幕間 長い夜の中で
離宮に移る日は思いのほか早くきた。そんなに大きな建物ではなくて、定期的に掃除などもしていたらしい。手を入れるといっても簡単に掃除をしたり、生活に必要なものを運び入れたりする程度だ。
それまでの間、寝台の上で王弟が押収したという神官長の覚書を読んだ。召喚された伝説の娘の記録と合わせると、神殿が王妃になった娘を取り込んでいく様子が、まるで巣にかかった獲物をたぐり寄せて捕食する蜘蛛のように思える。
多くは感謝と信頼だけで神殿と良好な関係を築いているのに、ところどころで脅迫を用いて支配したらしい神官長の例がある。
自分の前に命を落とした事例は、神官長の記載としてはそっけなく事務的だ。
『婚儀前に事故により逝去』
ただこの事故の真相は、神官長が知っていたのだから密かに伝えられたのだろう。この時は次の祭典で別の人が迎えられていた。
国王からは大公の手記と一緒に、自分に宛てられた手紙もよこされた。王弟が必ず付き添っているので、国王だけと内密の話ができない。離宮に移るまで王弟は隙を作らせてはくれない、らしい。
大公の手記は国王に宛ててはあったけれど、自分も関係したところがあるので何度も読み返す。やはり印象的なのが『物事の裏を読取れ』の一文だ。その目で国王と王弟を見ると、また違って見える。
そこにつけこむしかない。
手紙の方は誰もいない時に封を開けた。とても綺麗な筆跡だと思う。
中の文章に目を走らせる。きっとこれも書斎で静かな面持ちで書いたのだろうと、その光景が目に浮かぶ。数枚の紙に書かれた内容は、手記と同じくらいに重い。読み終えて思わず溜息のような大きな息をつく。
これも手放せない品になったので、封筒には適当な紙を折って入れ、手紙は油紙のような水をはじくものに挟んで携帯と同じように包帯で腕に巻きつける。
三角巾で吊った中には例の短剣も仕込んである。あとお金があればこのまま逃げ出せそうなくらいだ。
団長は姿を現さなくなった。ただ色々と動いているらしいのは、こちらによこされた信頼できる部下、という騎士から聞かされている。
妹の侍女は叔母の公爵夫人の屋敷に一時期身をよせることになったらしい。
「叔母が体調を崩したらしいので、見舞いかたがた行って参ります」
「お大事に」
こちらの方が重傷ですよ、と笑われてそれもそうかと肩を撫でる。痛みは鈍いものに変わり今は密かにリハビリをしている。ずっと寝台にいたので体力が落ちているほうが問題なので、少しでも動くようにと部屋を歩いている。
表面上は何事もなく過ぎていっているが、心中はそうはいかない。
離宮に移ればきっと向こうも、こちらも動けるのだろうと相手の様子をうかがうような、嵐の前の静けさのような息詰まる日々だ。
考えれば、こっちに来てから緊張していないことなんてあっただろうか。
南の一時の平穏な時でさえ髪の毛を染めて、ばれないようにと過ごしていた。
王城に戻ってからはなおさらだ。眠りも浅くなって夜中に何度か目を覚ます。寝室に他人の気配があれば眠るどころではない。
そんな時の夜は長い。
彼女は叔母の所に、彼は――動静がつかめない。国王への対応と王弟の出方を考えると自分の計画はひどく甘いのだろうと思う。
もっと簡単にもっと確実な方法が、相手にはある。
それをしないのは、単に今はする気がないからだろう。
王弟のことはどんなに考えても理解ができない。あの人当たりのいい笑顔の裏にあったものは、今も思い出すだけで鳥肌がたつようだ。
そんな人物が今度こそと手を伸ばしてくる。
夜にめぐらせるそれは緊張の糸だ。ゆっくりと確実に張り詰めて振動で動きを伝えてくれるけれど、いきすぎれば切れてしまう。
長い長い夜が明けて、声がかけられる。
「お早うございます。離宮の準備が整いました。人の少ない時間にお移りいただくようにとの伝言がございます」
「参ります」
目にうつる早朝の景色は幻想的で美しい。
この白の神殿が内実は真っ黒だったように、朝の光も本当は闇の中ではないかと思えてしまう。
明けない夜はないという。でも。
本当の意味での穏やかな朝を迎えることができるんだろうか。