのだ。絵の中の空想の街は、高いビルが並んでいて、ビルとビルをつなぐように、色とりどりの旗がひらめいている。ビルの下には人がたくさん描いてあって、祭りのような感じで、人が並んでいたり、踊っていたりする。着ているものも色とりどりで、やけに細かく描かれていた。
「きっと、サルーパのこと、どこか覚えているのね、アユムは」
と、おばあちゃんが言った。
「そうかしら」
母さんは氷のように冷たい目でぼくを見た。ぼくはそう感じた。その絵の中のどこがサルーパのようなのか、高層ビルなんてないのに! ぼくにはちっともわからなかった。ただ、ぼくは「ああ、お母さんはこの絵のこときらいなんだな」と思った。そして「サルーパのこともきらいなんだな」、と思った。その時からぼくは気をつけて「サルーパ」や「マンドゥリ」という言葉を言わないようにしていたと思う。
いったい、どういう絵を描いたら母さんは喜んでくれるのだろうと思った。ぼくはいつも、母さんが本当に喜んでくれて、本当に笑ってくれることを望んでいたような気がする。
「その絵は、それからどうなったのかな?」
また、遠くでラルさんの声がした。
さあ、どうしたのかな。もしかしたら、どこかにしまってあるのかもしれない。それとも捨てられてしまったのだろうか。
そうだ。
ある日、小さい庭の木に、メジロが来た。
「アユム、来て、そっと見てごらん。かわいいよ」
おばあちゃんが言った。数羽のメジロがヤブツバキの枝から枝へ移って行く。赤い椿の花の中にメジロが見え隠れする。それがとてもかわいかった。そのメジロたちはどういう関係なんだろう。親子なのかな、親戚なのかな。
「お母さんにも見せてあげよう」
ぼくが言うと、おばあちゃんが言った。
「いいの。お母さんは今、お部屋で眠っているから。そっと眠っている方がいいのよ」
「でも、メジロが逃げちゃうよ」
「いなくなっても、また来るわよ。その時、お母さんが起きていたら教えてあげようね」
母さんの部屋の扉はいつも閉められていて、ぼくはいつもそっとその部屋の前を通った。別に騒いだからって、しかられるわけでもなかったと思うけれど、なにか、静かにしなければいけないという感じがした。
「何が好きだった?」
ラルさんの声。
「何って?」
「食べものとか」
そうだ。
おばあちゃんがよくおでんを作ってくれた。ぼくはおでんの中のゆでたまごが大好きだった。今も好きだ。
母さんが作ってくれたものはなんだっただろう。母さんは重い空気をまとっていて、動くのに一つ一つ確かめるように動く。そうやって何かキッチンで動いている後ろ姿を覚えている。おばあちゃんとぼくがそのうしろで何か話していて、ぼくが笑っていたとしても、母さんが振り返るような気配がしたら、笑ってはいけないような気がした。
「笑ってはいけない」と言われたわけではない。ただ、笑ってはいけないという気がした。
ヒュッヒュッヒュッヒュッヒュッヒュッと、キューイポさんの笑い声がして、何か言った。
「それはわかるよ。笑おうとしても空気が固く重くて顔が動かない」
ラルさんがそれを伝えた。それがおかしいのか、キューイポさんはまた笑いを止められないでいた。




