アユム (1)
「え? その市場になぜキューイポさんがいたのかはわからないのですか?」
ぼくは、心底がっかりして声を上げた。
「そう。その男がどこかの市場で買ったということしかわからない。それだって怪しいものだ。さらったのかもしれないし。それがどこだったかということもわからない」
とリューイポさんが言ったらしいが、それじゃあ、その前のことはどうすればわかるというのか。
「キューイポさんが、なぜその市にいたのか、そこまでの話を知りたいのに!」
そのぼくの言葉を聞いたのか、キューイポさんがまた、腹を抱えて笑っていた。
「最初に言っただろう。ここに来るまでの物語しかないと。それに、何も覚えていないのだから、しかたがない。思い出してもろくなことはないだろうけどね。指を切られたり、目をつぶされたり…。それにもう今は、その時わたしを連れていた男の顔だって、思い出せないのだ。というか…。もともと、男の顔が良く見えていなかったのからもしれないが…」
ここで、また言葉を切って大笑い。
ぼくはうずくまってまで、笑いをこらえきれないキューイポさんの背中をあきれて見つめるしかなかった。
「じゃあ、アユム、君の物語を聞きましょう。治療はキューイポがやったけれどね、話を聞くのはわたしのほうがいいと思う」
リューイポさんが言って、ぼくの血帳が広げられた。そこには、きのうまでのぼくのようすが書いてある。
血帳師のキトパさんがこちらをじっと見つめていた。
何からどう言い始めたらいいのか、ぼくは見当もつかなかった。
「じゃあ、一番小さい時の記憶から始めよう。小さい頃のことで覚えていることはなんだい?」
リューイポさんがぼくの目の前に座り、ぼくの方を見ているし、皆がぼくの方を見ている。ぼくのからだはカチコチになった。
「ぼくと、ラル、ラミルだけのほうがいいいかな」
と、リューイポさんが聞いた。ラルさん、ラミルさんは通訳のためにどうしても必要なのだ。そのほかに、キューイポさん、キトパさんがいるけど…、この二人が多くても少なくても、同じようなものだ。それに、キューイポさんには聞いてもらった方がいいのではないかと思った。ぼくの話で何か思い出すことがあるかもしれない。
ぼくは首を横に振り、目を閉じて、思い出せることを思い出そうとした。
「マンドゥリでのことは、ほとんど覚えていません」
「いちばん昔の記憶はどういうもの?」
「どこだかわからないけど…、温泉に行っている思い出です。すごく大きい温泉です。母がぼくの手をとって、池にかかった橋のような所を渡りました。その橋も旅館の中にあるのです。その池にコイが泳いでいるのだけれど、そのコイがぼくの方を向いて口をパクパクしているのです」
「いつごろのことなの?」
「さあ、でも、コイのいる温泉なんて、サルーパにはないでしょ? 三歳まではサルーパにいて、ぼくの国に帰ってからぼくは四歳になったのだから、たぶん、四歳とか、それくらいの思い出でしょう」
「お母さんのほかにだれがいたの?」
「よくわかりません。おばあちゃんがいたような気がするけれど…」
「ススムのことで何か覚えていることは?」
「何一つ覚えていないのです。だから、ぼくにとって、ススム兄さんは、母や父の話の中に出てくる人。写真に残っているだけの人なのです」
「ここまで探しに来ることに決めたのは、アユム自身なのかな?」
「そうです」
「それは、どうしてかな?」
「うーん…。よくわかりません」
ラルさんがいるのだ。父さんが「ラルにつきあってやれ」と言ったことなんか、今言えるわけがない。
ぼくが話をやめると、火が燃えている音だけになる。皆につきあってもらっていることが、申し訳なくなって、ぼくは何かを話さなければと思う。でも、何を話していいのかわからない。ときどきキューイポさんが息をしている音がする。ズーズーと、妙な音を立てている。いつも何かしら音を立てていて、静かにすることができない人なのだな、と思った。
「少しずつでいいよ。サルーパに来ることに決めたきっかけは何?」
「まず、去年の十一月頃、父から連絡があったのです。暮れからお正月にかけて、父は毎年日本に帰って来ていたのですが、今度は帰れないということ。電話ではだいたいぼくが話します。それを母や祖母に伝えます。あとは…、ぼくの学校のことを聞いてきました。アユム、来年卒業だったよね。と。それで、進学を希望する学校のこととか、どんな風に勉強しているとか、いろいろ話しました。その時、ラルさんが日本語の勉強のためにぼくとメールのやりとりをしたいのだと言っていました」
ぼくはなんだか気になってラルさんの表情を見た。この話自体、ラルさんがまず聞いて、それをラミルさんに話して、それからトゥミハラヤの人に伝わる。自分のことを話すのって変な感じだろうなと思った。
「ぼくは、もう受験勉強を始めているから、ちょっと余裕がないと言いました。実はそんなに熱心に勉強していたわけでもないのですが…、なんとなく落ち着かないと思って…。それから、ラルさんがハガキをくれるようになりました。とてもきれいな字で、ぼくの受験がうまくいくように祈っているとか、父の様子などが書いてありました」




