幕間 東
「ひどい顔しているな、お前」
そう言いながら副団長は笑った。
悄然と、東への道をたどる。心にあるのはただ一人のことだけだ。
国中に祝福されている、彼女だけ。
東への道はやけに遠く感じられた。甲冑を身につけて東へと赴いた時と比べ、身は軽いのにひどく重苦しい。理由など分かりきっている。
それでも進まなければならない。
『あの方が身を挺して守られた』
父の言葉と、返却された権利証と印章つきの指輪が、歩みを一層遅らせている。
情けない、駄目すぎる。どれほど自分を呪っても後悔しても、現実は変わらない。
『お気をつけて。――王城で待っています』
『必ず、あなたのところに戻る』
自分でほざいて果たせなかった約束が身内を苛む。それでも自分に落ち込む資格はない。手段も講じず口だけだったのは自分なのだから。
陛下に渡すつもりはなくても、現実は顔を見るどころか近寄ることすらできなかった。
結果、自分の行動はただの世迷言として何もなかったことにされた。
自分に力が足りなかったから。自分に覚悟が足りなかったから。
どんなに足取りが重かろうと、東の都は遠ざかるわけではなく先だって旅立った場所に戻ってきた。
副団長は、奴はわざわざ門の所まで出迎えにきた。
きっと連れて帰った大公殿下の馬が気になってのことだろうと思ったのに、副団長は馬より先に自分を見つめてひどい顔だと笑った。
――そこに奴の気遣いを感じた。
臨時の指令所になっている場所で状況の説明を受ける。
内部に国王陛下の軍勢が入り込み、その前の火事騒ぎもあって内部の損傷はかなりある。その復興をして国境警備の本来の役割を果たさなければならない。
周辺では、大公殿下が集めていた傭兵が逃げ出して治安も悪化している。それへの対処も必要だ。
到着した途端に待ったなしの案件が寄せられる。
不承不承机に向かったはずなのに、いつの間にか雑念を払い案件処理に集中していた。
「おい、今日はもうそれくらいにしておけ」
書類を取り上げられて初めて辺りが暗くなっていることに気付いた。
夢から醒めた心地でペンを置く。
奴は二人分の食事を用意させて向かい合わせに座った。
「大体のことは察しているが、説明してくれるか?」
「ああ、食事が終わったらな」
それきり奴はこの話に触れることもなく、他愛ないあれこれを聞かせてくれた。
「お前の連れて行った馬、あれはいいな。世話をしながら惚れこんでいたんだ」
自分と同様に潜り込んでいた際に馬丁に扮していた奴はしみじみと呟く。
さっきも自分を気遣ってくれた直後には、もう視線は件の馬に向けられていた。
傭兵が太鼓判をおしたように、あの馬は持久性と速度に優れていた。あの馬で――。
思い出に引き込まれ手がお留守になった自分に、奴の低い声がよせられる。
「おい、話は後だっただろう? 勝手に暗くなるな」
「悪かった」
奴にうるさく言われながらもどうにか食事を詰め込んだ。考えればこんなに食べたのは久しぶりだ。
争乱の最中ではそんな配慮もなく、直後負傷して熱と痛みで食欲は落ちた。
実家の侯爵家では貯蔵庫に監禁されていたから、食欲などあるはずもなく。東への道中だって同様だ。
――彼女は食べられているだろうか。眠れているだろうか。
思考はすぐに帰結する。
今日だけだ、と酒が供される。次々に注がれて気付けばだいぶ飲まされていた。
奴はこちらの顔を見てふうっと息を吐いた。
「やっと見られる顔色になったな。死人が歩いているのかと思ったくらいだった」
「そんなにひどかったか?」
「鏡を見てみろ」
直視した自分の顔は、なるほど確かにひどかった。頬がこけ、目ばかりが普通でない光をたたえて自分を見返している。
あれだけ飲まされてやっと頬に血の気が感じられる程度だ。
「心配をかけてすまなかった」
「全くだ。で?」
「あの方に想いを伝えて王城に送ったが、それきりだ」
「お前、何もせずにあの方を手放したのか」
「俺だって放したくなどない。だが」
「黙殺された、か」
最後の言葉を苦々しげに吐いて奴は酒をあおった。大公殿下の酒蔵に貯蔵されていたうちでも高級品の酒は、既に樽が空いている。
自分も相当飲まされたが、奴の胃にもかなりの量が収められている。
「どうして連れて逃げなかった」
「あの方に苦労させたくなかった」
そう言うと奴はどん、酒の入ったカップを机に置いた。ふうとため息をついた後で、いきなり胸倉をつかみあげられた。口元は笑っているのに目が笑っていない。こんな顔は戦場か馬がらみでしか見られない。
お前は、と言う口調は楽しげなのに何故か背筋が冷える。
「寝言を言っているのか? 寝言は寝て言え」
「俺は寝言など」
「いいや、寝言じゃなかったらたわ言だな。お前が想いを伝えた時点で、少なくとも国内ではあの方は苦労される」
断言されて言葉を失う。
「陛下以外の手を取ったら居場所などなくなる。それを苦労させたくないから手を放しただと? あの方は王城を出てから市井でも充分にやっていただろうが。
二人でいられるなら苦労なんて感じないはずだ」
迫力におされながらも反論を試みる。
「だが、俺の技量では傭兵とか用心棒程度しか……」
「お前なあ、騎士団の団長まで勤めておいてその程度しか自分に価値を置いていないのか? お前だったら近隣諸国は競って欲しがるだろうさ。
軍事的に協力する気にならないとしても自警団とか町のまとめ役には充分になれる。侯爵家の伝手を頼れば地方の役職にも付けるだろうに」
「家に迷惑はかけられない」
「心配するな。お前があの方に懸想した時点で充分に迷惑をかけている」
父の行動を思い返すとその通りだった。
自分を拘束して急ぎ王城に行った父は疲れを滲ませて戻ってきた。陛下や殿下、そして彼女とも話をしたのだろう。
父の身の処し方は見当がつく。自分のせいで侯爵家は王家に大きな借りを作った。
それを感じた父は今まで以上の忠誠を尽くすべく、行動するのだろう。
「ともかく何もなかったということは、あの方にも傷はなかったことになる」
はっと顔を上げれば、胸元の力は緩められて奴の目が細められている。
「ただでさえ大公殿下との噂があるのに、お前の名前まで挙がってみろ。女性にとっては、しかも王妃に目されている方にとっては致命的な醜聞だろうが」
「大公殿下との噂はそれほど広まっているのか?」
「お前も傭兵隊長やってた時に、お二人が見学にいらしたのを目撃しているだろう。大公殿下は隠さずにあの方を連れ歩いたから目撃者は多い、しかも口の軽い傭兵だ。あっという間だった。今もそれがくすぶっている」
大公殿下の計算に違いないが、確かに二人の姿はここで認められた。
「婚約が発表されてってことは、その疑惑も払拭されたってことだ」
「そうか」
「って良かったみたいなとぼけた感想持っているわけじゃないよな?」
再び胸元に込められた力はさっきより強い。
どうしてそこまで感情を読取るんだろうか。
「お前、現状を考えろよ。あの方に傷はついていない。お前にしたって別に罪人ではなくて東の復興にあたる身だ。逆に考えれば堂々と会いにいけるんじゃないのか?」
「無理だろう。第一陛下や殿下がそれを赦すとは思えない」
「正式に話を通せば断る口実がないのはむこうだ。何もないんだから断る理由もない」
詭弁だ。そう思うのに断言されるとそんな抜け道があるのかと感心してしまう。
奴は呆れた顔をする。
「腹の探りあいと言葉尻の捉えあいだろうが、こんなことは。お前は力を付けろ。無視できない、交代させようのない位置に自分を高めろ。
いつまでも辺境において置けないとなれば、あちらから迎えが来る。そうすれば何としてでも王城に入り込め」
一度は何もかも捨てようとしたんだ、それに比べれば簡単だろうと。
奴はにやりと笑って椅子に座った。
「俺はお前より先に騎士団本部に戻ることになっている。情報は流してやる、せいぜいあがけ」
「なんでそこまでする」
「ん? お前は俺の友人じゃないのか?」
「お前は俺より馬だとばかり思っていた」
「馬は可愛いがお前は大事だ。馬は大事だがお前は可愛くはないがな」
いかにも奴らしい台詞だ。それなのにらしくない台詞も吐かれて、ぐっと喉が詰まる感覚に陥った。
「まずはここの復興だ。使用人達から祈祷所の再建をせっつかれていてな、よろしく頼む」
次の瞬間にはもう、いつもの奴だ。
だが、その心遣いがありがたい。
今度会う時には、手放さずに済むように――か。
王都よりも早くに上る朝日に目を細めた。