77 春、再び
うららかな春の日差しの中、娘は静かに手を合わせる。
従姉妹も同様に長い間目を閉じていた。
「行こうか」
「うん」
取り替えたしおれた花とバケツやひしゃく、箒を手に持って所定の位置に物を戻して駐車場へと歩く。盆や彼岸でもなければここはいつも静かな場所だ。
従姉妹の運転する車の助手席で、ふうと息をついた。
「お姉ちゃん、つきあってくれてありがとう」
「いいよ。うちの親も来たがったけど平日は無理だから。週末にでも墓参りするって」
車の窓に頭を寄せて何とはなしに外を見ていると、従姉妹が前に視線を向けたままで話しかけてくる。
「髪の毛、伸びたね」
「あれから二年ちょっと経っているからね」
ボブの長さだった髪の毛も毛先だけ整えているうちに、背中の真ん中くらいまでの長さになっていた。従姉妹はカラーリングをした上にショートなので、軽やかな印象だ。
「染めないの? 真っ黒ストレートは重いよ」
「そうだねえ」
他愛ない会話も、車の中の空気も春の暖かさをゆるりと反映しているように思える。
「それにしても良かったよ。やっと前みたいに戻った」
「ごめんね、心配かけて」
「本当よ。あたしが在宅仕事だからって、留守番を押し付けられて男と知り合う機会が失われたんだからね」
口ではそう言っても本心からじゃないのはすぐに分かる、からかいを含んだ口調に救われる。帰ってきてからしばらくは混乱していて、ずっとその間も付き添ってもらっていたのだ。
「ぼーっとしているかと思うと突然泣き出すし。夜はうなされるし。――あたしにも本当のことは言わないつもり?」
「ちゃんと言ったよ。変なところに連れて行かれて要求を断ったら、いろいろあって刺されたって」
「だから、その変なところってどこよ。怪我のせいか全然覚えていないで病院も警察も押し通したけど、あたしがごまかされると思う?」
顔を横向けて運転中の従姉妹を見る。年上の、はっきりした容姿と性格の大好きな従姉妹。言い方がきつい時も本心では自分を思ってくれている大事な人で、明るい口調に自分を取り戻して随分と浮上することができた。
「自分でも分からないところ。気付いたら別の場所にいたとしか」
「――あんたが戻った時も唐突だったから、でも、何? おとぎ話かゲームの世界のような話じゃない」
おとぎ話というには、あまりにも人間くさい世界だった。
第一、おとぎ話なら王子様とお姫様は結ばれて、いつまでも幸せに暮らしましたで終わるはずだ。頑固に結ばれることを拒むお姫様など、話にもなりはしない。
「まあいいわ。でもあんたが茶髪で体格のいい男を目で追うのはどうして?」
「お姉ちゃん」
「知らないと思った? 甘いよ。その後で落ち込んでいるのも知っているんだからね。さあ、さっさと白状しなさい」
「ちょっと、お姉ちゃん。前、信号青だよ」
水をさされてやや不機嫌そうにアクセルを踏み込む従姉妹は、運転に集中する。
鋭い追及にどぎまぎしなからも、目はつい、歩道を歩く人を追ってしまう。従姉妹の言うように似た髪色や体格の人を見ると、そんなはずはないのについ見てしまう。
自分や周囲の混乱も落ち着いて、でも外は出歩けずに主に夜に従姉妹の車に乗せてもらうようになって程なく気付いた。今日は本当に久しぶりに昼間に外出した。とは言っても従姉妹の車に乗せてもらって、人のいない墓地へなので外に出られたくちだ。
明るい金髪も見る度にはっとしてしまうが、圧倒的に茶色の髪に鼓動が跳ねる回数の方が多い。
手を離したくせに未練がましい。
時間は過ぎて短かった髪の毛も伸びた。向こうにも同じだけの時間が流れている。
あそこでも色々なことが起きて、皆変わっているはずだ。
家や血統存続がここよりも重視されている。自分はぼんやりと過ごしていたけれど、二年もあれば国王も団長も結婚して跡継ぎでもできているかもしれない。
もう関係ない世界なのに思い出すと胸が焦げるような気がするのは、最近になってようやく異常な緊張から解かれた反動か。
精神科やカウンセリングにもかかり、心理学の本も読んで折り合いをつけた気でいるのに、何かあるとすぐにするりと表に出てこようとする想いは本当に厄介だ。
そんなささいな変化も見逃さずに、でも側にいて見守っていてくれる従姉妹の存在は嬉しくてありがたい。
「到着。喉渇いたね。中でお茶しよう」
従姉妹の声に物思いからさめて車を降りる。両親の命日の前後数日はもちろん、何かあるとこうして従姉妹は泊り込みで側にいてくれる。天候が悪くてのばした墓参りに付き合ってくれたのは、ただただ感謝だ。
「ただいま」
応える人はいなくても、つい言ってしまう。今日は従姉妹と賑やかに過ごせば、気がまぎれるだろう。お湯を沸かしてお茶をいれ、リビングのソファに腰を落ち着けた。
誰もいない一人きりの家にもようやく慣れた。
帰還してしばらくのことはあいまいで、よく覚えていない。とにかく周りが大騒ぎで病院に連れていかれてしばらく絶対安静、面会謝絶で入院し、その間に警察の人が事情を尋ねに来たりもした。
本当のことなど言えるわけもない。そんなことをしたら、頭を疑われてしまう。結局はよく覚えていないで通して、怪我はしているが全身状態は悪くないのでおおいに怪しまれはしたけれど、うやむやに終わった。従姉妹や親戚が尽力してくれたのだと、随分あとになってから聞かされた。
「まだ外には出られない?」
「大丈夫とは思うけど、人の目はまだ気になる……」
二年半行方不明だったのがひょっこり戻ってきた。――胡散臭いこと、この上ない。
特に両親の葬式直後だったから遺産関係で事件に巻き込まれたんじゃないかとか、一人きりになったのを知っていたんじゃないかとか近所も親戚も随分と心ない追求や詮索を受けたらしい。
だから、戻った今も自分をどう扱っていいのかとまどうようなことも見受けられるし、それ以上に好奇心はすさまじい。
携帯も番号を変えて、アドレスも変更せざるをえなかった。それでも友人と思っていた人に新しい連絡先を伝えるとそれが洩れて中傷のメールが入ったり、掲示板に個人情報がのせられたりと二次被害のような仕打ちは続いた。
結局退院してもなかなか家から出られずに過ごしている。
二年半も行方不明なら当然ながらそれまでの社会的地位というやつは断ち切られていて、でももう一度戻ろうとする気力はなかなか湧かなかった。
ぼんやりと時の流れに身を任せて、ようやく季節に目がいき外への関心も少しずつ起こり、笑えるようにもなった。
私も踏み出す時がきているのかもしれない。
そう言えば今日は葬儀をした日だったとカレンダーに目が行く。
かつては家族の予定を書き込んだカレンダーも、今は空白が目立つ。
「抜け殻から戻んなくちゃね」
「やっとその気になったか。じゃあ、さっきのことを話して楽になりなさい」
忘れてくれなかったか、と苦笑する。
恋の話なんてしていなかったな。あちらでやれば命がけだったし、こちらではそんな状態じゃなかったし。そう思いながら娘は従姉妹に聞いてみた。
「お姉ちゃん、根は悪くないけど悪党一味の人を好きになったことってある?」
「なにその例えは」
「最初はすごく嫌な感じだったのが、どんどんいい人になっていったのが親玉の一味」
「ますます分からない」
「――誘拐犯の一味みたいな人のこと」
最後の台詞に従姉妹のまなじりがきつくなった。
ソファに座る距離を一気につめて、目の前にものすごい迫力の従姉妹の顔がある。
「誘拐犯を好きになったって? それストックホルム症候群じゃない」
「そうじゃないと思っているんだけど。洗脳されていたとしても、さんざんカウンセリングもしているから解かれているはずだし」
「それが茶髪の大男なわけ? まだ好きなの?」
少しためらって、でも頷く。――まだ、好きだと思う。
従姉妹はその様子を怖い顔をして観察する。
頷いた仕草は随分としっかりしている。ようやく本来の気質が戻ったと思ったら、いまだに行方不明時の思い出のようなものを引きずっているらしい。
しっかり者でも一度に両親が事故死というのは大きな衝撃のはずで、それを受け入れる間もなくいなくなってしまってから二年半後に、何故か何もない空間から突如現れたとしか表現できないような唐突さで戻ってきた。
大泣きした後で魂が抜けたような時期が長く続いて心配していたのが、決まった外見の人を目で追うなと思っていたら誘拐犯の一味を好きだなんて。
「だから誘拐犯をかばったの?」
「違うよ。だってここにいない人達だし、かばったのは自分のため。誰が信じるの? 変なところに行きましたって」
ひどく醒めた目をして紡がれる言葉は、現実での誹謗中傷を嫌というほど味わったせいだろうと思う。人には言えないことをしていたとか、親の事故死にも関係していたんじゃないかとか、それはもうひどいものだった。
近所の人はあからさまにはしていないけれど、行方不明の時に事情聴取を受けたところもあってそれがしこりになっている。それを気にしてかあまり外に出ない、引きこもりのような生活を心配してはいたけれど……。
「思い出を美化しているわけじゃないのね」
従姉妹の指摘に、どうだろうかとお茶を飲みながら考え込んでいるらしい姿は、素直で可愛らしい。
「どんな人?」
「おっきい。守ってくれたりくれなかったりしたけど、優しくてなんていうか……大型犬みたいな感じ」
「犬タイプと。頼りがいはあった?」
「うん」
そこだけは迷いなく頷いたのに、従姉妹はのろけかとやさぐれそうになってやめた。変なところとやらで誘拐犯の一味を好きに、とはどう考えても障害しかない。
「ねえ、もう一度その変なところに行けるとしたらどうする?」
「それ無理だから、お姉ちゃん。もうそんなことはないはずなの」
「だから、もしもの話よ。その大型犬に会えたらどうしたい?」
散々心配させられたのだ、これくらいは好奇心を満足させてもらってもいいだろうと従姉妹は聞いてみた。あーとかうーとか、へんな唸り声で両手を握り締めながら考えた末に、えっとねと呟いて返ってきた答えは単純だった。
「その人もだけど、関わった人の顔を見て元気か、幸せか確かめたいかな」
「それでいいの?」
「元気だったらどうにでもなるから。私がお姉ちゃんから元気もらったみたいに」
真っ直ぐに見つめられて照れると同時に嬉しい。
寄り添った日々が無駄じゃなかったのだとの満足感は、自分にもできることがあるのだという証明に繋がったようなくすぐったくも甘い感情を呼び覚ます。
「お茶のおかわりいれるね」
立ち上がって急須を手にキッチンへ従姉妹は向かった。
その耳に小さな呟きは入らなかった。
「もし、なんて絶対にないのに。――会いたくても絶対に会えない」
心の底をさらうようにして湧いた想いは重たい。暗い声で側に置いたバッグをぎゅっと胸に抱きしめて、未練と感傷と絶望を滲ませていた娘は、ふわりと周囲に広がった覚えのある感覚に目を見開いた。
「あっ」
その声に従姉妹はリビングを覗き込んだ。
周りを白い光が取り囲みこれで三度目の浮遊感が襲う。
閉じた目をおそるおそる開けると、高い天井の石造りの室内。ここは、まさか――。
「成功か?」
「成功のようですね」
声の主もまた、聞き覚えのある人達で。
別れた時より貫禄がついたような国王と、王弟が立っている。目をやれば神官長は変わらぬ姿だ。
娘の視線を受けて神官長は軽く頭を下げる。
ひどく低く、固い声が事の次第を問いただす。
「――陛下、殿下。これはどういうことですか」
落ち着いた声で国王が娘に近寄りながら爆弾発言をおとした。
「ようこそ。そなたは伝統にのっとり国王の伴侶として召喚されたのだ。伝説の娘。
――また会えて嬉しく思う」