67 さようなら
残酷描写があります。
「は、あっ……っ」
痛い、痛い。鼓動に合わせて肩が、殴られた頬がずきずきと脈打つような痛みを訴える。
それなのにひどく寒くて四肢が震える。
刺された。もちろん初めての経験で、こんなに痛くて怖いなんて。
食いしばる歯の間から呻きがもれてきて、勝手に涙もこぼれてくる。
「これで、終わりだ」
神官長の宣告が妙にはっきりと聞こえる。
終わり。これで終わり。
脳裏に両親の顔が、親戚や友人の顔が浮かんでくる。そしてこちらの人の顔も。食堂の、王城や騎士団の。
国王や、そして――。
無事な方の手で握っていた騎士団の紋章に力を入れる。
「こんなことになって残念ですよ。――さようなら」
神官長が短剣を振り上げる。この期に及んでも目が閉じられない。
国王は少し足がふらつき気味だったが、それでも倒れるのは矜持が許さないとばかりに床を踏みしめる。
団長は国王陛下と王妃の部屋の護衛を従えて、ともに神殿へと向かった。
相手は神殿の最高責任者だ。後のことを考えると、できうる限り穏便に秘密裏に処理をしないとならない。付き従っている者達は少人数ながら腕は申し分ない。
神殿で神官長が戻ってくるのを待ち、それから証拠に基づいた本人への尋問を始める。
祭典の最中になんとも生々しいなりゆきだと、重い気持ちで夜明けにはまだ間がある暗い中を無言で進んだ。
神殿は今日の式典を前に静かにその威容をさらしている。
人々の信仰の中心となる場所は、王家とも密接に関わっている。
そこの住人があろうことか謀反、反逆の片棒を担いでいるとはにわかには信じがたい。しかも高潔で広く尊敬を集めている神官長となれば……。
できるだけ人目に付かないように王族と神殿の上層部が知る入り口から潜入する。
物陰に隠れて、一人でやってきた若い神官を羽交い絞めにした。
「静かに、声を出すな。国王陛下が神官長に用がある。城下から戻ってくるのを待ち受けたい」
神官長の部屋に案内しろ、と続けた団長に、まだ若い見習いかもしれない神官の肩がぴくりと揺れた。
「あ、あの、神官長様はもうお戻りのはずです。奥殿に向かわれているお姿を拝見したような気が……」
「なんだと?」
国王と団長は顔を見合わせる。侍従長には早朝と予定を伝え、実際にはそれより早く戻ってきている。
偶然か、それとも故意か。
「それはいつのことだ」
「あの、ええと、祭典の連なる祈りの交代時間のことですから……一刻ほど前です」
祭典の間中、神殿では昼も夜も続けて三日間祈りを捧げる。交代制になっていて、この若き神官は祈祷の場から出た際に見かけたとのことだった。
団長の膨れ上がる威圧感におされて、それでも必要な返答をする。
「神官長を探す必要があるのだ。神殿内を捜索させてもらう。このことは誰にも言うな」
脅しに神官が頷いたので拘束をとき、国王は団長と目配せをかわして団長は背後に連れてきた護衛の者を振り返る。
「探せ。そして連れてこい」
事態が飲み込めずにいる神官をその場に残し、張り詰めた気を漂わせて大股に奥殿へと歩を進めた。
しばらく探しても神官長は見つからない。神官長の部屋にもだ。
残っている場所は。
「召喚の間、王族の控え室、伝説の娘の部屋か」
王族の控え室にも誰もいなかった。
召喚の間には入れないことになっている。その隣の部屋を開けて団長ははっとした。
近寄って確認したが、目的の人物ではない。
「神官長が伝説の娘の部屋に用があるとも思えないのですが」
「帰還のことで関係があるやもしれぬ。行こう」
その部屋は神殿でも奥まった場所にある。ちょうど召喚の間の向こう側だ。廊下を歩き、その部屋の前まで来た。
「鍵があいている」
不審を覚えそっと扉を細めに開けて中の様子を探る。最初の応接用の部屋やその奥の居間になっている部屋には誰もいない。
だが、その奥の寝室に人の気配があった。
くぐもるような呻き声と、それにかぶさるように神官長の声が聞こえた。興奮に震えている。
「――さようなら」
扉を開け放ち、国王と団長は室内へとなだれこんだ。
明かりがともされた室内で目に映った光景は――悪夢のようだった。
短剣を振りかぶり、今にも突き下ろそうとしている神官長、その顔は血にまみれている。
握った短剣の切っ先には血の色。
そして、寝台の上には肩口を血に染めた娘の姿。
「神官長っ」
厳しい国王の声に、娘の胸に短刀を突き刺そうとしていた動きが宙で止まる。
振り向いた神官長の目には驚愕があったが、その時にはもう団長が肉薄していた。
ものも言わずに下から振りぬかれた剣の軌跡とは別の何かが、宙を舞った。
一拍遅れて苦鳴が上がる。
「ぎゃああっ、腕が、うでがああっ」
短剣を握った右腕が床に転がる。たまらず寝台に崩れそうになる神官を団長は蹴り飛ばして床に沈めた。悲鳴と血しぶきを上げる神官長の、切断した側の上腕を踏みつけ喉元に剣先を突きつける。
完全に動けなくなったのを見て取って、すぐさま寝台の傍らへと大股で近づく。
娘は目は開いていたが顔色が真っ白になっていた。頬が腫れて唇の端が切れ、その赤が目を射る。
そして肩口の赤が不吉なほどに鮮やかな花のように、寝衣と寝台の敷布に広がっている。
「おい、しっかりしろ」
無事なほうの頬に手をやり、呼びかけると目の焦点があったのか娘の視線が団長をとらえる。
「……ど、して? でも、嬉しい……」
ほっとしたような顔つきになった娘は、のろのろと右手を動かして左手首に通した輪に繋がっている物を探る様子を見せた。
訳が分からないながらも手首から輪をはずして、右手に持たせる。
娘は親指を動かして二つ折りになったそれを開き、そこに並んでいるものを押していく。
最後に長いことある一点を押し続けたかと思うと、それを団長の方におしやるそぶりを見せた。
「これは――」
受け取って娘の顔を見ればかすかな笑みが浮かび、掠れた小さな声がきれぎれに聞こえた。
「守って、誰にも渡さない……で」
そして細く長い息を吐く。戦場でよく見た、消えゆこうとする者の最後の吐息に似ていた。
どうしようもなく不吉な予感が広がっていく。
「しっかりしろ、おい、医者を呼べ。早くしろ」
背後の護衛に怒鳴って娘の手を取る。末端が冷たい。
出血がひどいせいだろう。その冷たさが死を連想させる。
「聞こえているか、死ぬな。頼む」
大声で呼びかけると閉じかけた目が開いた、震える睫毛がひどく美しく見えた。
唇はかすかに動いたが、もう声にならなかった。
国王は団長に遅れを取った。団長が腕を切り飛ばし神官長を床に沈めた時、娘の側に駆け寄った。
手を取ろうとして、できなかった。
娘が待つのは自分ではない。そして突っ立ったまま、娘と団長の様子を見守った。
――入り込めない。
護衛の者が医者を呼びに走り去った後、溜息を一つついてきびすを返し、床でいまだに体を曲げている神官長へ歩み寄る。
「止血をしてやれ」
平坦に命令して、神官長の側にかがみこむ。
「へ、いか……」
救いの手を期待したらしい神官長に、国王は酷薄な笑みを見せた。
「安心しろ、死なせはせぬ」
安堵で力が抜けそうな様子の神官長に、ことさらゆっくりと優しげに声をかける。
「簡単には、な」
込められた意図を察して顔面蒼白になった神官長に関心を失い、国王は立ち上がり背を向ける。
部屋に満ちる血の香りに、神殿にはそぐわぬその香りに国王は瞑目した。