幕間 茨の道
夜の山では遠くで獣が鳴いている。小屋の中はひっそりと静まり返っていた。
剣を腕に寝ずの番をする傍らでは、想いの通じあったばかりの彼女が静かに寝息をたてている。
長いこと緊張が続いていたのだろう、驚くほど早くに眠りに落ちてしまっていた。
黒い瞳は閉じられ、あどけない印象になっている。
その黒い髪を手ですくい取る。
彼女に告白し受け入れてもらえた事は僥倖だ。
想いが届くなど考えてもいなかったから現実感に乏しいが、腕にしたぬくもりも柔らかさも、はにかんだ笑顔も得がたく愛おしい。
彼女を誰にも、陛下にも渡したくないとの独占欲が当たり前のように生じている。
ただ今後のことを考えると、どうしても気分が重くなるのは止められない。
前途としては障害だらけだ。
陛下への後ろめたさ。陛下の想い人を掠め取った罪悪感。任務と私情を混同した無責任さ。どれをとっても騎士団団長の職には相応しくない。
何より陛下の信頼を裏切った。与えられた任務は彼女を保護して王城に、陛下のもとに送り届けることだったのに、王命にかこつけて自由に動いた挙句に彼女を手にいれた。
陛下に知られれば、どのような反応を示されるかは正直分からない。
不敬として罪人になり、死を賜るかもしれない。充分にありうる話だ。自分だけならともかく彼女まで罪に問われるかもしれない。
一緒に逃げることはどうだろう。追っ手をかわしながら漂泊の日々を過ごす。その先に明るさはあるだろうか。
駄目だ、と頭を振る。
階級をはみ出した者の末路は悲惨だ。元の階級からは蔑まれ決して戻ることはできずに、まともな職にも就けない。せいぜいどこかの用心棒か傭兵くらいしか拾ってはもらえまい。
そんな不安定な生活に彼女をおけるか?
なにより騎士が逃亡するのはそれだけで重罪だ。団長が逃亡など、騎士団の威信も地に落ちる。
実家にも迷惑をかけるだろう。
彼女の目立つ容姿では逃亡生活など続くはずもない。一生この黒髪を偽りの色に染めて目立たずに暮らす。……無理が生じて怪しまれるだろう。
子供ができたとしても、きちんとした教育を与えることすら難しい。
それに彼女をつれて逃げている最中に、召喚の儀が行われたら? 彼女だけ神殿に飛ばされたら?
どれだけ王都を離れようとも無駄なあがきにすぎなくなる。
彼女が帰還するとなれば大問題だ。
自分は果たしてそれを許容できるだろうか。
彼女の戻りたいという気持ちは痛いほど分かる。ただ引き止めたい気持ちを押し殺して迎えた再召喚とは、事情が変わってしまった。
もう戻したくない。目の前から消えてしまうのは国内であっても非常な苦痛と心配を伴ったのに、どことも知れぬ異世界であれば手が届かずに当然目も行き届かない。
伝説の娘の再召喚および帰還は一度は失敗して、陛下は彼女以外の伝説の娘を再召喚をする意欲に欠けておられた。彼女がどうしても戻りたいと言ったら陛下と神殿に帰還の儀を頼まなければならなくなる。万が一、帰還の儀が実現したとして一度元の世界に戻ってしまえば同じ人物を召喚するのは格段に難しくなるのではないか。第一彼女が再び来てくれる保証などどこにもない。
失うことに耐えられるか?
港町で彼女の屈託のない笑顔を見てさえ嫉妬と独占欲を覚えるほどに浅ましい身が、手ずから遠くにやることができるだろうか。
ご両親をきちんと見送りたい、意に染まぬ結婚はしたくない。彼女の『意図』は明確でだからこそ揺るぎがない。気持ちは分かるが手放せない。なんて、自分勝手な。
こうして傍にいてくれることこそ奇跡のようなものなのに、すぐにそれ以上を望む。状況を既得権益のように思って失うまいとする。
「俺は本当に卑怯で自分勝手なのだな」
臆病でもあるか、と続けて少し落ち込む。副団長ならおおげさにそうだ、その通りと笑って背中を叩くだろう。陛下はどうだろう。彼女と自分のことは必ず陛下には伝えねばならない。その上で彼女を諦めてもらわねばならない。
可能だろうか。陛下に報告した後でも彼女に傍らにいてもらえるのだろうか。
無理に王妃にされてしまうかもしれない。陛下にはその権利と実行できるだけの権力がある。
わが国の頂点に立つお方。幼い頃から存じ上げて命をかけてお守りし、お仕えすべきお方。
自分にとって絶対的なお方。
今だってその認識が揺らぐことはない。
ただ彼女に関しては敵対関係になってしまった。自分が陛下と敵対する日が来ようなど想像もしていなかったのに。
彼女を雷雨の時になだめたのでさえ、焼けるような射るような眼差しと感情をぶつけられた。
今や殺されても仕方のない状況だ。
彼女が陛下や他の男のものになったら――すぐにその感情がわきあがる。自分という存在が陛下にその感情を抱かせる。
他のことでなら喜んで陛下の盾となり捨石となる。
ただ彼女に関しては一歩たりとて譲れない。
未来に関してさえ問題が山積みだが、当面の現実的な問題は片付けなければ。
彼女が目を覚ませばここを出て目的地に馬を走らせる。
自分は東に取って返さないといけない。王都を出て東に進軍してる軍勢に合流しなければならない。
陛下御自身がその中にいらっしゃる。決して失うわけにはいかないし、輝かしい御身に敗北の屈辱も与えてはならない。
そのためにも彼女の安全を確保して、東へ向かう。
彼女は政治的、軍事的な配慮から王都に、王城にやらねばならない。
大公殿下のところに伝説の娘がいるとの噂を払拭しなければ、士気が低下しこちらの正当性を保てなくなる。ただでさえ剣を交える相手が陛下の叔父で生粋の王族なのに、伝説の娘がその陣営にいるなどとなればますます兵は萎縮し戦えなくなる。
そのためにも彼女には華々しく王都に帰還してもらわなければならない。
正直、王都になどやりたくない。王城など重ねてごめんだ。
それでもそれ以外の選択肢はない。
「ん……」
明け方近くになり、急激に山の温度は下がる。かすかに身じろいだ彼女がもぞりと体勢をかえて自分にくっつく。
たったそれだけが途方もなく嬉しく、切ない。
彼女を手に入れた。手放す気は毛頭ない。
では守りきって戦わなければならない。陛下や他の男や、彼女を引き離そうとする未来とも。
できるならこの時間が少しでも長く続くように。
彼女から伝わる熱に、容易く体温を上げながら剣を抱く腕に力をこめる。
ようやく教えてもらえた彼女の名前を、最上のものとして胸に秘めながら。