53 結論
執務がたてこんだとかで顔を見せなかった国王と久しぶりに顔をあわせたのは、神官長の訪問からやや日数が経過していた。
午後のお茶の時間に立ち寄った国王は、あまり機嫌がよいようには見えなかった。
「神殿の後見を断ったそうだな」
「私の後見をする利点はなんですか?」
国王はカップを口元に持っていきかけて、中空を見る眼差しになり少し考える。
お茶は柔らかな湯気をあげている。暖炉の火を焚いているとはいえ、広い王城は寒い。娘はカップを両手で包み込んで、手にその熱を移す。
国王が口を開くのを待った。
「こちらに一人も身寄りがないのを考慮して、その分を補うように予算が組まれていたり、王妃との面会にかなり融通がきいたりする。
最も大きいのは王家の縁戚に近い立場になることだ。神殿が後見なら貴族が後見となるよりも中立性が保ちやすい利点はある」
貴族が後見すると、身寄りも知識もない伝説の娘はその貴族の言いなりになりやすい。養女のようなものか。養育してくれる貴族へは遠慮もあるだろう。
「ただ神殿に、というか神官に取り込まれてしまいませんか?」
「信仰心という形で傾倒するなら、別に悪いことではないと考えられている。祖母に当たる方がそうだったな」
「先の国王陛下や大公殿下のお母様ですか?」
「ああ、優しい人だったが子供心にも熱心に信仰していると思ったものだ」
それに比べて――国王の母親に当たる人は神殿から距離を置いた。
意味するところはなんだろう。神官長はとても残念だと言っていた。
「召喚されてから神殿で落ち着かせるのも習いのようなものだ」
「それを陛下は変えたんですね」
極力嫌味にならないように、召喚直後のことを持ち出すと国王も苦笑を浮かべた。
「そうだ。神官も耳飾を付けさせるだけで精一杯だったな」
おまけにあの後も召喚をさせて神官を拘束し、娘に至っては牢の中なのだから長い召喚の歴史の中でも一大事だったに違いない。
痛烈な後悔と、苦い思い出をそれぞれ噛み締めながら、少しの間だけお互いの茶器の音が響いた。
「話は変わりますが、大公殿下が自ら争いを起こしたのがよく分からないのですが。宗教では争いを禁じているはずですよね?」
「――王位が、王冠が魅力的だったのではないか? 一度ならず、今回の件は二度目のことだからな」
大公の話になると、国王の態度が変わった。吐き捨てるように言われたのも確かに大きな理由かもしれないが。
「あまり、王位に執着しているようにも見えなかったんですが」
「執着していない者が傭兵を集めるのか?」
「それはそうですが、でも……」
「やけに叔父上の肩を持つな」
しまったと思って視線を動かせば、整った顔が無表情になると怖さを感じるのだと思わせる、冷え冷えとした雰囲気の国王と目が合った。
その青い瞳に宿るものに、藪をつついてしまったのだと後悔したがもう遅かった。
「そなたの目には叔父上はどう映った?」
「……物静かで、信仰心に篤くて、口では辛辣なことも言いますが本当は優しい人ではないかと」
「無理に叔父上のいる東に連れて行かれたと思っていたが、そうでもなかったのか?」
確かに、と娘は思った。大公の雇った傭兵にまんまと連れて行かれたのだった。
それでも東での待遇は伝説の娘ということを前面に押し出したせいか、悪くはなかった。脱出した日の脅し以外は。
国王は団長だけでなく大公にも嫉妬しているのか。そう言えば王城に戻ってから、大公と寝たかとほかならぬ国王に聞かれたっけ。
考え込んでいた娘は、向かい側に座っていた国王が回りこんで手を取ってから我に返った。
「王城を出てからそなたが余の目の届かぬ場所にいたと思うだけで、胸がかきむしられる思いだ」
「陛下、手を……」
取られた手を引こうとしたが、反対に力を込められる。固い手の平の感触と熱に包まれていると思うだけで、落ち着かなくなり娘は助けを求めるかのように辺りを見た。
侍女と一瞬目があったと思ったのに、そらされる。その上国王付きの侍従が、そっと合図をだして侍女を伴って部屋を出てしまった。
ためらうかのように首をめぐらせていた侍女の姿が扉の向こうに消えた。
「執務に忙しくて、なかなかそなたとの時間が取れぬ」
「その中でも時間は取ってくださっているように思えますが?」
お茶の時間か、食事か。可能な限り国王は顔を合わせる時間を持とうとしていた。
国王はそれを一蹴する。カップを持っていた時よりも手が熱く感じられる、それにおおいに戸惑う。
身をひねって椅子から立ち上がろうとするのに、国王が邪魔をする。
片手は国王に握られて、国王のもう片方の手は椅子の背をつかんでいて、ゆるく囲われる形になっていた。
大公の話題を持ち出したばかりの予想外の展開に、自分の軽率さを悔やんでも悔やみきれない。
「全く足りない。そなたは目を離すと、どこぞに飛んでいきかねない」
「鳥じゃないです」
「鳥なら簡単だ。鳥籠に入れてしまえばいい。そなたは違うからもどかしい」
頭の中で警戒警報が鳴り響く。そこでようやく護身術のことを思い出す。
自分が座っていて国王がかぶさるような形で前に立っている。この状態で、前のように国王に攻撃をしてから逃げ出すのには不利な体勢だ。
「婚約をしたのに、そなたをなびかせる時間が足りぬ」
「陛下、私は国王としては尊敬しています。人間としても見直してきています」
「人間として、か」
「私に気遣いを見せてくれるように、他の人にも優しくなったと聞いています。変わったと思います」
「そなたから余を褒める言葉が聞けるのは嬉しいが、人間としてでは足りぬ。余の望むものは分かっているだろう」
瞬間握られた手に力がはいり、反対方向に体をひねって逃げ出そうとした。行く手を塞ぐように腕が突き出て抱きとめる。
「やっ」
自由になる手で腕を外そうとしても、絶妙の力加減で痛くはないのにしっかりと抱きとめられている。一人うろたえていたのを落ち着かせるように、肩に置かれた手が頭をなでて髪をすく。
「神殿の後見を断ったのも、婚儀をあげたくないせいか」
「……私は……」
「なのに婚約者としてここにいるのは奴のためか」
質問ではない、語尾は下がって断定だった。
婚約して以来禁句かのように口に上ることのなかった存在は、本人が不在でも特に今の二人の間に重く横たわっているかのようだ。
「動静を知らぬことには動けない、違うか?」
「どうして」
「分かるのか、か? そなたを見ていれば分かる。だが、なぜ奴なのだ。叔父上ならまだしも」
抑えていた国王の本心が吐き出される。
どうして大公ならまだしもなのだろうと思わず顔を上げると、妙に座った目で眺められていた。
髪にかかっていた手がすべって頬をなで、顎下に当てられる。
それでも動けずにじっと見つめあう形になった。
「叔父上なら先程そなたが評したような人物だ。余からは何を考えているか分からぬ、決して本心を見せぬ冷徹な、という表現が加わるがな」
本心を見せない、食堂や図書室での大公は確かにそうだったかもしれない。
ただ祈祷所で団長と剣を交えた時は違ったように思う。生死をかけた攻防の中での表情が本来のもので、そして――最後に呼びかけた『神のご加護を』は、慈愛に満ちて温かく耳から入ってきた。
「叔父上ならそなたを不快にはさせないだろう。人物や見識から惹かれても無理からぬ。だが、団長は、余が信頼してそなたを任せたというのに」
二重に裏切られたと苦しげな声が告げる。主従からも友人としての立場からも。
「余が王城から動けない時期にそなたと……」
「へい、か」
「余が悪かったのは分かっている。だがそれでも諦めきれぬ。男として伴侶として受け入れて欲しくてたまらない。そなたの愛が欲しくてたまらない」
そのまま跪かれ、今度は青い瞳が見上げてくる。握ったままの手をそっと持ち上げ、唇が寄せられるのを呆然と眺める。
手を振りほどかないと、手を引かないとと頭ではやるべき行動が決まっているのに、体が動かない。目だけがこのなりゆきを見届けようとしていた。
「無理やりに召喚してそなたを傷つけた。だが召喚がなければそなたに出会えなかった。余が変わることもできなかった。
知ってのとおり余は卑小で高慢で度し難い男だが、そなたが側にいてくれれば更に良い方向に変われる確信がある。
改めて求婚させてくれ。そなたに余の伴侶になってほしいと切に願う」
自分の手に添えられた大きな手がかすかに震えているのに、気付いた。
国王が全てを投げ出しているのだと、その上で求めているのだと理解する。
息をするのも苦しい。心臓が早鐘を打っている。口の中もからからに乾いてしまっている。
それでも答えは一つだ。
そっと、自分の手を引く。びくり、と国王の体が強張った。
伏せた長い睫毛が震えたのが見える。
しばらくそのままでいて、国王は長く細く息を吐いた。
何かに耐えるように目蓋は閉じて、また開かれた。
「……やはり、駄目、か」
何も言えない。国王は大きく呼吸をして、胸が動いている。
それきり沈黙がおちた。
午後の遅い時間だった室内は今は薄暗く、外の日が落ちたことを示唆しているが明かりをつけに来る侍女達も、いつもなら煩いくらいに国王を急きたてる侍従や王弟も姿を見せない。
ふらりと国王が立ち上がる。一旦廊下に出る扉に足を向けかけたが、こちらに戻ってきた。力の入らない足を奮い立たせて立ち上がり、国王と向かい合う。
「そなたにも伝えておこう。団長は、東にいる」
目を見張ると抑揚のない声が紡がれた。
「叔父上の件の残務処理に当たらせている。まだしばらくかかるだろう」
「どうして、私に教えてくれるのですか」
「さて、な」
予想外の回答に面食らっている間に、国王はふわりと腕を広げて囲い込んだ。
ひたすらに優しく抱きしめる。触れ合ったところから静かな何かが染み入る様に感じられた。
国王の悲しみか。寂寥か。
掠れた声が娘の耳元に落とされる。
「婚約は続けよう。破棄すると政治的に面倒なことになる。確固たる地位を失うそなたの身が危険になってしまう。
違うな、未練がましくそなたを縛るだけかもしれぬ。だが――」
「ごめんなさい」
「よい、謝られると余計に落ち込む」
当面の生活は変わらない、と請合って国王は抱擁を解いた。
名残惜しげに髪を一房すくって口付け、今度こそ扉へと歩を進めた。
何も言わず、扉を自分で開けた国王が廊下へと消える。その後姿は頼りない子供のようにも見えた。
更に時間をおいて、侍女が戻ってきた。もう暗くなった部屋の明かりをともし、茶器を片付けながら物問いたげな視線をよこす。
今はそれに応える気力すらない。
婚約をしてから季節が移り、もう春の気配もしようかという時期だった。