09 すべては明日の糧になる
娘の朝は早い。朝食の下ごしらえ、食器の準備、次々に食堂に来て食事を済ませたあとの皿洗い。皿を拭いたら短い休憩がはいり、昼食の準備になる。昼食後の休憩のあと夕食の準備までして、仕事を終える。
団長は部下からの報告を受けていた。
「休憩のたびに色々な場所に行っています。探検のようです」
「近くの部屋の侍女や下働きとも仲良くなったようで、一緒に夕食を取ったり部屋を行き来しています」
団長は報告を受け流す。特に注意を引かれる点はない。
少しずつ馴染んできているようだ、と団長はその時には思っていた。
休憩時間に娘は監督のくれた菓子を手に、騎士団の馬場に来ていた。
ここには騎士団だけでなく、王族専用の馬の厩舎があり、多くの馬が飼われている。娘は馬が運動のために馬場を軽やかに疾走するのが眺められるところに腰を下ろしていた。
明るい日差しの中でしなやかな姿態で走り回る馬は、ほれぼれするほど美しく娘はそれをじっと見つめていた。
「やっぱり生き物はいいな」
「馬が好きか?」
背後から声をかけられて、娘はそちらを振り向いた。
騎士服をきっちり着こなした背の高い男が、馬場の柵にもたれていた。
娘は男から馬に再び目を移す。
「とても綺麗だと思います。私が知っているのよりも、がっしりして力強いですね」
馬に詳しいわけではないが、乏しい知識でもサラブレットよりも骨格がしっかりているように見える。ここの馬は競走用や鑑賞用ではなく、移動や戦に使われる実用なのだ。
側に来た男は厩舎の責任者だと名乗った。
「馬には乗れるか?」
「いいえ」
乗馬ができるのなんてごく限られた人でしかない。普通に生きてきた娘には馬は牧場や、競馬で見るような遠い存在だった。
「乗ってみるか?」
誘われて娘は驚く。ここの馬は遊びで飼われているわけでないのにいいのだろうか?
疑問が顔に出ていたのか騎士は笑って、厩舎の側にある小さな馬場に案内した。
「大人しい馬になら乗れるだろう」
そう言って、やや年のいった馬に鞍をつけた。
側までひかれてきたのを見ると、その大きさに圧倒される。
「隙を見せるな。卑屈になるな。馬は下とみなすと言うことを聞かなくなる」
言いながら、娘に馬に触ってもいい場所と触り方を教えてくれた。娘はつやつやなのに硬い毛並みをなでて、知らずうきうきした気分になった。
本当ならまたいで乗るんだが、としながら騎士は娘の脇に両手を入れて抱き上げた。
横乗りの形で鞍に乗せられその高さに固まる娘を、下から見ながら騎士は鞍を握らせて自身は手綱をとった。
ゆっくりと狭い馬場を周回する。
「馬と動きを合わせて、腰から背中を柔らかく使って背筋は伸ばす。目線は少し先を見ていろ」
なんだか分からないうちに馬上の人になった娘は、鞍にしがみついて丸くなっていた背筋をおそるおそる伸ばして前を見た。
いつもより高い目線の風景に目を奪われる。風も気持ちよく吹いて、王城の端のせいか緑も多く鬱々とした日を送っていた娘にとって、久しぶりに心から楽しめる穏やかな時間だった。
最初の時と同じく騎士に抱きとめられるように地面に降りた時には、この時間が終わってしまうのが残念なほどだった。
「ありがとうございました」
礼を言う娘に騎士はこの時間なら馬に乗せてやる、と嬉しい提案をしてくれた。
勿論娘はそれに応じ、明日の約束をして食堂へと戻っていった。
それを見送る騎士に、馬を厩舎に戻した騎士見習いが気付いた。
「副団長、帰城してからこちらに直行ですか? 団長が報告書を待っていらっしゃるのではないですか?」
「俺の可愛い馬達の様子を確認するのが最優先だろう。報告書は昼食の後にでももっていく」
金褐色の髪とうすい青の瞳を持つ副団長は、馬に愛しげな眼差しを注ぐ。従騎士は団長よりも馬が先と言い切る副団長に、はあ、と言うしかなかった。
「ところで今の娘は誰だ?」
「知らないで乗せていたんですか? 今、騎士団の食堂で働いている子です。大人しいけど目を引くって今騎士団の中でちょっと評判なんです」
誰よりも愛する馬に見ず知らずの娘を乗せるなんて、副団長を知る者からはありえない。
見習いの従騎士は晴天の霹靂、を身を持って知ることになった。
戦争のような昼食を乗り越え、夕食の下ごしらえをした後で娘は一日の仕事を終えて使用人棟へと向かっていた。
小道をたどる娘の前に、下級官吏の服装をした男が姿を現した。
もごもごと口の中で呟いているのを聞き取ると、どうやらおつきあいを申し込まれているようだ。
娘は目を伏せてそれを断る。それで諦めてくれれば良かったのに、その官吏は下働きに断られたのに自尊心を傷つけられたようだ。
顔を赤くして乱暴に娘の手首をとって、夕暮れの暗がりに連れ込もうとした。抗う娘ともみ合いになったのも束の間、鋭い誰何の声とともに二人の騎士が現れて官吏を拘束した。
「王城内で婦女子に乱暴とはいい度胸をしている。騎士団本部に来てもらおうか」
一人が官吏を連れていった。
「どこかお怪我はありませんか?」
娘が首を横に振ると部屋まで送りましょうと、恐縮する娘に構わずに使用人棟への道をたどり始めた。
結局部屋の前まで送り届けられてしまった娘が礼を言うと、騎士は微笑んで頷いた。
扉を閉めた娘はそのまま耳をつけた。きびすをかえして階段を下りる音がするはずなのに、足音は娘の部屋を行き過ぎてしばらくしてから戻ってきた。階段を下りる音が聞こえたところで娘は扉から耳を離した。
「監視されているってことか」
あまりにもタイミングの良すぎる騎士達の登場と、怪我がないか聞かれたときに敬語を使われたこと、すぐに戻らずどこかに寄っている形跡があったことで出た結論。
「まあ、再召喚までの保険でも今のところは『伝説の娘』だもんね」
監視の存在は邪魔だ。
娘の計画を阻害する。
「スパイ大作戦なんて素人には難しいんだけど」
一人ごちながら、娘は菓子を包んだ紙を手に持った。
夜、娘の姿は使用人棟の裏手にあった。小高く開けた場所に座って空を見ている。
棟の向こうから人の来る気配がした。そちらに娘が目をやると団長が近づいてくるところだった。
「どうした」
「目がさえてしまって、星を見ていました。動かずに方角の指標になる星はあるんでしょうか?」
「あれがそうだ。北を示す」
「奇遇です。私のところでも北極星があります」
最後の言葉は団長にしか聞こえないほどに小さかった。
今は夜だから隠してある目も晒している。その目が団長の教えた星を見上げていた。
「仕事には慣れたか?」
「はい、食堂の人にも、騎士団の人にもよくしてもらっています」
団長をまっすぐ見て娘は言い切った。本心からの言葉に団長は疑いを持たなかった。
程なく娘は部屋に戻った。
ごそ、と肩掛けの下から携帯を取り出して、携帯のストップウォッチ機能を確認する。
「部屋を出てから団長が来るまでの時間……」
おそらく複数で監視し、団長に報告がいって団長が様子を見に来た。監視体制としてはこんなものだろう。
武人を出し抜くなんてできるんだろうか。
「乗馬ができれば逃げやすくなる。星が出ていれば方角も分かるか。他にも知らなくちゃいけないことが多いな」
少しずつ、焦らず確実に。娘は呟いて携帯の電源を切った。