58 思いの交錯
今までの客室が二つは入りそうな広さに、分不相応という単語をしみじみ感じながら娘は湯を使った。
警備の人数も増やされて、入室こそしないものの浴室や寝室も扉の前に複数立つようになっている。
寝室も無駄に広い、としか思えなかった。天井が高くて窓が大きい。逃亡しないようにとあてがわれた部屋と違って、とにかく眺めがいいようにとの配慮らしい。
ここに自分の前の黒髪黒目の娘さん達が暮らしていたのだと思うと、不思議な感じがする。
寝室に通されてやっと一人になれた。
探検気分で部屋の中をうろうろする。扉を開けて続いている部屋を確認したり、壁を少しずつ叩いてみたり。壁の一面で随分と時間をつかい、さすがに眠気を覚えて部屋の中央に目をやる。
大きな天蓋つきの寝台がいやに存在感を示している。その近くには侍女が気を使ってくれて寝椅子にもなる長椅子を運んでくれていた。寝椅子だと、さっきまでの光景を思い出させるだろうからとの配慮だろう。
しかも背もたれが寝台の方向においてあり、横になれば寝台を視界に入れなくて済むようになっている。気をつかってもらってありがたいと思うと同時に、この天蓋つきの大きな寝台は運び出すだけで大変だろうとも労力を考える。
長椅子と寝台の間に立って、両方を見比べる。
両方ともにろくな思い出がなくなってしまった。長椅子の方がとも思うが、今日の出来事を考えると長椅子では何かあった時に逃げられない。寝台なら最悪反対側に転がったりもできる。
ややためらいがちに近寄って、ゆっくりと寝台の端に腰掛ける。ぎしりという音に、軽く沈む体に、反射的にこぶしを握ってしまった。医者と産婆との時間がよみがえる。
最悪と思っていた時にさらに追い討ちをかけてくれた出来事だ。あれから寝台を見ると吐き気すらして、部屋も代わり寝椅子で体を休めるようになった。
今も決していい気分ではない。ただあからさまに命や身体への危険をほのめかした寝椅子を使った脅迫よりは、もう時間も経っている寝台の方がいくらかはまし、程度に思えた。
寝具の上掛けをめくって身を滑り込ませる。枕の下に団長からもらい、傭兵が細工した短剣を忍ばせて横たわる。寝返りをうって音がしないように注意しながら、とても眠れそうにはないけれどとにかく目を閉じる。
国王は酒を飲んでも結局はあまり酔えなかった。白々とした思考で醒めていく、そんな気分だった。
考えなければならないことが山ほどある。娘の部屋を襲撃した者の正体と意図、公爵夫人に提案をして始めた試み、召喚制度の見直しは神殿との対応の変化に繋がる。そして団長を含めた娘との今後だ。
叔父の大公の後始末に加えて、東の国の不穏な動き。東からと王弟からの報告をあわせると、事態は祭典前後が焦点になる。
これに国内貴族がどう反応するか。北と西の国は一応の盟約があり、静観の構えではあるが信頼しきるほどおめでたい間柄でもない。武力の分散は避けなければならないが、ここで一気にくすぶり続けた東の国との決着をつけたくもある。
また東に遠征する必要があるかもしれない。
その際の娘の処遇にも頭を悩ませている。連れて行きたいが、東には団長がいる。だが連れて行かねば王城ですら危険かもしれない。
――寝室に入り込んで挑発する輩がいる。
誰の命を受けたのか。実行犯は誰なのか。少なくとも城内の人間が関与しているはずだ。うかつな者は近寄れない。
言い換えればあそこに忍び込んだのは、かなりの手練れということになり、侵入を許したことは警備上でも失態だしこちらの威信にも関わる。
つらつら考えてはいるが、つまりは隣の部屋に娘がいることから意識をそらしたいだけなのかもしれない。壁を隔てた向こうに焦がれる存在がいる。眠る、という最も無防備な姿を晒している。
剣を突きたてられた寝椅子の惨状を見つめる眼差しには、多少なりの動揺が見て取れた。どんなに抱きしめてなだめて守りたいと思ったか。
「未練がましいとは、余のことか」
自嘲しても娘への渇望が消えるわけでもなく、欲望は理性で抑えているに過ぎない。
隣には――直接行ける通路がある。その気になりさえすれば、寝ている娘の所に誰にも見咎められずに行くことができる。眠る姿を眺めて、その体を組み敷いて、かつて一度しか味わっていない唇を貪って、名実ともに自分の、自分だけのものにして――。
諦めようとしたのに物理的に接近されると、その決心が鈍る。
ただ病で寝込んだ時、熱で自制心が鈍っていてさえ娘が自分に寄せる感情の中に恋情はないのはよく分かった。病人への同情心だった。あれに憐憫が加わっていれば耐えられなかったかもしれないが。
だから、ここで自制するのが娘と自分にとっても最善であるのも分かっている。
自分にとっては辛い試練になっても、だ。加えて。
「祭典前の夜会、か。趣向を設けているのが幸いだろう。でなければ……」
その際、自分の視線は浅ましく娘に吸い寄せられるだろうことは目に見えている。
情勢が不穏な状況で開く夜会に不安がないではない。ただ、春の祭典前は社交の幕開けでもあり、この時期に茶会であるとか夜会であるとかは大小取り混ぜて行われるのも慣例なので、取りやめるわけにもいかない。
ことに叔父の件が済んだばかりだ。こちらの状況を探る貴族や各国の要人がいる。ここに有名無実であれど、婚約者となっている伝説の娘を出さないわけにもいかない。
娘の今後を考えて公爵夫人と計画した趣向だ。成功させなければ娘が不憫だろう。
娘を自分のところから放すために動くこっけいさも、やるせなさも自業自得と割り切っているつもりだ。それでも、と思うのが未練なのだろう。
「どこまで余をかき乱すのだ。今夜はとても眠れそうにないな」
溜息とともに吐き出して、国王は書斎へと向かった。
朝の光で見る王妃の部屋はさらに豪華に見えた。優美で手の込んだ装飾や調度で彩られている。侍女が起こしに来てくれたのに合わせて、身支度をする。
「寝台で、お休みになられたのですね」
「色々、比較してそちらを」
寝心地としては抜群なはずなのに、よく眠れず少し気だるげな娘の様子に侍女は少し眉をひそめる。
何かを決心した様子の娘は、これまで以上に人を踏み込ませない領域を作っている。その境界線は、どうしてもこの国の人間である自分にも越えさせてくれない。同情はしても、いざという時は立場や制約に縛られる。
不甲斐ないとは分かっている。
そして自分よりも兄がその縛りから、娘を傷つけた。何事をも捨てる気概はありながら、娘のために捨てられなかったのは分かる。どうしても将来を考えると駆け落ちよりは、と筋を通そうとしたのも分かる。
だが、結果はいたずらに不幸を招いただけだ。
父のしたこともそうだ。今の父は志願して辺境の守りに赴いている。兄の不始末をすすぐ意図もあるようだ。
それでも、自分達一家が娘にしたことは赦されないだろうと思う。
簡素な服に着替えて朝食を取る娘に給仕しながら、今度こそ自分に何ができるか考えなければと侍女は思った。
東への編成に追われながら副団長は襲撃犯の調査を行うが、結果は芳しくなかった。警備担当はいたく恥じ入り、辞職騒ぎまで起こる始末だ。
優秀な人材を、この時期に失うわけにはいかない。最後はこぶしを交えての説得にあたって、副団長は大きな溜息をつく。
国王陛下からは副団長も東へと戻り、一戦に備えるようにと下命があった。無論そのつもりであり、予想していたより大人数の兵も割り当てられた。
何事も早めの対処がものをいう。明日には東へと取って返すことになっていた。
襲撃犯をあげられていないのは心残りだが、信頼できる配下による厳重な警備をしくことしかできない。
団長と再会したら、大公の遺産の状況も確認しないと。
娘のところに出立のあいさつに出向いた副団長は、中でご夫人達につかまってしまった。
扉の内外で直立している護衛達の目が同情に満ちているようなのも気のせいではないだろう。
ただ、最大の犠牲者は自分ではなく、城下から来たというかつら屋の若い使用人だ。
遠慮のない夫人方の厳しい目に容赦なくさらされ、品物を吟味されている。目に映るのは黒髪のかつらだ。これに関しては護衛や王城内、ご夫人方の使用人に厳重な口止めがしてあるらしい。というより、護衛以外の使用人を立ち入らせない徹底ぶりだ。
襲撃直後で夫人方が登城するのもいささか問題だが、ここに来ている夫人達は皆身元ははっきりしているし、一応襲撃のことを考慮に入れたのか今いるのも娘の部屋――王妃の部屋ではなく数ある応接の間の一つだ。
かつら屋の使用人はおどおどしながら、夫人達の注文のかつらを手渡したり、最後の仕上げを施したりしている。
見るともなしにその様子を眺めていて、副団長は違和感を感じた。
器用に、実に器用にかつらを整え、装飾の品を挿していくその手に既視感があるのだ。
それに気付いて副団長は表情を改めた。
娘にあいさつし、部屋をあとにする。しばらくしてかつら屋の使用人が出てきた。扉の側で侍従か侍女を待って出入り口まで案内してもらうようだ。副団長はその役を買って出た。
「ぼ、僕は裏口からの出入りです。騎士様に案内していただくなんて、恐れ多い……」
恐縮する使用人を強引に引っ張り、廊下を歩く。王城の表の華やかな廊下ではない、簡素で実用的な使用人向けの廊下で人目がなくなると、副団長は使用人に尋ねた。
「随分と鍛えた手だな」
「そう、ですか? 店の用心棒みたいなことも兼ねていて、自警団にも入っていますから」
「そういうことか」
「は、はい。あの、なにか?」
にこやかだがわざと殺気を漏らしている副団長に対し、困惑と怯えを隠せない使用人はどもりがちに尋ねる。薄い色目の金髪と青い瞳。ひょろりとした印象の、人のよさそうな顔。
「ふ、ん。お前、面倒は起こすなよ」
「え? はい、それは勿論です」
裏門からそのおどおどとした姿が道の向こうに消えるまで副団長は厳しい目つきで見送った。
その視線を背後にびしばしと感じながら、かつら屋の荷物を持って使用人は城下への道を歩く。
視線を感じなくなってから、さらにしばらくそのままの様子で歩きながら、使用人は目を細めた。その瞬間、気弱な使用人の姿はなく背筋を凍らせるような気を持つ傭兵が現れる。
東で一度邂逅した際には覆面をして、顔をさらしていなかったから副団長には初対面のはずだ。それでも武人の勘はただの使用人でないと察知した。
「さすがは騎士団副団長。見破ってくれちゃって。ただ、見逃してくれたのかな?」
誰が敵で誰が味方か。誰が敵にもならないが味方にもならないか。
瞬時に見極めなければ命を失う。そんな中で研ぎ澄まされた感覚を、副団長も傭兵も発揮したのだ。
「それにしても、手、か。人目に触れるから厄介だなあ」
しみじみと手を見つめながらのんびりとした感想を漏らし、ついでに荷物を担ぎなおして、使用人の皮をかぶって傭兵は再び歩き出した。
機嫌よさげな顔には殺気はかけらも残っていなかった。
翌日、緊迫した空気の中を堂々と副団長の指揮する一団が王城をあとにした。
見送る様々な人の思惑の中国を挙げて春の祭典に、そして一部の人しか知らない東での攻防に突入する。
神殿でも祭典に向けて、東での勝利に向けての祈りが捧げられる。
神官も、神官長も国を思い未来の安寧を願って祈る。その姿はひたむきで神々しく、なにかと賑やかな外界と比べて静かな水面のようだった。
神よ、どうか――。様々な祈りを捧げられ、心をこめて清められている神の像は、静かにそこに佇んでいる。その像は何も語らない。
それでも神に祈る。天現の奇跡を知る故に、信仰は揺らぐことなく強固だ。
祈る姿は美しさすら感じさせる。そこに交錯する思いをのせて。
東では団長が、手にしたものを前に呻き声をあげていた。
目が字面を追うが信じたくないとばかりに、閉じられる。目蓋を手でおさえうなだれたが、再び目を開けて確認作業に入る。
読み終えた団長の顔は厳しく、同時にある種の絶望もたたえていた。
書類をまとめ一時、どこに保管しようかと思案する。
そこにも神の像はある。外界の騒動をよそに、孤高と慈愛を滲ませる微笑を刻んでそこにある。
人の愚かさを、知りながらも赦す。そんな笑みにも見えた。