タライとルイポ (2)
その少女サリは、血帳といわれるカルテのようなノートをまとめる役目を持っていた。
血帳には診断の結果や、病状について記録されるが、現在の医療で使われているカルテとちがうところは、病人の生い立ちや、身体の特ちょう、病人の話したことまでが、細かく書かれていることだ。一人に一冊しかなく、見た目は本のような形になり、抱えるほどの厚さ、大きさになってしまう。
血帳はすべて、血帳を保管する部屋にぎっしり並べられていた。その表紙には、ヤクや牛、馬の皮を使っていたので、むっとした、重い、くさい匂いがいつもたちこめていた。
血帳をまとめる人は血帳師といい、血師が診断するときにその横について、血師の言葉、病人の言葉、様子をどんどん記録していく。
サリは、白い肌、深い黒い目をしていて、静かで、まるで人の心の奥のほうまで見えているように、じっと人の瞳を見つめる。その目に見つめられると、タライもルイポもものを言えなくなり、心がぎゅっとしめつけられたようになるのだった。
タライは苦しんだ。自分の気持ちをサリに伝えたかったが、どうしていいかわからなかった。口に出して言ってしまうと、すべて消え去ってしまうような不安があった。だけど伝えずにはいられない。毎日サリを思い、胸をかきむしられるように焦がれる思いがつのり、タライはふと思いついた。野に咲く美しい花を集めるのだ。花には人を魅了する不思議な力がある。それはサリ自身の魅力にも通じ、自分の気持ちを表すのに適しているように思えた。
タライはある日、野山を一日歩き、花を探し摘み、集めた。人があまり入り込まない藪の中に分け入り、手の届きにくい崖っぷちまでくまなく探した。ちょうど花が咲きそろう時期で、さまざまな色の美しい花々を集めることができた。そしてその花が美しいうちに早くサリに渡さねばと焦った。タライはその夜、サリをたずね、花を差し出した。タライの顔も手も藪に入る時に傷つき、足には崖でこすった傷ができていた。
サリは差し出された花を見るとふっとやさしくほほえんで、その黒く澄んだまなざしで、タライを見つめた。そして、
「花は、花のある場所にあって、美しいものです。切った花は、あと、枯れるのを待つだけなのですもの。悲しいです」
と言い目、を伏せた。
タライの心臓は、ぐさっと刃物が刺されたように傷つき、痛くなった。
それに、どうだろう。サリはルイポといると、ぴったりと息も合っている。二人でいると語らうことがなくても、二人はなごみ、そこに二人でいることがごく自然のことのように見えた。神様が認めたようなものだと人々は噂した。それはタライにもわかり、追い打ちをかけるようにタライを苦しめた。
なぜサリの相手が自分ではないのだろう。何もかもがルイポにいいように動いて行く。タライは、ジリジリと騒ぐ心を抑えることができず、サリに恋こがれる思いを、どうしようもできなかった。それは、さらにルイポを憎む力に変わり、サリにも憎しみを抱くようになっていった。
とうとうルイポとサリは夫婦となった。そして、血院をまとめていたクイポは、旅のしたくを始めていた。噂どおり、ルイポに血院をまかせようと思っていたのだ。その雰囲気は皆に伝わり、皆がルイポをまとめ役として見つめるようになっていた。
タライの心は、焦りと憎しみでどんどん固く閉ざされていった。自分一人だけには幸運が訪れず、それはすべてルイポのせいなのだ。ルイポがまとめる血院で、どうやって自分は生きていくのだろうか。いつまでも、ルイポとサリを恨み、もんもんとして生きていくのだろうか。なんとかしなければ。
人のトゲトゲした気持ちというのは、外からも見えることがある。血の診断ができるルイポには、タライのトゲが、はっきり見えていた。そのトゲは鋭く、自分を刺してくるようだった。
タライが自分への憎しみから、本来の力を出しきれずにいるのも、ルイポにはつらいことだった。でも、それをタライに言うことはできない。タライはルイポを拒否するだろうし、今よりもっとかたくなになって、ルイポに対する恨みを積もらせるだろう。そして今よりもさらに固く高い囲いを作ってしまうだろう。
恨みの囲いを溶かすには、恨みが積もっていった時間と同じ長さが必要なのだ。今まだタライの恨みは積もっているのだから、その囲いが溶ける時間のことを考えるとルイポは目まいを感じた。
サリもタライのトゲをルイポ以上に感じており、もともと線の細いサリは、タライの嫌悪の念でうなされることさえあった。
「いたい、いたい」
朝が近くなるころ、サリはいつも悪い夢を見て、声をあげた。
「どうした?」
と、ルイポがそっとサリに声をかけると、サリはめそめそと泣き出した。
「だれかの心のトゲを感じて、痛いのです。針のむしろに巻かれ、火に投げ込まれる夢を見ました。そこから逃げようとすると、針はもっと深く刺さり、身動きができなくなるのです」




