01 大公と傭兵
「逃げられた? 逃がした? まあどちらでもいいけれど。これで契約終了ですね、大公殿下」
全く感情を交えない内容に、こちらも動じる様子はなく机の上に書類を広げた大公は視線を上げない。部屋の中は静かなのに外は違う。火事の後始末や早急に守備を立て直すために、ひっきりなしに大声が飛び交う。
「傷の具合はいかがでしょう?」
「お前には関係ない」
冷ややかなですらなく、何も含まずに切って捨てられても傭兵は表情を変えない。壁にもたれて腕組みをしている。それでも分厚く巻かれた包帯と、使っていない右腕が声なく状態を物語っている。
本来なら進軍の朝だった。
それを急に留まるようにと方針転換がなされ、加えて昨夜生じた火事が少なからぬ混乱を呼び起こしている。
事の本質を把握しているのは二人。どちらも静かに先を読む。
「新たな依頼だ」
受けてくれるな? とも言わない。既に決定事項のような言葉に傭兵の眉が上がり、戻る。愛想のよいひょうひょうとした表情はない。
報酬次第であらゆることをやってきた傭兵の顔だ。
「内容は?」
「基本的には今までと同様だ。守り、便宜を図れ」
誰をとも、いつまで、とも言わない。こんなあいまいで期限の不明な依頼など普通は受けない。
ただ自分はそんな依頼にそそられる珍しい部類なのは自覚している。退屈しのぎ、と表現すればそれまでだが、自分の好奇心を満たす依頼には報酬の高低に関わらず受ける。そんな気まぐれも容認されるだけの腕と名前だと自負していた。
だから遠慮なく疑問を口にする。
「何故そこまで執着されるのです?」
それまで一切書類から顔を上げなかった大公が、初めて書類から視線をずらし傭兵を見つめた。
澄み切った空のような青が、射抜く。その目は控えよと言っている様だ。
金髪と青い目、整った気品ある顔立ちは、しかし惰弱ではない。信仰に厚いこの大公がひとたび剣を取れば、さながら神の守護者と形容されるような剣の腕を見せることも知っている。
国内で最高に近い地位と権力を有する大公は、どこまでも静かだった。
「お前には関係ない」
「関係、ね」
視線を外さずに短いやり取りがあった後は沈黙が続く。
傭兵が引くつもりがないのを悟って、大公は少しだけ視線を宙に移し再び戻して話し始めた。
「彼女がこれまでにない伝説の娘だからだ。大人しく王妃にはおさまるまい。となれば必ず軋轢を生じる」
「大公殿下ともあろうお方がそこまで肩入れするのも珍しい。それは母親の影響ですか、それとも義理の姉の影響ですか」
「言葉が過ぎるぞ」
傭兵はわざとらしく手を胸の前に持っていってお辞儀をした。
へりくだりながら、決して膝を折らない。
誰に似たのか。ちらりと忌々しい思いが湧きあがる。
傭兵は指折り数えながら可能性を列挙する。
「王妃になるなら終了、他の男に走ったら駆け落ちでも協力するか妨害者を排除。この世界で生きていくのなら環境を整える。
――元の世界に戻りたいと言えばどうすればいいんでしょうね?」
「祭典までの護衛、帰還を妨害する者の動きを阻止すればいいだろう。帰還の呪も陣もおそらく研究されているからな」
淡々としたやり取りの中で言外に匂わされる内容はどこまでもきな臭い。
対峙する相手の身分や権力、それに伴う厳重な防衛網を突破しなければならないことが容易に想像できる。
「お前にはそれなりの地位を用意してあるのだから利用すればいいだろうに」
「そして、間抜けな私生児であることを衆目に晒せというんですか」
「母方の爵位を継げばいいだろう」
「同じことです。母が未婚で産んだというのを晒すことになるでしょう」
「お前の母親には書類上の夫がいる。お前の経歴など、いくらつついてもぼろが出ないようにしてあるのに、全く強情なことだ」
己の力でのみ生きていくとする傭兵と、教育や資金援助などは密かに行ってはいたが交流は全くと言っていいほどになく、かろうじて見捨てはしなかった程度の庇護を授けていた大公の間に世間的な親愛の情はない。
自分の髪の色も目の色も受け継がなかったのに、根幹の部分ではふとした折に鏡のように感じてしまうところが腹立たしい。大公はそう思う。
名の売れた傭兵として、別件で招いた折の対面が随分と久しぶりのものだった。
王宮で侍女をしていた母親は亡くなり、育ての親の祖父の死後にふいと行方をくらませたのが、二つ名を持つ傭兵として現れるとは。
以後は便利に使い、依頼主と傭兵としての関わりをもつ。そんな間柄。
「ならば独力でなんとかするがいい」
それが傭兵の自尊心なのだろう。
言われなくても、と目が語っている。
まあいい、と机から書類の束を取り出す。さすがに確認のために、壁際から傭兵が机へと近づいた。
「私の所領と財産の一部だ。名義は彼女に書き換えてある。こちらで生きていくようなら原資にしてやれ」
「……本当に入れ込んでいたんですか。どうせなら伯父君に成り代われば、伝説の娘とやらを手に入れられたでしょうに」
次には左手で投げられた文鎮を、片手で傭兵が受け止める。
「履き違えるな。これは母からの遺言でもある。自分以降の伝説の娘にはできる限りの便宜を図れとのな」
義理の姉には何もしてやれなかった。それは今でも時折鈍い痛みを生じさせる。
憂いに沈んだ様まで兄は食らいつくした。あそこまで執着できるのを醒めた目で見ながらも、羨ましいと思ったのはいつのことだろう。
神殿との関係に冷え切ったこの身には、何も熱くしてくれるものがない。
目の前にいる繋がりを持つ青年であってもだ。
「彼女はおそらく何らかのありようを変えるだろう。それを下支えしろ」
「それが大公殿下の目的に合致するからですか?」
様々な情報収集を行わせた上に、自分考える頭を持つのならそこに到達しても不思議ではない。むしろ暗愚でないのを褒めるべきだろう。
自分の起こす波でどれだけのものがさらえるのかは未知数だが、神殿の淀みは洗い流さなければならない。
彼女の望みが帰還なら確実に亡霊は姿を現すはずだ。
「さてな。以降の状況は流動的だ。何とも言えぬ」
傭兵は言葉を濁した大公を見下ろす。
この状況にあって右肩の負傷。加えて切り札に近しい存在を、故意か偶然か手放している。
何度もくぐった修羅場の勘は行きつく先も見えている。
おそらくは大公自身もそれを知っている。その上で道を整えようとしているか。
全く王族とは厄介なとしか思えない。
惚れた女も手にできず、好きな生き方も選べない。先も見えているのに逃げることもできない。
ともあれ、この誇り高い大公は同情など死んでもごめんだろう。
「お前への報酬はこちらだ。必要経費もここから出すがいい」
ずしりと重い革袋を二つ無造作に押し付ける。傭兵はちらりと中身を確認した後に遠慮なく受け取る。
厄介で長期戦になるかもしれない依頼だ。もらえるものは多いに越したことはない。
「この依頼を遂行中に彼女から別の依頼をされた場合はどちらを優先させましょうか」
「知れたこと」
はいはいと肩をすくめる。聞いた方が馬鹿だった。
だが、次に大公が机に置いたものを見て目がすうっと細まるのを感じた。
「これも持っていけ。長年の働きへの報酬だ」
それきり興味をなくしたように大公は書類へと手を伸ばす。
傭兵がその場から動かないのに、ようやくといった風情で目を上げた。
「どうした。依頼はこれだけだ」
普段の傭兵なら承りました、とそこだけは真面目に返答して速やかに消える。
それが初めて見るといってもいい表情を浮かべている。
こんな顔もするのかと意外でもあり、全くこれのことを知らないことに気づかされた。
「今更、ですか?」
「これで繋がりを示す物は消える。お前にも好都合だろう」
「……」
無言で机の上の物を取り、布で包んで懐に入れる。書類と革袋を手に扉ではなく窓へと向かう。
窓の所で傭兵は振り返る。
「こんな時には何と言えばいいのでしょうね?」
次はない。だからこそ。
「さて。……息災でな」
「ありがとうございます。――大公殿下、いえ。あなたも」
その後の言葉は音にはならなかった。
大公も聞こうとはしなかった。
束の間、はるか昔にいた少女の面影が胸をよぎる。褐色に波打つ髪の毛、森の緑と枯葉を混じらせたような色合いの瞳。
義理の姉の側付きだった大人しくて可憐な……。
追憶を追い出すように頭をひとつ振って、大公は書類の整理を始めた。