66 これで終わり
「昔話をしましょう」
寝台の横に椅子を持ってきてそれに座り、神官長は穏やかな声で話しはじめた。
あたかも信者に神の教えを説くような、そんな雰囲気だが手に持っている短剣だけがそれを裏切っている。
娘は動かない体がもどかしい。
さっきの王弟には身の危険を感じたが、今は命の危険をひしひしと感じる。
きっと神官長が言った『最後の説得』が引っかかっているのだ。
心臓の鼓動は早い、どきどきと音まで聞こえてきそうだ。
神官長が話すのを聞きながらなんとか指先だけでも動かせないかと、意識を集中させる。
「私が神殿に入ったのは子供の頃でした。初めて見る荘厳な神殿に圧倒されたのを覚えていますよ。祖父の年頃の神官に連れられて、神の像の前に立ったんです。その姿が目に入った途端、周りの音が消えて私の世界は神だけになりました」
思い出すかのように少し顔を上げて、懐かしむような目つきになった。
過ぎ去りし時の思い出。それは神官長には余程強い印象を残したのだろうことは、表情から分かる。
「素晴らしかった。全てを包むように赦すように慈愛に満ち溢れた表情と、眼下の私と目が合うのではと思わせるほどに穏やかな眼差し、ふっくらと笑うような口元は何度見ても感動しますが、それでもあの時に受けたのはまさしく衝撃でしたね」
口をあんぐりと開けて見入っていたと、その時の神官からはいつまでも笑われました、と懐かしそうに言葉を紡ぐ。
子供が圧倒的な存在に初めて出会った時の衝撃は、畏怖を伴う。それだけに忘れられない。神官長はしみじみとした口調になった。
「あの至高の存在を信じ、教え、広めるのが私のやるべきことだと、子供心に使命のように感じました。その意味では私は幸せです。
一生をかけて惜しくない素晴らしい生き方を、あんな時期に決められたのですから」
神官長については前に神官から聞かされたことがある。
神童と評判で例外的に早くから神殿に入り、ひたすらに信仰の道を深めて人格、学識ともに申し分のない神官に成長したと。
神の教えを広めることを使命として、市井に、各地に入って教えを説いて回ったと。
「神について学ぶほどに感激は深まりましたが、それが極まったのが――伝説の娘の召喚でした」
自分に関係のある話に移ったので、はっとして神官長を見つめる。
かすかに頬を紅潮させて目をきらきらさせて、その姿は子供がそのまま大人になったように興奮を表に出している。
見られていることも気にせずに、神官長はその感動を表現した。
「あれこそ神の奇跡の顕現です。他の世界から人間を、しかも国王陛下に相応しい方を文字通り界をこえて呼び寄せる。
目の当たりにした時、この身は震えました。そして確信したんです。神の教えがあまねくこの地を覆う、そのためにより神殿の権威を高めるために働くのが私に課せられた使命だと」
それからはより一層意欲的に活動したそうだ。
聞きながら、この話がどこに着地するのだろうかと考える。宗教は確かに素晴らしい。召喚なんて無の状態から有を生み出すようなことが可能ならなおさらだろう。
目の当たりにすれば奇跡としか思えず、それを可能にした神殿と宗教に尊敬と盲目的な信頼をよせるのも当然だろう。
ただ、何故だろう。それが危うく思えるのは。
「私が立ち会った召喚でいらしたのが、先々代の王妃になられた方です。この方はご存知でしょうが、命が危うかった瞬間にこちらに召喚されたのでそれはもう、神殿に、神に信頼を寄せてくださったのです。
あの方は熱心な信者になってくださって、様々に便宜をはかってくださいました」
「……それは素敵な話ですね」
母親の影響で宗教熱心になったと、笑った静かな顔を思い出す。
「ええ、召喚を担当された当時の神官長へ寄せられる信頼も、この上ないものでした」
そこで神官長の笑みが変わったように思えた。ただ昔を懐かしむそれから、どこかほくそえむようなものに。
嫌な流れになりそうで、それでも話を引き伸ばさないといけない。
体が動くようになるまで。誰かが助けに来てくれるまで。
「王妃様はお子様を二人お生みになり、跡継ぎを残す責務を果たされてご立派に王妃として振舞われました。
神官長と王妃様、そんなお二人の間に信頼と敬愛の情が結ばれているお姿は、物語のように溜息をさそうものでした」
「なにが、言いたいんですか」
「あなた様は、なにを想像しているんですか?」
逆に聞き返されて息がつまる。見下ろしてくる顔は口の端は上がり、笑みを刻んでいるのに目が笑っていない。
酷薄な、と思ったいつか見た表情だ。
「あなた様は例外でしたが、通常召喚された伝説の娘はしばらく神殿で過ごされて、その間にこの世界のことや神のことを学ばれます。
突然別の世界に来て混乱される方も少なからずいらっしゃるので、神殿にいらっしゃる期間は人によって変わりはしますが平均すると割に長いでしょう。その間にどんな感情が育っても不思議ではないということですよ」
頭ががんがんしてくる。おぞましさが背筋を這い登って吐き気すらしてくる。
神官長がほのめかしているのは、まさか。
「神官は高潔なのではないですか?」
「勿論そうです。王家の血筋は尊く、そこに余人の血が混じる余地など微塵もありえません。歴代の方々は神殿が後見をつとめました。
皆様、養い親となった神殿には大層感謝してくださったようです」
即座に断言する神官長だが、その言葉はうすっぺらく感じられる。
自分にもされた検査を思い出すと、血筋に疑いがないのはそうだろうが。
「神に傾倒するあまりに、持ちうる全てを捧げるような方も中にはいらっしゃいます」
続いたそれに、びくり、と動かないはずの体が跳ねた。
気付いた神官がまた穏やかな笑みに戻る。
「おや、体が動きますか。やはりあなた様の精神力は強いと見える。陛下のよい支えになるでしょうに。察しのよいあなた様のことだ、先々代の王妃様が神殿に施された気配りがどれほど神殿を発展させたのか、それが双方にとっての幸せであったかも理解していただけることでしょう」
「感謝の念からでしょう」
「ええ、その通りです。さすがに理解が早い」
ほのめかす内容のどうしようもないおぞましさは、まだ体を震わせる。それが指先まで来た時にぴくりと動かせた気がした。
そっと指先をシーツに押し付けてみる。いくぶんか痺れも消えて、感覚はまだ鈍いけど自分の意思で動く。
内心でほっとして、動く範囲を広げようと頑張ろうと思う。
「誤解なさらないでいただきたい。王妃様のお子様は陛下とそっくりです。王妃様は陛下が召喚を望まなければ死んでいた身、と陛下へも感謝をし、愛情をもっていらしたのですから」
「それならなぜ、私にそんな話をするんですか」
「ああ、私が言いたいのは精神的な愛の話です。それこそ神の教えにある、愛です」
こんなところで宗教論議も変な話だ。つまりは精神的に先代の神官長と先々代の王妃は結びついて、結果神殿が大いに栄えたということか。
そんな思いも、神官長の言葉でぶち壊しになった。
「大公殿下も母君のお姿をご覧になったせいか、実に熱心な信者になっていただいて。我々にとって心強いことでした」
「……私に分かるように教えてください」
「つまり、王弟殿下に今後お願いするように、『祈り』に来ていただいたということです」
王家に絡みつく蔦――そんな連想が浮かんだ。
神官長と王弟のやり取りは、今後の脅迫をうかがわせるに充分だった。それと同じことを大公にもしていたとなれば。
ようやく、教えに争いを避けるようにと明記されているのにも関わらず、熱心な信者だったはずの大公が内乱を先導するような行動を起こした理由が分かった気がした。
「陛下の義理の弟の件も……」
「そんなこともありましたね」
さも今思いだしたような言い方だが、全部神殿が、神官長が裏にいたとなれば見え方が変わる。
大公を前面に王位を狙わせる。成功したあかつきには神殿の勢力も頂点に達するだろう。
「時が移り、私も召喚を行うことができました。あの感動は言い表せませんね。神を感じ、神の選んだ方が現れる。身内を駆け抜けたなんともいえない力の奔流こそ、神の力だったのかもしれないと思うほどでした」
感動のあまりか神官の手が少し震えた。でも次にはその表情が曇る。
「しかし私が召喚した先代の王妃様はご不幸でした。あの方は神殿も厭われて、大公殿下には協力していただいたとはいえ先代の神官長のようなわけにはいきませんでした。
私は神殿の隆盛につとめる義務があるのです。衰退など赦せるものではありません」
「赦さなかったから、大公殿下を焚きつけたんですか?」
「――いいえ。大公殿下ご本人の意思ですよ」
「とても、そうは思えませんでしたが」
言った瞬間、神官長に胸倉をつかまれる。一度引き上げられて、また乱暴に寝台に放された。
はずみで肘が曲がって手が胸の上に置かれる形になった。
「あなた様は本当に小賢しい。頑なに陛下を嫌がるから軽く脅しをかけても動じない。挙句再召喚を言い出す。あなた様の願ったのは神をないがしろにする行為に等しい。
でも神は正しかったのです。再召喚で誰も来なかった、それこそが神があなた様を選んだという証明に他なりません」
失敗した再召喚で一人動じなかった神官長。神の思し召しと言い切ったあの口調。
神は絶対だと信じているからこその台詞だ。
「それが王城を逃げ出してしまわれた。所在を確認して接触しようと思った時には、すでに大公殿下の手の者が監視を始めていました。様子見をしているうちに東の都に移送されてしまいました」
「待ってください。大公殿下の内乱が成功したら私は大公妃になったかもしれないんです。それは、矛盾するのでは」
「大公殿下の性格からはどこまで本気であなたを手に入れるつもりがあったのか、は疑問ではあります。大公殿下は召喚制度に疑念をもたれておいででしたから、あなた様を自由にするおつもりだったように思えます」
手が服の下の固い物に触れる。気付かれないように指先に意識を集中してそれを上へとたぐり寄せる。痺れはまだ残ってうまく動かない。それでもこれに賭けるしかない。
「まあ、召喚された方が別の方となど赦されるものではありません。ですから」
「存在を消してなかったことにすると?」
「あのまま大公殿下の企みが成功していた場合の話です。結果は、大公殿下は敗れ、あなた様は王城に戻られた。今度こそ陛下と、と思っていたのですがね。
ご婚約が成立して、私は婚儀を司るのを楽しみにしていたんですよ」
冷たい目が見下ろした。初めてその中に怒りがあるのを感じる。
言いなりにならない、思い通りに動かない自分に対しての。王弟が自分に向けたのと同じ眼差しを。
「私が帰還を言い出したから?」
「神を否定など、見逃すと思いますか? 王弟殿下も帰還に関しては意見が一致しましてね。大公殿下がいなくなってどうしようかと思っていましたが、今後は殿下がよい協力者になってくれそうです」
「脅迫するんですか?」
「人聞きの悪い。協力を求める、といったところですよ」
間違った生徒を諭すような、そんな言い方に笑ってしまいそうだ。
ゆっくりと指先は動き続ける。もう少し、あともう少しすれば……。
「ここまで聞かれて、お考えを変える気はありませんか? 私はあなた様の資質が惜しい。神殿側がここまで内情を晒したのは初めてです。
ああ、いや、過去にお一人だけ。あなた様と同じように帰ることに固執された方がいらっしゃいました。不幸な結果になりましたが」
「……先代の王妃様のことですか?」
「いいえ、婚儀の前に亡くなられた方ですよ。その方も逃げようとされたとかで、不幸なことでした」
「殺したんですか?」
「さあ? ただそれで神の権威は守られました。それが答えです」
神がよんだ娘が国王と結婚しないなど、神を絶対視する神殿関係者には容認できない。それなら結婚する前に消去してしまえば、神の権威は損なわれない。
狂っている。
「先代の王妃様が不幸だったのは、知っている人も多い。それこそ、召喚制度が絶対ではない証明じゃないですか」
「神を――愚弄するのですか?」
神官長から表情が消えた。
いやにじっくりと顔を眺めたと思うと、ゆっくりと短剣を鞘から抜く。
ゆらり、と立ち上がる。
背筋が凍りながら手探りの感触が、布越しから実体になったのに気付いた。
焦りながら先端のキャップを外そうとする。手、動いて。お願いだから、動いて。
寝台に腰掛けた神官が、のぞきこんでくる。頬を撫でながら短剣を振りかざすのがスローモーションのようだ。
「神のご加護を」
「冗談じゃ、ないっ」
装飾部を握りこんで振り抜く。苦痛の呻きに見やれば神官長が顔を手で覆っていた。
頬から額に赤い筋が走っていた。
鬼のような形相の神官長から殴り飛ばされて、気が遠くなりかける。
ためらいなく振り下ろされる短剣に身を捩ると、左肩に鋭い痛みを感じた。抉られるその痛みに一気に汗が噴出して息ができなくなる。
のたうつ自分を再び仰向けにして、肩を押さえたその顔は血に濡れて醜悪だ。
神に最も近い存在が聞いて呆れる。
「苦痛を少なくしてやろうと思ったのに。筋書きは帰還の陣の構築式が間違っていたのを知って、絶望のあまり自害したとしてあげましょう」
「殴られて肩に傷がついていて、それは無理」
「では、どこか高い場所からでも落としましょう。これで、終わりだ」