75 帰還
王都で過ごしている間に王家の噂は色々と聞いた。どこにいっても人は噂好きで、王家というものはその好奇心を寄せられる筆頭なのだと実感した。
伝説の娘についても様々な説が流れた。
暴漢に襲われて死んだとか、その時の傷を癒すために気候のいいところで静養しているとか、国王が人目に触れさせたくなくて隠しているだとか、神がせっかくよこした娘が傷つけられたことに怒って連れ去っただとか。
これだけあれば、もっともらしい説明も付けられるだろう。
こちらに来た時の服に着替えて、かつらを外す。春にかなり短く切ってしまった髪の毛もすこしは伸びたが、やっとボブというところだ。
「久しいな」
秋の祭典で外は賑やかだが神殿の奥殿は静かだ。限られた人間しか立ち入りを赦されない、特別な空間は天井の高さもあいまって荘厳さを感じる。ここから始まってここで終わる。儀式の場としては相応しい佇まいだ。
一度王都の仮住まいに姿を現した国王は、見た目はあまり変わってはいない。
でも最初の時からは随分と変わった。落ち着きというのだろうか、尊大さがなりをひそめてその代わりに自然と滲み出るような貫禄を感じる。
側の王弟も随分と変わった。国王よりも親しみやすい雰囲気は、その下に表面にだまされ転がされる人間を観察する抑えた鋭さを内包している。
儀式を執り行う神官は神官長になって、日々忙しいと笑いながらもそれを感じさせない穏やかさだ。
近衛の姿が後ろに見える。
そこには団長ではなく、団長代理として王城騎士団を取りまとめている副団長がいた。式典の礼装になるのだろうか、騎士団の正装でいる。
つい目で探して、自嘲する。
「お久しぶりです。お忙しい中ありがとうございます」
帰還の儀には国王が――この世界に召喚する鍵となった人物が必要とする理由で、祭典の中日にここに来てもらっている。
いよいよ、元の世界へと帰る帰還の儀を行うのだ。
「ここに来てから二年半か」
「長いような短いような不思議な感じです」
振り返ってみると、それまでの平穏な人生とは全く違う怒涛としかいいようのない濃密な時間だった。いきなり呼ばれて、罵倒されて、牢に入れられた挙句に結婚しろだったのだから。
国王も思い出しているのだろう、苦笑が浮かんでいる。
はじめは反発していた国王と、思い出を振り返ってしみじみする日が来るとは思わなかった。
「元の世界に無事に戻れるとよいな。万が一失敗したり別の場所に飛ばされた場合は、この世界のことであるなら責任は取る。別の世界であれば……」
「まあ、何とかします」
袋に入れている携帯と紙を意識しながら答える。召喚、再召喚、帰還の構築式を描いた陣の写しと神官の呪を録音した携帯だ。祈りと願いをこめて詠唱するのが大事だと今の神官長も言っていたことだし、何とか頑張ろうとは思う。
すんなり帰れるのが一番なのは言うまでもないが。
「お元気で。――あなたは間違いなく王家に語り継がれる方になるでしょう」
様々な意味を織り交ぜて王弟が声をかけてくる。
つい身構えてしまいそうになる、と娘は思いながらも言葉をさがす。王弟との会話は言外に匂わせる事柄が多くて神経をつかう。それはお互い様らしく、王弟の方も楽しそうではあるがよくよく見れば目は笑っていない。
「あまりひどい言われ方でなければいいんですが」
「とんでもない。あなたはこの国の歴史の節目に立会い、変革の一翼をになった方です。感謝はしていますよ」
感謝『は』か。それに軽く頷いて副団長にもあいさつをと近づいた。
東から団長と入れ替わりに戻ってから、何度か立ち寄ってくれた。それとなく指示もしていたのだろう、王都警備の巡回ルートに家の前が組み込まれておかげで危ない目にはあわなかった。傭兵に言うと、自分も監視をしていたからだと少し面白くなさそうだったが。
副団長は副団長で傭兵に含むものがあるらしく、今も二人の間にはやや剣呑な雰囲気が漂っている。
「おい、かつら屋。部外者は立ち入り禁止だ」
「今日の僕は彼女の保護者、第一かつら屋じゃないのを知っていながらその態度。狭量な男は嫌われるよ」
「誰にだ」
「さあ?」
傭兵は害意がないのを示すために剣を預けてあるが、体のあちこちに武器を隠し持っているはずだ。それを使うのではないかとはらはらしてしまう。
でもなぜこんなに仲が悪いのだろう。馬が合わないのだろうか。
このまま見学しても楽しそうだが、時間もあまりないので割って入る。
「本当にありがとうございました。ご迷惑と心配もかけてすみませんでした」
「迷惑をかけられた覚えはありませんよ。寂しくなります」
王城内に、そして騎士団内部にもファンクラブがあると噂される涼やかな笑みを浮かべて副団長が応じてくれた。
馬を教えてくれて、東でも逃亡を助けてくれた――団長の片腕で、親友。
副団長は口には出さないけれど、いつも目で問いかけていた。
『あいつを待ってやってくれませんか』
今もその瞳で、でも神官長を見て口の端で笑って軽く頭を振った。
団長を待たないから今ここにいる。そして団長もここにはいない。
お互いが考えてだした結論を、副団長も今更口を挟もうとは思わなかったのだろう。ことここに至っては。
「お元気で」
「皆さんも」
握手をしようとした手を包み込まれて優しく握られる。
その余韻に浸る間もなく、傭兵がさっきの自分のように割って入る。
「はい、そこまで。あまり時間がないから僕の番」
「だからかつら屋は……」
「殺すよ」
低レベルの口げんかのようなかけあいは、双方引き際を知っているのかあっさり終わった。
傭兵は長身を少しかがめて目を合わせる。
「最後まで気は抜けないけど、一応契約終了かな。楽しかったよ」
「ありがとうございます。後払いの報酬は……」
「ああ、あれ。そうだね、じゃあ」
頬に唇が触れてすぐに離れた。耳元で『大公殿下の分まで』と囁かれる。
手で頬を覆って見上げるが、どんどん頬が熱くなるのを感じる。最後の最後にこの傭兵は――。
「よい度胸だ、そこの」
低い、冷えた声は久しぶりに聞く。国王からだ。
傭兵は気にする様子もなくにやりと笑った。
「本当に狭量だ。親愛の表れなのに、怖い怖い」
国王ですら遊びに使おうとする傭兵の方が怖い。国王もぐっと顎を引き締めて傭兵に乗せられないようにと自制している。傭兵はひらひらと手を振って壁際に下がった。
そろそろ時間かと、帰還陣へときびすをかえす。
ゆっくりと国王と向き合う。頭一つ高い国王を見上げる形で目を合わせる。澄んだ青い瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。ゆったりと腕が広げられてその中に囲い込まれる。なにか色々なものを超越したような、神聖な感じがするのは国王の顔が穏やかだからだろうか。
「そなたほど余に影響を与えた人間は他におらぬ。変われて感謝している。幸せを祈っているぞ」
「陛下、私も祈っています」
「加害者の幸せを祈るとはそなたは頑固なくせに訳が分からぬ」
「陛下も頑固でしょうに」
「最後までなびかなかったな」
もう何も言えずに目を閉じる。包み込まれるような抱擁がとかれて、荷物を手に帰還陣の中心に立つ。
国王も所定の位置に立った。
神官長が視線を宙に漂わせて荘厳な声を発した。
「始めます」
低い、歌うような旋律が最初は静かに、だんだんと大きくなって波のように召喚の間を満たしていく。
それにあわせて帰還陣の文様から淡い光が漏れ出す。
荷物を抱え込み、最後まで見届けようと眩しさに眩みそうになるのを必死に我慢する。
国王の、王弟の、副団長の、傭兵の、そして汗を浮かべて目を閉じ詠唱を続ける神官長の――。
とうとう目を開けていられなくなり、ぎゅっと閉じた目蓋の裏に明るい光がうつる。
同時に体が浮き上がる奇妙な感覚を覚えた。
最後に聞こえたのは何だったのだろう。
ふわりと頭を撫でられた様な温かくも不思議な感触があり、それきりで意識がのまれていく。
光が満ち、それが消えた後に娘の姿はなかった。
誰も何も言わず、その消えた空間を見つめていた。
「行ってしまいましたね」
「ああ……」
気の抜けた声で王弟が呟いて、国王が応じた。
今はもう床に描かれた複雑な文様にしかすぎないものをいつまでも見つめている。
「これで契約終了っと。随分と長かったけど、もうこんな面白い依頼はないだろうから寂しいな」
壁際で傭兵が伸びをしながら言葉を紡ぐ。それに副団長が絡んだ。
「お前、あの方とどんな契約をしたんだ?」
「ん? 一つは帰還の手助け。もう一つは――もし無体なことをされたら自分を殺してくれって内容」
そこでちらりと王弟に視線を向けた。獲物を狙うような冷徹な眼差し。
「絶対に実行したくなかったからその依頼を受けたくないって意味で、報酬後払いにしたんだ。現実にならなくて良かったよ」
長居は無用とばかりに扉に向かおうとした傭兵を、国王が引き止めた。
「この前、余のもとに下手な芝居の脚本が届いた。荒唐無稽で失笑ものの内容だった」
「そう、それで?」
「作者を知っているなら伝えろ。国王はあれに恥じるような生き方はせぬと」
「きっと、遠くから見ているんじゃないかな。生きた芝居の行く末を」
そう言うと、傭兵は振り向かずに扉を抜けた。
国王は王弟と、副団長を従えて王城に戻る。途中で王弟だけに聞こえる声で話しかけた。
「そなたは余の大事な弟で、片腕にと頼む者だ。だが、そなたがいなければ成り立たない国王にはするな。そなただけが泥をかぶる必要はない。
余とて物事の裏を読み取り、それを飲み込んだ上で輝く存在でいてみせようぞ」
国王に釘を刺された王弟は、少しだけ頭を下げた。
「御意に――陛下」
秋の空の下、忙しく指示を出していた団長は、ふと澄んだ秋空を見上げた。
美しい空はそれなのに喪失のさみしさを伝えてくる。
誰に教わらずとも悟った。今、彼女がこの世界から消えたのだと。
刺すような胸の痛みは、きっと消えることがないのだろうと思った。
足元に木の感触。恐る恐る開いた目にうつるのは、神殿よりは低い天井、明るい色の壁紙。
背後で物が落ちる音がした。
振り返ると、自分を凝視している。従姉妹の――。
「お姉ちゃん」
どうして、ここにと続けようとしたのに、従姉妹が何も言わずにぶるぶる震えているので何も言えずにいた。
「あんた、今、どこから。いや、今までどこに。け、警察、それよりうちの親に電話――」
「帰って……これた? お姉ちゃん、どうしてここに」
さっきの物音は洗濯物らしい、足元に干すばかりになっている濡れた服が散らばっている。
従姉妹はよろよろと近づいて、肩に触ってぎゅうぎゅうと抱きついてきた。
「あんたがっ、葬式の日に行方不明になったから、捜索願を出したのよ。それで戻ってくるかもしれないってあたしが留守番と家の管理をしていたんじゃない。一体どこにいたの、音沙汰なしでみんなどんなに心配したか」
「ごめん、ごめんね」
肩をゆすぶられて傷に触れて顔が少し歪む。
「お姉ちゃん、肩を怪我したからそこはちょっと」
「怪我? あんた何されたの、救急車呼ばなくちゃ」
「古傷だからそこまでしなくていいよ」
「何言っているの。警察と救急車呼ぶわよ。どこで何していたかきっちり話してもらうからね」
興奮している従姉妹を抱きしめながら、溢れた涙が止まらない。
立っていられなくて、ずるずると床に座り込む。
「お父さんと、お母さんは?」
「え? 叔父さんと叔母さんは仏壇よ。あんたが戻るまでは納骨はって延期して、そのままに」
「私がいなくなってどれくらい経つの?」
「二年半」
「そっか。時間の流れは一緒なんだ」
「あんた、何言って……」
従姉妹のいぶかしげな声に答えられずに、彼女に抱きついて声を出して泣いた。
目に入る首飾りの紋章に涙は止まらず、目が溶けてしまうのではないかと思うくらいに、子供のように泣き続けた。