50 たくらみ
とりあえずの婚約を発表した国王と娘だが、当然温度差があった。
できる限りそれはなかった事としたい娘と、名前だけでも独占する権利を有した国王との間では深い溝がある。
婚約披露を含めてできる限り表に出たくないとする娘を、重臣にも一応はまだこちらに慣れていないからと話を通してしまったので無理に行事に参加させるわけにもいかなかった。ただ王妃としての教育はする必要があった。先代の王妃はおらず、国王には姉や妹もいない。
誰か礼儀作法を含めて教育してくれる人間をさがさないといけない。
人選をしていた際に、侍女から提案があった。
「私の叔母はいかがでしょうか」
侍女の母親の妹は公爵家に嫁いでいた。身分も教養も申し分ない、しかも数少ない信頼できる貴族の一人だ。
領地を離れて王都の屋敷に滞在しているとのことだったので、侍女を通じて正式に娘の教育を依頼した。
「まずは私の屋敷においでくださいませ」
美しい筆跡でお茶会の招待をよこした公爵夫人の屋敷に娘と侍女は赴いた。
騎士団からの護衛で馬車の前後を守っての、お忍びとしてもいささか大仰な移動に娘はため息をついた。
馬車の向かいの席では侍女服でなく、ドレスを着た侍女がゆったりと座っている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫です。叔母は気さくな人ですから」
亡くなった侯爵夫人の妹に当たり、侍女と団長の叔母になる公爵夫人と聞かされてもどうしても気が重くなる。教育係と思うからか家庭教師のような厳格な女性を想像してしまう。
王城からほど近い、貴族の集まる区画としても一等地に屋敷はあった。
所領にある侯爵の屋敷には行ったことはあるが、王城の貴族の屋敷には初めて足を踏み入れるのでついあちこちを見てしまう。
どこか質実さを感じさせた侯爵家と違って、華やかな印象の公爵家は扉や柱に繊細な彫刻を施していたり、大きな絵や像があちこちに飾られていて、明るく華麗な屋敷だった。
馬車をおりて出迎えられた人に、娘は目を奪われた。金褐色の髪の毛を結い上げて薄青い瞳を輝かせている女性は、優雅にドレスを着こなして周囲をあたためるような柔らかな雰囲気をかもし出していた。
「叔母様」
侍女が嬉しそうに声をかけると、にっこりと笑って侍女を抱きしめた。どことなく少女めいているのに円熟もしている。
全く似ていないのに母親を思い出させた。
「この子は、こんなに近くにいるのに顔を出さないなんて。よく来てくれたわね、また綺麗になったんじゃなくて?」
声も落ち着いていてそれでいて耳に心地よく響いてくる。
叔母と姪の挨拶が済んで、侍女が公爵夫人に娘を紹介する。
「叔母様、こちらが――」
「初めてお目にかかります。本日はお呼びだてして申し訳ございません。この子の叔母で公爵の妻になります」
そう言うとドレスをつまんでお辞儀をする。流れるように美しい仕草だった。
娘も角度などを見習って挨拶とお辞儀をしようとした。
「本日はお招きにあずかりまして、大変嬉しく思っております。色々と教えていただくことになります。どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、お辞儀はなさらないで。会釈で結構ですわ」
微笑みながらも教育は始まっているようだ。身分に差のある者の挨拶、立ち方や座り方、移動の順番などにも細かい決まりがあるようだ。
公爵夫人の案内で、日当たりのよい女性用の応接室に落ち着いた時には疲れを感じるほどだった。
使用人に用意させたお茶やお菓子が並べられる。
まずは見本を、と前置きして夫人がお菓子を取ってお茶を飲む。
「一番身分の高い方が始めないことには、誰も手を出せませんの。ただあなた様が主催される場合は別です。招待客の中での身分の順になります」
「では、私からいただくわけですね」
お茶は王城でも日課のように飲んでいるので問題はなかった。
女性らしくお菓子についての話題になり、今の流行の菓子やお茶の話に移った。
「お茶も産地や種類をわきまえていただくと、そこから話が広がるでしょう?」
いかにも女性らしい、と娘は思った。こんなお茶会やサロンと呼ばれる集まりが社交の場になるのだ。
「服装や髪型、装飾品、庭での会なら季節の花や庭園の様式、室内ならそれこそ建築様式や調度……目に映る全てが話題になりさりげなく褒めるのが大事なんです」
勿論、茶器も大事な鑑賞品ですわ、と駄目押しされる。
なるほど、これは一筋縄ではいかないと感心する。茶道や華道、香道などの伝統的な習い事に通じるような知識がないと恥をかくし話題がなくなるということか。
「加えてお相手の背景を承知しておかないとなりません」
同席者の名前、身分はもちろんのこと、所領のことや親類にいたるまで頭に叩き込めということか。
「お茶会ではまだ人数は少ないですが、夜会になると規模は桁違いですから」
そこで公爵夫人は柔和な顔をふと改める。
「そこで致命的なことをされると、そのまま国の恥につながりますの」
あるのは貴族の誇りとそれを伝えてきた矜持かと思う。会釈をしてお茶を飲む。銘柄は娘にも分かる代表的なものだった。
名前を挙げると嬉しそうに首肯された。
「ええ、筋はよろしいようですね。ふふ、私とても楽しみですの。うちには息子しかいなくて、娘代わりの姪も王城で侍女なんかしているでしょう? だれか育てたくて仕方なかったんですわ。だから今回の申し出に感謝していますの」
育てる――その言葉に侍女を見つめると、苦笑された。
これはかなり厳しく仕込まれたようだ。
「姉が――この子の母親ですけれど、わりに早くに亡くなってしまったのでもう娘のようなものですの。甥の方は父親に連れられて王城に入り浸りで、そのうちにこの子まで。帰ってくるたびに泥だらけ、傷だらけで日に焼けて。淑女にできるのかと本当に気をもみましたの」
「叔母様、昔の話です」
「降るような縁談もあるのに、兄妹もそろって耳も貸さずに王城勤めなんですもの。楽しみがなくって退屈で」
「叔母様を退屈にさせると周囲が大変なんです」
小さな声で呟く侍女の口調には、過去の退屈の果ての騒動が思い出されているのだろう。
きっとこの人は自覚なく周囲を振り回して、そして周囲も困ったと言いながらも赦してしまうのだろう。そんな気がした。
その公爵夫人の目がきらりと光って、娘に向けられる。
「ですから、私の全身全霊をもってお教えいたします」
「よろしくお願いします」
生徒として先生にするように礼をしてしまっていた。夫人はあら、と呟いた後で頷く。
扇子を上手く使って口元を隠すのも手管のひとつのようだ。
「あなた様は先代の王妃様とは違うようですわね。とても――ごめんなさい、面白そう」
興味をもたれたこと、少なくとも悪くとられてはいないことを感じて娘も微笑した。
侍女が席を外した間に、公爵夫人と話をする。
「先程のお話では、王妃の無知で座がしらけたことがあるのでしょう?」
「仕方のない話ではありますが。なにしろ全く別の所からいらっしゃるのだから」
「ええ、でもそれは合理的でないように思うんです。この国で生まれ育った女性ならそんなことはないはずでしょう?」
夫人の目が探るような色になる。
「何を――おっしゃりたいのかしら」
「私はよそからいきなり来た田舎娘よりも、この国の貴族の令嬢や周囲の国の王族の姫の方が王妃には相応しいのでは、と思っているんです」
考えてもみてください、と娘は両手を広げる。
「今から付け焼刃で知識を詰め込むのと、生まれた時から自然に身に付いているのとでは大違いでしょう? 私は、私がいなければ令嬢方は陛下の側妃どまりになるのではなくて、王妃になる道があるのではないかと思っているんです」
「まあ、随分と大胆なお考えだけれど」
「姪御さんを王妃にしたくはないですか?」
視線が合わさる。お互いに強い眼差しで真剣勝負だ。
この公爵夫人が侍女を可愛がっているのは一目瞭然だ。そして娘がいないのであれば、侍女の後見もするだろう。
おそらく娘を持つ有力な貴族達なら一度は考えるはずだ。伝説の娘などにみすみす王妃の座をくれてやるのは惜しいと。
しばらくにらみ合った後、夫人は目を伏せた。
「確かに姪の初恋は陛下のようでしたが」
「今もその気持ちに変わりがなければ、成就させてはいかがですか。姪御さんでなくても、陛下の側にいたい令嬢は沢山いるでしょう?」
夫人の信頼できるつながりでもって、陛下の側を狙えと当の伝説の娘がけしかける。
この奇妙な構図は少なからず夫人を困惑させた。
「でもどうしてそんなことをお思いになるのかが」
「簡単です。私は王妃になりたくないんです」
迷いなく言い切った娘に夫人が絶句した。およそ女性として考えられる最も高貴な身分をいらないと言うとは。
異世界から来たから身分の価値が分からないのだろうか。
「王妃になれば贅沢も思いのままですのに」
「――それに意味を見出せないので」
何かを言いかけてやめた。そんな風に夫人の目には映った。
混乱から立ち直りすばやく計算する。この国では貴族令嬢は王妃にはなれない。側妃か、貴族同士の縁組か、他国に嫁ぐかだ。
喉から手が出るほどに王妃とその縁戚の地位を欲しがる者は多い。
「ただ、王家を弱体化させるような方は困ります」
娘に刺された釘はなかなかに鋭い。どうしても舞い上がり、王家の中枢に口を出したがる貴族はいる。
考えるに義兄たる侯爵に限ってそれはないだろう。忠義一途な人だ。それも見越しての提案なら空恐ろしい。
「――承知いたしました。私の信頼できるお友達の令嬢達を王城によこすようにいたします」
「ええ。立ち居振る舞いや会話を見習わせていただきます」
「私も王城に参りますがよろしいですか?」
「勿論です」
そこに侍女が戻ってきた。夫人と娘が微笑みあっているのに安堵しながら尋ねる。
「お話が弾んでいたようですね」
「ええ。王城に来ていただけることになったんです」
「私も久しぶりのことなので、とても喜んでいるのよ」
そのまま二人してうふふと笑いあう。
侍女は叔母と娘の仲がよくなったようだと、訳は分からないながらも安心した。
育ててもらったから分かるが、叔母は信頼に足る淑女だ。娘を教育すると決めたからには決して手は抜かないだろう。
「それで夫人に教えてもらっている間、同席してほしいんです」
侍女は娘から頼まれて私でよければ、と返事をする。
叔母も機嫌よさげに話をひきとった。
「そうね、見本があるほうが覚えやすいしダンスの練習にもいいわね」
「では、お仕事の邪魔にならない時間帯ということで」
「ええ、息子も連れてくるかもしれなくてよ」
男性との間の作法も教えてもらえるのなら言うことはない。
しばらくは図書室と、夫人による練習ということになるだろう。
「詳細が決まったらお知らせいたします。――今日は本当に有意義でしたわ」
「こちらこそ、ご面倒をかけますが」
最後は貴婦人に相応しい礼をとって公爵家を後にする。
馬車に揺られながら娘は近づく王城を窓から見つめた。
まずは一人。夫人の『お友達』もきっと味方についてくれるだろう。
あとは不用意に消されないように注意しさえすれば。
「楽しくなりそう」
娘は侍女に笑いかけた。勿論無理強いをするつもりはない。
もし、もしもだ。侍女が国王を想うそぶりがあって国王もそれを嫌がらないのなら。侍女でなくても他の令嬢でもいい。そうやって知己を得れば――身を隠す必要がでても前回よりは上手くいくかもしれない。
次は、神殿だろうか。それとも図書室。
「忙しくなりますよ」
「そうね、でも気もまぎれそう」
夕映えの王城は冬の空気に澄んで、綺麗だった。
娘は巨大な建物を眺める。どんなに大きくても、そこに人が住んで人が動かしているのなら付け入る隙はあるはずだ。
夕食は国王と共にだったはずだが、それすら苦にならない気がした。