幕間 ある大公の手記
大公の手記は流麗な筆致で記されている。
大部分は神殿の動向、神官長の言動やそれへの対応で占められている。
最後の方に、国王に当てた文章がつづられていた。
この手記を読んでいるということは、私は既にこの世にいないだろう。
おそらく残された時間もそう長いものではないだろうが、いささか古い話から始めることとする。
年よりの繰言と思ってくれていい。
伝説の娘として召喚された母は王妃となり、兄と私を生んで父を喜ばせた。
子供の目から見ても父との仲は良好で、側妃を持たずにいたことからもそれは証明されるだろう。
母は、父を愛していた。それと同じほどに傾倒していたのが、自身をこの世界へと召喚した神殿と宗教だ。
口癖のように『こちらに召喚してもらえなかったら、死んでいたから』と私の髪の毛をなでながら優しげに目を細めたのを覚えている。
次期国王としての教育が詰め込まれていた兄に比べ、少しは身軽だった私は母の供をしてよく神殿へと赴いたものだ。
神殿で召喚の陣を写したものにわくわくして、神の不思議な奇跡の話に目を丸くして、神官達の祈りに目を閉じて聞き入った日々は少なからず私の宗教観に影響を及ぼしているだろう。
母は自身を召喚した神官長とは特に懇意にしていた。
命の恩人となれば、その態度も別におかしいものではなかった。
だがある日手を取り合って寄り添う二人を見てしまった。おそらく深い意味はなかったのだろう。その後も母は父への態度を変えることもなかったのだから。
問題はそれを一緒に目撃した人物だった。
その学識と信仰心の強さは他の追随を許さず、力にも恵まれて次期神官長と噂されていた――今代の神官長だ。
「おやおや」
たった一言で、その何でもないはずの光景に一方的な判定を下したのだ。
母を揶揄されたことで私は頭に血が上った。だがそれすらも彼の思う壺だった。
受け流せば良かったのに私が反応したことで、その光景は意味を持ち証拠として、いや、彼にとっての脅迫材料となったのだ。
それからの彼は私に毒を流し込むようだった。
「王妃様がご自身の領地からの税を相当額寄付してくださいました。神官長様の喜びようはひとかたならぬものがあります」
「地方の神殿の拡充を、候補地に所領のある貴族に訴えてくださったとか」
いずれも母が信仰心に篤かっただけの話だ。それを表面ではほめたたえながら、目だけが別のことを告げてくる。
神殿が後見の母に神官長との醜聞が持ち上がれば、王妃であり、世継ぎを生んだとはいえこの世界の出自ではない母の後ろ盾はなくなるに等しい。なにより貴族社会にちらとでもそんな噂が流れれば、あっという間にそれが真実になってしまう。
いわれのない中傷で苦しむ母を見たくなかった。
父には相談できる内容ではなかった。今考えればそうするのが最も迅速に事態を沈静化できたのだろうが。
その時には自分が母を守るのだ。母を守れるのは自分しかいないと思ってしまった。少年らしい視野の狭さと潔癖さと笑ってくれてもいい。
そして私は母のように少しずつ、しかし母とは違って容赦なく『協力』の名目で縛られることになった。
彼は私を『祈り』に誘う。実際に長い時間祈りはする。その後で彼の講義を受ける。実際には砂に水を吸わせるような際限ない要求に応じるために。
皮肉にも私も信仰心に篤いと評判をとるようになった。
その頃の祈りの中に込められていたのは呪詛だった。
彼がいなくなれば済む話だと実行に移しかけた時期もあった。
それを彼は絶妙に封じた。講義の際に面白い話だと前置きして、召喚にまつわるいわば裏面史を伝えてきた。
王族にすら閲覧させない代々の召喚事例は、主に伝説の娘に召喚にまつわる状況や元の世界のことを聞き取り記されたものと、召喚に関わった神殿側で記したものが残されているのだと。
国王の伴侶としてやって来た歴代の娘の、明るみになれば恥になりうる過去を、次の召喚の参考にするというお綺麗な名目で記録する。
王妃が物乞いをしていたことや、近親者に襲われかけたこと、その際に生じた絶望で召喚されたのなど知られてはならない。不安な中で神殿で過ごすうちに生まれる依頼心や思慕もそこには記載されていて、公になれば王家の威信は地に落ちる。
神殿側の記述はその弱みをどう神殿の発展に利用したかという、ある意味脅迫の書でもあるという。
召喚が続く限り王家は神殿に食い荒らされる。
絶望にまみれながら私は決心した。召喚制度とともに神殿も、少なくとも腐った考えを持つ下種を滅すると。
決意した日から私は積極的に神殿に関わるようになった。
彼は私を支配できたとほくそ笑んだことだろう。時期が来るまで私は彼にそう思わせることにした。
母が病を得たことで、神殿との関係が物理的に遮断されたのをいいことに、私が母の代わりを務めるように誘導した。
父が亡くなり、兄が王位についた。
兄の召喚には私も立ち会った。不安と絶望を瞳に宿した美しい女性――義姉となった人に抱いた印象はそれだった。
彼女は何としても神殿から、彼から守らねばならない。
召喚を司った彼の、思惑から。
義姉は連れてこられた不満からか、神殿への不信感を抱き神殿には利用されなかった。
兄と心が通えば幸せであっただろうに、兄には義姉の心を開かせることができず、結果義姉は憂慮のうちに王家の一員となった。
神官長になった彼は、義姉も兄も支配ができずに先代ほど神殿への配慮がなされない状況に苛立っていた。
人前の彼と、私だけの前の彼とはまるで別人だ。
そう、いわば蛇のように絡みつき、逃げられないように動きを封じて獲物を捕食していく。あるいは毒針をうちこんで動けないのを楽しむように、時間をかけてからめとる。
私はすすんで贄の役割を担った。兄を廃して私を王位にと彼が考えるほどに、よくできた人形のように振舞った。
その一方で彼に知られないように彼の行動を記録し、神殿に流した金の動きも記録する。
いつか来る裁きの日の証拠となるように。
彼が兄夫婦に害を及ぼす前に義姉が、失意の兄も抜け殻のようになって過ごした後に亡くなった。
王位は兄の息子のお前が継いだ。
甥たるお前は優しい子で正直王位は重荷だろうと思われた。
彼――神官長は私をせっついて野心に満ちた義理の弟をたきつけた。優しい方が気が弱く動かしやすいのではと思ったが、正当な血筋のお前より側妃の息子の方が出自に引け目を持つ分、懐柔して支配しやすいと考えたのかもしれない。
私としては非情ではあるが、どちらが王位についても良かった。
これで負けるのならとても国王としてはやってはいけまい。
優しいだけなど、すぐに重圧に潰されてしまう。人の汚さを知り、それをねじ伏せる強さがなければ生きてはいけない。どちらでも愚昧な国王なら、私が神官長もろとも討てばよいだけの話だ。
歴代の伝説の娘の犠牲の上に座るのだ。覚悟をもって王冠を戴け。
お前に傷は残ったが、賭けには勝てた。これで神官長もしばらくは手が出せない。
お前の弟は同腹の兄弟なので亀裂を入れるのは難しく、またあれの性格上もやすやすと他人の手駒になるとも思えない。
私は領地の経営に専念しつつ、大公派と言われる派閥を作り上げ、その仲介を神官長にとらせた。
これら今後の不安材料になりそうな貴族達も、不正の証拠とともに名簿を作成しておくので神殿と神官長と共に処断するがいい。
お前の召喚の顛末を聞いて正直呆れた。母である義姉上を見ていたのだから召喚そのものを止めてくれるかと期待していたのに、『伝統』の言葉に疑問に持たず召喚を行った挙句に、娘を牢に入れたなどと。
私がお前に忠告したのをきれいさっぱり忘れていたようだな。それとも、嫌いな叔父の言うことなど聞く耳を持たなかったか?
案の定、お前は娘に嫌われたようだ。まあ、神殿にも取り込まれなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
神官長はお前と娘の婚儀をあげることを第一目標に、徐々に神殿と関わらせようとするのを第二目標にすえたようだ。
神が絶対な神官長は、娘が婚儀を挙げようとしないのは召喚を否定すること、ひいては神を否定することに繋がると考えていた。
そこには自分の支配の及ばなかった義姉上への遺恨も含まれていたように思う。
小さな警告を繰り返していたが、お前が意外にも再召喚を承諾したので事態は仕切りなおしになった。
もし再召喚がうまくいっていれば、最初の娘は間違って召喚したことになる。神官長はその矛盾には耐えられなかったと思われる。お前が国王なのが悪いとさえ考えて、私に内乱の準備を強要していたことからも混乱ぶりがうかがえる。
私はそれに乗るふりをした。内乱が起これば、おそらく局地的なものであり国土が踏み荒らされる前におさまるだろうが、誰がお前の味方で敵かが明確になる。東の国王も乗じてくるだろう。
できればこれも破って対岸の砦を奪ってほしい。あれは目障りだ。
南に逃げた娘を見つけ、密かに監視させ必要に応じて保護させたのは神殿だけではなく、お前の妄執からも守りたかったからだ。
追えば逃げる。嫌がる者を無理に縛ってもますます嫌われる。
もう少し女心について考えろ。
東に連れて来た時点で、私も娘――彼女にとってはお前と同類だろうが。
彼女は気が強く見えたが、同時にもろい。この世界で気を張って、張り詰め続けて痛々しいと思うくらいだ。
だが義姉上よりは強い。流されない。
私は彼女なら神殿に屈しないだろうと思う。だが存在を疎まれる危険がある。
可能なうちは私が守るが、かなわなければ以後はお前の役目だ。
私と彼女は抑圧された中に活路を見出そうとしている点で似ていると感じた。口で追い込むそぶりを見せるのは正直楽しかった。どうにかしようと知恵を絞る様子は、ほほえましいとさえ思えた。
それに頼もしい助っ人とやらも入り込んでいる。
彼女が逃げれば私の負け、そのまま側に置ければ私の勝ちだ。結果は、お前も知っての通りだろうが。
お前と、伝説の娘、それに民をも巻き込んである種の改革をなそうとするのだ。命果てるその時まで全力でいかせてもらう。
皮肉にも私は神殿を憎みはしたが、神を信じている。
神の加護がお前にも、彼女にもあることを願っている。
最後の忠告だ。物事の裏を読取れ、そして汚泥にまみれようともお前は輝く存在としてあり続けろ。
王家の存続を願うなら悪しき因習を断ち切れ。血筋に疑いを挟ませてはならない。
国王へと手記を返し、王弟は考え込む国王を一人にしようと自室に戻った。
窓の側に立って外を眺める。こめかみを指で押し、しばらく目を閉じてから側近に弔いの花を用意するように命令した。