47 嵐の前
侯爵の去った後で座り込んだままだった娘の耳に、扉の開く音が聞こえた。
のろのろと顔を上げると、侍女が入ってきた。
娘を見てはっとしたように駆け寄り、手をとって椅子に座らせる。娘はされるがままでいた。
「どう、なさいました? 父は何を?」
心配する侍女は団長と同じ茶色の目、茶色の髪で、その顔立ちも男女の別はあってもどこか似通っている。
そして団長と侯爵の方がよく似ている。こげ茶色の目が冷たい光をたたえて見据えたことを思い出すと、今更ながらに身内が凍るような気分になった。
侍女はお茶を淹れて娘の隣に座り、カップを持たせる。口元まで手を重ねてもっていき飲むように促した。
ほとんど機械的に娘はこくりと飲み込んだ。花の香りとほんのり甘いお茶は凍った体と心をほんの少しほぐしてくれる。
「いえ。ちょっと立ちくらみが」
「そうですか。なら……」
自分自身が混乱している娘は、団長の妹に団長の父親から引導を渡されたことは言えないでいた。
何もかもが悪い夢の中にいるようで、立ち直れていない。
そんな娘に侍女はひどく気まずそうに告げた。
「お医者様をお呼びしますので、診てもらってください」
「もう大丈夫です。そんな必要はありません」
「いえ、来ていただきます。その前に簡単に入浴をしてくださいませ」
いつになく歯切れの悪い侍女に首をかしげる。娘の視線に目をそらすなど侍女らしくない。訳が分からないうちにお茶を飲んで、浴室へと連れて行かれた。
侍女が外で待っている間に一人で入浴をした。お湯の温かさも申し分ないが、娘にとってはどうでも良かった。
もう会えないのだということ、国王と婚約してそれを発表なくてはならないということ。
現実はどちらも娘を打ちのめす。浴槽の中で娘はぎゅっと肩を抱いた。
すぐに涙が溢れそうになるがそれを我慢する。医者がくるのなら泣いていては駄目だろう。体温とか心拍とかが狂ってしまう。
体を拭いて侍女の用意した寝衣を身につける。夕方になったくらいだというのに何故これをと思っていると、扉の外から呼びかけられた。
「支度はお済みでしょうか?」
「あ、はい」
扉を開けた侍女に案内されて寝室に入る。そこには医者らしき男性と、老婦人、自分付きの侍女が控えていた。
「立ちくらみがあったとか。診察させていただきます」
寝台に腰掛けるように言われてその通りにすると、医者はその前にもってきた椅子に座って脈を取ったり、目蓋を引っ張ったり口の中を覗いたりした。あまり眠れずに食欲も落ちていたのは事実だったから、診断は軽度の過労とのことだった。
薬もあとで届けられるとのことで、これで終わりだと思った。
と、それまで何も言わずに控えていた老婦人が口を開いた。
「恐れながら、お子様を授かれるかどうかを確認させていただきます」
どういう意味なのだろうと、老婦人を見返す。以前神官が子供が産める女性が召喚される、と言っていたはずだ。子供を授かれるかどうかなど今更確認する必要もない。なのに、どうして。
そして国王とのやり取りを思い出す。団長や大公と関係したのかと尋ねられ、否定したときの『結構』の一言を。
「まさか、とは思いますけど男性と何もなかったことの確認を?」
「……その通りでございます」
「私がなかったと言っているのに?」
「申し訳ございませんが、事実確認を」
手足が先端から冷えて、重くなる。ぎゅっと握っていないと手が震えてしまいそうだ。
震えは怒りからだろうか、情けなさからだろうか。絶望からだろうか。
今や空気は重く、皆が自分の反応に固唾をのんでいるのが感じられる。
泣き喚いて、あるいは怒りに顔を真っ赤にして抵抗しようかとちらりと思った。ただすぐにどこかで冷静な計算も働く。
抵抗してもしなくてもすることは結局は同じなのだ。なら無駄なエネルギーを使うことも馬鹿らしい。
寝室にひどく冷たい声が響いた。自分からなのにどこか他人事のようにそれを聞きながら、医者や老婦人を見る。
「分かりました。確認にどうしても必要な人だけ残ってください。あとの人は出て行って」
そう言い放った娘に表情はなく、それゆえにある種の凄みを生じていた。
目を見交わして侍女達は出て行った。残ったのは医者と老婦人だけだ。
「私は産婆です。お体を拝見させていただきます」
服を脱ぐように言われ無言で寝衣の前をあける。産婆は容赦のなく娘の胸に目をやり手を伸ばした。
ひとしきり確認して、次に寝台に横たわるようにと指示された。
無感動に天蓋を見上げる。
「膝をたててください」
事務的に扱われるほうがいっそ気が楽だ。――その方が、早く終わる。
産婆は必要なことを確認して、侍医に頷く。侍医も最後の確認をした。
「終わりました。ご気分を害して申し訳ございませんでした」
「いいえ。もう、出て行って。一人にして」
それだけ言うと娘は産婆と侍医に背を向けた。背後で扉が閉まる。人の気配がなくなり、かきあわせていた寝衣の前をとめる。
もう、涙も出ない。
ただ寝台に横になるのがたまらなく嫌になり、部屋の隅で寝台を見ないようにそちらに背を向ける。
横たわって体を丸め目を閉じても眠りは訪れない。磨きぬかれた木の床は団長と過ごした山小屋とは比べ物にならないほどになめらかで、隙間風などもない。それでも寒々しく、それ以上に心が冷えていく。
ひどく夜は長かった。
夕食を終えて、国王は侍医と産婆からの報告を受けていた。
「陛下、確認させていただきましたが、何の瑕疵もございませんでした」
「――そうか。ご苦労だった。あれの様子はどうだった?」
「冷静に受け止められて、実に協力的でした。ただ事後お一人になられたいと、食事をとらずにお休みになったようです」
侍医も産婆も経験豊富で、嘘を言う人物ではないことは知られている。この二人が断言したのだから、娘についての噂は払拭されるだろう。
あとは侯爵が娘に条件として出したという婚約発表を行うことになるが、この件に関しては直接娘と話し合う必要がある。
ただ今日明日はさすがに気の毒だ。早くしないと団長が貯蔵庫に転がされる時間ばかりが長くなるので、適当な時期にとは思いながらも顔を合わせた際の娘の反応が怖かった。
冷静に診察をさせたというのが何より恐ろしい。間違いなく娘の自尊心を傷つける行為を、最悪の時期に行ったのに冷静とは。
どれだけの感情を押し殺したのだろうか。
「我ながらひどいことをしている。もう、赦しを請う資格すらないだろう」
それでも手放せない。側におきたい。存在を否定しておきながら身勝手な言い草だと分かっているのに止められない。
事態は娘を王妃へと動き出している。流れを止められるのは自分だけだ。
時間が経過するほど娘を自由にする空気は薄れていくだろう。囲い込む方向に転がっていく。
「再召喚をしたとしても……前と同じだろうか」
自分の執着は増している自覚がある。それが娘をこちらに引き止める要因なら、今や自分だけではない。他の人間も娘を手放そうとはしないだろう。
伝説の娘として認識された以上、消えることは赦されなくなっている。
不測の事態でもない限り。
このままでは母と同じように泣き暮らすかもしれない。原因を作りながら泣かせたくないとする矛盾は承知している。
せめて、少しでも気持ちがほぐれるのを待つしかないだろう。
「ほぐれる日など来ないだろうが」
呟きを落とすと、酒を注いだグラスの表面がさざなみを立てる。
娘の性格からは決して自分の方を向くことはないだろう。それが分かっていながら無理を強いる。それでも欲しい。焦がれている。
――愛など請えない。愛でなくていい。憎しみでも軽蔑でも無関心でもいい。側にいてくれさえすれば、もうそれでいい。
自己嫌悪を閉じ込めるように、国王はグラスをあおった。
侍女は寝室の光景に胸をつかれた。ここ数日寝台に寝た形跡がないのは報告をうけ、自分の目でも確かめていたが改めて床に丸まる娘を発見すると、痛ましい思いが湧きあがる。
侍医と産婆の診察、娘は寝室に閉じこもった。食事もせず、ただ一人にしてくれとそれだけを言って扉を開けさせなかった。
翌朝、ためらいながらも扉を叩くと中から応じる声がした。
部屋に入れば娘はもう起きていて椅子に腰掛けていた。
食事はいらないと、そして着ていた寝衣は二度と着る気になれないので処分してくれと淡々と言われた。
まるで彫像のように、ただ静かに座る娘にそれ以上無理強いはできずに、着替えを持ってきて寝衣を引き取った。
娘は居間になっている小さめの部屋の椅子に座ったまま、動こうとはしない。誰も声をかけられなかった。
お茶を淹れても手をつける様子がない。
昼食は泣きそうな様子の給仕を見て、ようやく飲み物だけを口にした。
あまり続くと本当に医者に診せなければならなくなる。そう心配していた矢先に、床で横たわる娘の姿を目撃したのだった。
侍医と産婆の件は承知していたが、娘の様子を報告に行って陛下から婚約の件を聞かされて合点がいった。
陛下と婚約するということは、兄とは別れたことになる。それに父親が関与したと気付き、罪悪感でいっぱいになった。
あの日、父が面会した後の娘は糸の切れた人形のようだった。なのに、その日のうちに更なる圧迫を与えてしまったことになる。
兄が戻ってくるのを待っていたのを知っている。
自分あての手紙を差し出し、反応をはらはらしながら見守っていた。困難な恋だとは分かっていても嬉しかった。そう言うと花がほころんだように笑ってくれたのに。
その娘に一家で辛い思いをさせてしまった。
どうすればいいんだろう。泣きそうになるのをこらえて床に膝をつく。そっと揺り動かせば眠りが浅かったのだろう、すぐに娘は目覚めた。
「お早うございます。こんなところでは風邪を引いてしまいますよ」
「寝台は――思い出すと吐きそうになって、視界に入れるのも嫌」
その言葉に娘の傷の深さを思い知る。
「では、部屋を替わりましょう」
「どこでも同じだと思う。王城の寝台と思ったら――」
今まで丁寧だった娘の口調はこの数日で変わった。敬語でなくなり、短く小さい声になった。
投げやりで――心ここにあらず、侍女からはそう見える。
それでもこの部屋のままではまずい。
「では部屋を変えて寝椅子を用意します。それにお休みください」
娘はもう何も言わずに起き上がって身支度をする。
そんな娘に更に追い討ちをかけなければならない。
「本日、陛下がおいでになります。お話があるそうです」
「――そう」
まるで関心のない口調。侍女はふるりと身を震わせた。
嵐の前の静けさのように、娘の黒い瞳はどこまでも醒めて見えた。