63 夜
広間には厳選した――とはいっても娘にとっては多数の人がいた。一斉に入ってくる国王と隣の自分に注目している。
緊張して少しだけ足さばきが乱れそうになった瞬間、なだめるように取られていた手が握られる。国王はまっすぐに前を見て、堂々としている。その様子に落ち着いてきて、国王と歩調を合わせた。
それに、今は顔を晒しているわけではない。額から頬の半分くらいまでを仮面が隠している。公爵夫人がほのめかしていた最後の趣向は、仮面をして臨む夜会だった。国王のものは目の周りだけを隠す黒いものだ。
『これなら顔を見られないから、いいでしょう。何しろあなたは恥ずかしがり、なのだから』
仮面は後ろではリボンを使ってつけている。そのリボンを器用に結った髪に組み込んでアクセントにしてあった。
確かにこれがあるだけで、気が楽だ。そのままだったらこのドレスも恥ずかしくて、とっくに逃げ出しているだろう。肩がでていて背中もかなり開いているドレスは、素のままだと絶対に無理な代物だ。
仮面もして、コスプレのような感覚になっているからこそ着ていられる。
国王は段差を設けて上段になっている椅子のところまで来て、正面を向いた。
皆が国王に注目して広間は静まり返っている。侍従長がグラスを渡してきたのを手に取って、おもむろに口を開く。
「春の祭典の初日の、記念すべき夜会によく来てくれた。本日の夜会は東での競り合いにわが方が勝利した記念でもあるし、ここにいる我が婚約者の披露目の場でもある。皆、楽しんでくれ」
そしておもむろにグラスを高くあげた。
「勝利に、そしてわが国の安寧に」
広間の人々もグラスを手に唱和する。国王が夜会の開始を宣言し、華やかな夜が始まった。
娘は国王の隣に用意されている椅子に座った。音楽が流れ、貴族のきらびやかな衣装とざわめきが現実感を伴わない。
おとぎ話の舞踏会のようで、そこに自分がいて、しかも国王の隣だなんて。
「良く似合っている。それは公爵夫人の見立てか?」
「ええ。なんだかすごく恥ずかしいんですが」
肩から鎖骨、胸元が美しいラインを描いているのを国王は間近で堪能する形になった。
娘の正装姿は初めて見るが、こんなに似合うとは思わなかった。仮面で隠してはいるが黒い瞳は明かりを受けてきらきらしているし、唇は色をのせて艶めかしい。場の空気に興奮しているのか仮面で隠されていない頬がうっすら紅潮していて、非常に魅力的だ。
ふといつまでもこうして、隣にいてほしい思いが生じて国王は目をまたたかせた。都合のいいそんな夢は明日には消えるのだと頭では理解しながらも、側で微笑む姿をつい想像してしまう。
決して実現しない夢想は、娘が仮面をつけているせいで謎めいて現実離れしてみえるからか、なかなか消えてくれない。
だが仮面をつけていなかったら、その姿を人に見せたくないだろうと断言もできる。
娘が隣にいてくれる最後の夜と思うと感傷めいたものが湧いてくるが、浸るまもなくダンスの時間が来たようだ。最初は自分と娘、あらかじめ選ばれた数組が中央で踊り、それから自由に踊る流れだ。
娘に手を差し出すと、そっと柔らかな手が乗る。広間の中央まで連れてきて、向かい合った。片手は背中にやり、握った手も肩口あたりまで上げる。自分の腕に手が置かれて姿勢は整った。
楽師が音楽を奏で始める。それに合わせてのダンスが始まった。初々しい緊張感が伝わって、つい口元が緩みそうになるがうまく誘導してやるのが男性側のつとめだ。随分と練習したらしく、いくぶんか笑顔は固いが優雅に踊っている。
くるりと回るたびにドレスがなびき、その曲線は見る間に形を変える。
ドレスはこんなに簡単になびくのに、結局最後までなびいてはくれなかった。
この曲が終われば、好奇心丸出しの貴族達に取り囲まれるだろうか。皆、王妃となる者に売り込みをかけたいのだから。
対応策はとってあるとはいえ、手を離したくない。
「なかなか上手いではないか」
「ありがとうございます。――夢の中にいるみたい」
ようやく慣れたのか自然な笑顔で言われる。あやうく自分まで夢に引きずられそうな気がして、手に力を入れた。
いつまでも続けばいいと願った音楽が余韻を残して終わった。触れた手を離す。目の前で膝を折って礼をするのを見つめる。
黒い髪の毛、黒い瞳。自分の伴侶となるべくここに現れたはずの相手は、明日には消えてしまう。
――どこにもいかせたくない。
もう一度その手を取りたいと思い、慣例からは外れる行為なので踏みとどまる。
弟が申し込んで、再び踊り始めるのを貴族達に囲まれながらも視界の端で追う。
その頃には多くの者達が踊っていて、音楽と人の声が重なり響きあう。
大公派――叔父上よりと記されていた伯爵と当たりさわりのない会話をしながら、広間の様子を探る。今夜の招待客に加え仮面を付けるのをよいことに監視と護衛の者も通常より多く配置してある。杞憂かもしれないが何故か落ち着かない。
明日を控えて平静でいられないからだろうか。そのような様子は周囲に気取られるわけにもいかずに、仮面の奥に押し込める。
何事もなく終わればよいが。そう思いながら窓から幻想的に庭を照らしている月を眺めた。
「練習の時よりもずっとお上手ですよ」
「雰囲気にのせられちゃったのかもしれません」
踊るのも二度目になり、なにより衆人環視の中で国王と踊るよりはずっと気も楽だからだろう。
ふわり、と楽しげにドレスも揺れる。
「先ほど兄上と踊っている姿は似合いの二人に見えました。今からでも遅くはありません、ここに残られる選択肢はありませんか?」
「殿下、それは……」
冗談めかしてはいるが王弟の目は本気のようだ。ただ、ここに残れば自分としては『詰み』になってしまう。
国王との未来を考えない以上、帰還するのが最善の手段だ。
もとより決意を覆せるとは思っていなかったのか、王弟はしみじみと呟いた。
「――残念です」
そして気を取り直したように、人だかりのできている方に注意を向けた。
「御覧なさい、ご婦人方は黒髪に夢中なようだ」
公爵夫人とそのお友達が夜会に黒いかつら姿で出席していて、それが目新しさから注目を集めているようだ。
女性の流行はこんなところから生まれることも多いらしい。若い貴族令嬢達が飛びつけば、使用人達から広まるかもしれない。
傭兵が仮の店員として働いている店は、既に黒髪のかつらを多く用意していると聞く。流行らなければ大損だろうに、どうなることやらと商魂のたくましさには感心している。
「もうすぐ曲が終わりますが、このまま抜け出しましょうか。他の男性とあなたが踊ると兄上の機嫌が悪くなる」
明日のこともあるし、早めに引き上げたいのは娘も同じで、何気なく扉のほうへ移動していたところを公爵夫人につかまってしまった。
夫人の黒髪は見慣れなくて、それだけに新鮮だ。侍女――今夜は侯爵令嬢も。きれいに巻き毛をほどこした黒のかつらを着用している。
仮面もそれを引き立てて現実離れした印象をつくりあげている。
「どう?、私達の黒髪は」
「よくお似合いです。髪の毛が黒い方を見ると、ほっとします」
仮面の奥の瞳が楽しげに細められ、夫人は扇を開いて顔を寄せてきた。内緒話、だ。
「明日以降、あなたがどうなさるかは分かりかねるけれど、何かあれば連絡をよこしてくださる? 私も、お友達も悪いようにはしないつもりよ」
「ありがとうございます」
わざと、やろうとしていることを聞かない。それが処世術なのだろう。でも何かあれば協力すると約束してくれる。
側で侍女も笑っている。仮面の奥でつん、とするものがあり涙がでてしまいそうだ。
何だかこの世界は女性の方が強くて優しい気がする。そう言うと笑われてしまった。
「さあ、恥ずかしがりさんにはこの辺りが限界ではなくて? ゆっくりお休みなさいな」
公爵夫人に後押しされるように、王弟と扉を抜けて控えの部屋に入る。
数人の護衛が既に控えていた。椅子に座ってお茶を飲むとひどく喉が渇いていたのに気付く。
「おいしい」
「緊張がほぐれましたか? 人の目というのはなかなか怖いものでしょう」
王弟の言葉に頷く。広間で一挙手一投足をずっと見られていた気がする。
値踏みの視線だ。
こちらでの身分や後ろ盾はない。恥ずかしがりという触れ込みを信じたのなら、取り込みやすいと思ったのだろうか。
「伝説の娘の取り巻きになりたい者は大勢います。ゆくゆくは王妃になられるわけですから、側近になれれば名誉であり虚栄心も満たされます。
その上権力も持てるかもしれない。皆、必死ですよ」
帰還するということは中枢のごくごく一部しか知らない。自分に媚を売っても無駄足になるから、こうして早めに退散したのはいいことだ。
二杯目のお茶を黙って口に運ぶ。
少しだけ話をして、王弟は広間に戻った。代わりに王弟の側近という人を残してだ。いかにも有能な秘書のように見える。こちらでは文官というのだろうか、壁際で無表情に立って控えている。
自室は護衛の人達が重点的に広間周辺に割り振られているので、今戻ると警備が手薄だからとこの控えの部屋にいる。国王か王弟、公爵夫人と侍女しか入室できないのだと聞かされ、護衛に余分な負担をかけないように大人しくしていようと考える。
広間のざわめきが少し離れたこの部屋にも聞こえ、まるで潮騒のようだ。
控えの部屋にあった本を読んで時間を潰していると、護衛の人数が確保できたからと王弟から伝達があった。
その人達に前後を守られて部屋に戻る。結った髪をほどいて仮面を取った。
ようやく現実に戻った気がしてほっとする。明日には、本当の自分に戻る。黒髪と黒い目が珍しくない大勢の中のありふれた、何の変哲もない自分にだ。
ずっと望んでいたことが実現するのに、すっきりしない。
入浴して濡れた髪を拭いながら考え込む。手紙でも残そうかと思い、それは偽善だろうと頭を振る。
何も残さない方がいい。自分の気が軽くなるだけのことはするべきじゃない。
大きく息を吐いて、帰還のための荷物をまとめて寝室に持っていく。着ていた服、携帯。神官からもらった陣の写し、失敗した時のことを考えたこちらの服とお金。
そして短剣。それは枕の下に置いて首からさげているものを取り出して見つめる。騎士団の紋章のそれは一年以上もずっと肌身離さずにいた。
はじめは純粋に護身用に。それから後は大切な品として。そっと紋章の装飾部分を指でなぞる。
「最後に、会いたかったな」
それはどちらにも良くない、と分かっているんだけど。ぽすんと寝台に横たわって枕に顔を埋める。決めたのは自分なんだから未練を煽るまねは良くない。繰り返し自分に言い聞かせる。
しばらくしてから片手で寝台の横の床に置いてある袋を引き寄せて、中から携帯を手探りで取り出した。
神官の唱えてくれた帰還の呪を、その不思議な旋律を目を閉じて聞き入る。
再生が終わるとマナーモードにして、録音一覧を眺める。召喚と再召喚と帰還。そのどれもに振り回される羽目になったのを思うと苦笑いがもれる。こんな思いも明日まで。
どうか明日の帰還は成功してほしい。でないと悲しすぎる。
そうしているうちにたまっていた疲れのせいか、目蓋が閉じてくる。
電源を切らなきゃ……そう思いながら携帯を握る手が緩んだのまでは覚えていた。
違和感を感じる。体が重い。夢の中で体が動かない時があるが、そんな感じだ。
温かい何かが包み込む。何だか息も苦しい。
外からの刺激に、意識が引きずられる。目をあけた時には大きな何かが覆いかぶさっていて、唇を塞がれていた。
身が総毛立つ気がして一気に覚醒し、体の上の山を押しやろうと手を当てる。反対にきつく抱きしめられて身動きがとれない。
何これ、誰、いやだ――。
口に出したいのに実際にはくぐもったうめき声しかあげられない。
ようやく口が解放された時は息があがって荒い呼吸を繰り返す。
それ、は耳元でひどく優しい声での囁きを落とす。
「ずっと、ここに。元の世界には――帰さない」
その声と内容に目を見張るしかなかった。