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遠い空に

作者: 野風



彼は月末、土曜の夜中になると、

一人マンションの部屋を出る。



黒いケースをバックシートに積み込み

まだ寝静まっている暗い街道に、車を走らせる。


街中を抜け、街灯すら無い山道を、

糸を縫うように登っていく。



およそ30分ほど車を走らせて、

山頂にある景勝地を兼ねる駐車場に車を停めた。



日中なら、其処から見下ろせば遥か遠くに、


青い海とそれを臨む街が、見える場所だ。




車のヘッドライトの光だけが、夜明け前の闇に吸い込まれて行く。



タバコに火を点け、

瞼を閉じる。



ゆっくりと吐き出す煙が、静寂な時間と一緒に流れて行く。




一本だけ吸い終わると、

黒いケースを開け、

トランペットを片手に、車の外に出た。



トランペットを小脇に挟み、

小さな街灯が、点々と見える街を見下ろしながら、

両手に息を吹きかける。



東の空が白んで来ると、大きく息を吸い込み、


マウスピースに、唇を押し当てた。



かつて彼は眼下に見える街で、一人の女と暮らしていた。


二人は、休日になると、毎週のように海岸に出掛けた。



彼女の好きな曲を、

トランペットで吹いては、聴かせた。



瞳を閉じて聴いてくれる彼女の横顔が、

堪らなく好きだった…。



微笑みながら、目じりから涙を零す彼女を

幸せにしたいと思った…。



潮風に髪をなびかせながら、


黒い瞳で、真っ直ぐに見つめ返す彼女を

心から愛していた…。



ごく素朴な同棲生活だったが、幸せに満ち溢れた日々を送った。



彼女が居れば、

トランペットが有れば、他には、何も要らないと思っていた…。




三年間の同棲生活を送り、

翌年には当たり前のように、

結婚するはずだった…。



しかし、彼女が癌とわかったのは、


彼がプロポーズしてから、二ヶ月後の事だった…。



若い彼女の体を侵す癌細胞の進行は速く、


一年間の闘病生活の末に、

彼女は、遠い空に旅立った…。



旅立つ前に、もう一度だけ、

好きだった曲を聴かせてあげたかった…。



それが出来なかった事が、

悔いとなって、今も彼の胸に残っている…。




熱く、力強く、空に向かってトランペットを吹く彼の額には、


玉になった汗が浮き上がり、

湯気が立ち上っている。



登り始めた朝日の光で、

額の汗とトランペットがキラリと輝く。



彼女のいる空に、


彼女が永遠に眠る街に届くように、



彼の吹くトランペットの音色は、

何処までも遠く遠く響き渡る。




誰にも見えない悲しさと、


誰にも言えない辛さを

背負って、



今日も、彼はトランペットを吹く。



彼女の横顔を、


彼女の微笑みを、


彼女の瞳を思い出しながら…。



今日もトランペットを吹く。



忘れる事の出来ない彼女が、何処で聴いてくれる事を願いながら、


朝日を背負って、


今日も吹く。





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