38 宣告
厳重なはずの守りをくぐってきた傭兵は、なるほど腕がいいのだろう。
人の意識を奪ってあっさり契約主に引き渡したのに、呼ばれればなんでもない顔で現れる。
そう思いながら娘は寝衣の上に上着を羽織る。
「こんなにすぐに来てもらえるとは思わなかったです」
「事態が動きそうだろう? だから都を離れずにいたんだ」
戦乱のあるところに依頼あり、そう言って傭兵は人の良い笑みを浮かべる。
「それで僕に依頼?」
「ここの抜け道を探って欲しいんです。予想では祈祷所にあるんじゃないかと」
娘の言い方に傭兵は眉を片方器用に上げた。
「へえ? 大公と話したのかな? 色々彼はしゃべってくれた?」
「少しだけ。とんでもない人物ですね。下手に出て持ち上げられるとは思えません」
「そうかなあ。結構君に話している気がするけどね」
外の警備に気付かれないように低い声で会話しながら、見解の相違とやらに苦笑してしまう。あの狸も狸をどう手の上で転がせと言うのだろう、この傭兵は無茶を言う。
「動きやすい黒い服を持ってきてもらえると助かります。あと一つ、かぎをつけた縄を用意してもらえますか」
「壁でも伝って下りるつもりかな? あまりお勧めできないな」
「いえ、そこの木から下りようかと思っています」
「木って中庭の?」
頷く娘に呆気にとられたような顔をして、傭兵は声を出さずに笑い出した。中庭の木は少し手繰れば何とか手が届く。そんなにおかしいだろうか。娘の方は面白くなくて、腕組みをして傭兵を睨む。
「いや、失礼。まさかそんな方法を想定しているとは思わなかったからおかしくて。だって伝説の娘が木にって……」
「私は庶民です」
ひとしきり笑い転げて涙までながしてから傭兵は立ち上がった。
一息吸い込むともう真面目な顔になっている。
「ご依頼承りました。抜け道の件はどこに続いているか、祈祷所でない場合でもさぐって報告しましょう。その時にご所望の縄も持ってまいります。抜け道の外に馬は必要でしょうか」
ふざけたところのまるでない言い方に、これが傭兵の契約の流儀なのだろうと背筋がのびる思いがした。
娘も立ち上がり、傭兵に向き合う。
「ありがとうございます。それでお願いします。報酬は……」
「今の手持ちってどれくらい?」
さらわれた時につけていたエプロンに入れていた貨幣を全部見せると、傭兵は金貨一枚だけを手に取った。傭兵の相場はよく分からないが、腕利きを自称する、そして実際に有能らしい相手には少なすぎる気がする。
そう言うと、傭兵はにこりと笑った。
「報酬は僕が決めるって話したよね。こんな面白い依頼をしてくれたんだ。頑張っちゃおうかなって思うよ。君にいいところを見せたいしね」
……面白がられている。喜んでいいのか、悔しがるべきなのか。
また夜に来るから、と窓に足を向けようとした傭兵が途中で止まる。
「落ち着いたら会いに行くよ。絶対なくしたくない荷物の隠し場所は格別だったからね。あれ見た時にやられた、と思ったんだ」
「どこよりも安全でしょう?」
「だからってねえ……。お節介ついでに聞くけど、ここ抜け出してどうするの」
「何とか騎士団か王城の関係者と連絡をとって、大公陣営にいないことを公表するつもりです」
「素直に大公とくっついたら?」
退屈が嫌いと公言するだけあって余計なお世話もしてくれる、と思いながらも本気で怒る気にはなれない。
狸な大公と? そして叔父と甥の内乱の賞品よろしく祭り上げられろと。
確かに大公は暴言をはかない。紳士的に接してはくれている。
ただそれは自分が伝説の娘で、手にすることに意義があるからにすぎない。最初から利用すると宣言されていて、それにはいそうですかと頷けるものだろうか。政略結婚はお互いを利用することだから、大公はその感覚でいるのだろうか。
苦笑するような気配でも感じたか、傭兵は少しだけ声の質を真面目なものにした。
「暴言陛下よりはましだと思うけど」
「私は帰ってやることがあるんです。誰とも結婚とか考えられない」
ふと気付くと、傭兵の顔が間近に迫っている。明かりのない部屋では窓を背にしたら表情がよく分からない。
「……そうやって頑なに拒む。それは元の世界の未練だけ? それとももう誰か?」
「いません」
体が少し後ずさる。つめたとも思えないのに傭兵が更に近くなる。
「本当に? 誰の顔も思い浮かばない?」
「どうしてそんなこと、あなたに言わなくちゃいけないんですか」
ぴたりと傭兵の動きが止まり、ゆっくりと腕組みをするのが見て取れる。
少しの間その姿勢で考えた後で静かな声が吐き出された。
「政略結婚なんて相手の顔も知らないのなんてよくある話だ。君は国王も大公とも顔を合わせて話もして、言葉や考え方を聞いたはずだ。
あまりにも帰ることに固執されると、そんなにここが嫌いかとあまりいい気分じゃないからね」
「私は政略結婚をしたいわけじゃありません」
「そうか。前提が間違っていたか、それは失礼」
芝居がかった仕草で腰をかがめて片手で優雅に礼を取って、傭兵は今度こそ静かに窓を開けて外にすべり出た。姿がバルコニーから消えてしばらく経つまでそのままでいて、そっと鍵をかける。
寝台にもぐりこんで横向きで枕を抱えた。
「ああ、もうあの傭兵は」
つい口に出てしまう。本当に風のようにどこにでも入り込んで、服や髪を巻き上げるように引っ掻き回してくれる。
ただでさえ脱出と逃亡ができるか難しい状態なのに、これ以上の面倒を思い出させないで欲しい。
自分は一度帰還に失敗した。
元の世界に帰りたいと願う気持ちは今も変わらずにある。でも帰れなかった。誰かのこちらに引きとめようとする心に、帰りたい心が負けてしまったのだと思っている。
こちらの世界は嫌いではない。親身になって心配して接してくれる人がいる。侍女や騎士団の人達、港町の主人夫婦の顔を思い浮かべると心臓をきゅっとつかまれるような気がした。
これ以上こちらを好きになると、一層こちらに引き止める力が強くなってしまう。自分の中ですら帰還に向けての、元の世界へと願う力が目減りしてしまう。
ここを出て行きたい、内乱の争点にはなりたくない。いつかは元の世界に帰りたい。
寝台の中で方針を指折り数える。そしてぎゅっとその手を胸元で抱きこんだ。
誰か……なんて。
「今は脱出だけに集中しないと」
自分に言い聞かせるように呟いて、首飾りの装飾になってしまったピンの頭に触れる。もうお守りのようなものだ。騎士団の紋章も、ついている黒い石ももうすっかり指になじんでその形を覚えている。
なんとしてもここを出て、それからのことはその後だ。
あの傭兵が準備を整えてくるのがいつか分からない、ただ仕事は早そうだからあまり時間もないだろう。それまでにこちらも準備を整えなければ。その覚悟で眠りについた。
「お待たせしました。ご依頼の件全てそろえてきました」
明るい声で言われたのがその翌日の夜だったのは、あまりにも手際がよすぎて驚く前に力が抜けた。にこにこ顔で差し出された品物と教えてもらえた情報は、こちらの期待以上のもので。
「抜け道の出口に待機しておくね。一応脱出までは料金内ってことで面倒は見るよ」
傭兵の早すぎる仕事に、慌ててこちらの用意をするはめになった。
頼もしい今は味方を得た。焦点はいつ大公やこちらの人を欺いて脱出するかだ。
大公と顔を合わせる朝食時、その時間帯が緊張するのは仕方がない。
低いが通る声で情勢を教えてくれるのは何故だろう。こちらの反応を探っているのだろうが、楽しんでいる気配も見られるのがしゃくだ。
「三日後、出立する」
だから何でもないことのように言われて、理解するのに少しかかった。
口元に運ぼうとしていたカップを元に戻すと、かちゃんと耳障りな音をたてた。
青い瞳は空か氷山のようにやや薄い。それに射すくめられて、何も言えずにその顔を見つめる。
三日。この間に逃げられなければ大公に負ける。
「あなたの自由もあと三日ということだ」
「それで、ここの中がなんとなく慌しかったのですね」
傭兵隊長を砦の中で頻繁に見かけ、侍女頭も忙しいのか側を離れることが多かった。
「どうして私に日にちを教えてくれるのですか?」
「いきなり夜這いをかけられたいか?」
大公の口から思いもかけないことを言われてぎょっとする。
澄ました顔でコーヒーを飲む大公は、余裕たっぷりに見えた。
「王都から国王の兵が移動を開始したようだ。ここまでは人馬では七日はかかる。三日後に出立すればちょうどよい場所で対面できるだろう」
「私がこの情報を誰かに漏らすとは思わないんですか?」
「あなたに正確な情報と判断できるか?」
無意識のうちに、大公の言うことを疑っていないことに気付いて愕然とする。
今までの大公は嘘はついていないから信じきっていた。
「この話は嘘か真か、どう思う?」
しばらく朝食の席で見つめ合う形になった。互いの目から真偽を読取ろうとする静かな応酬だ。
「……真、だと思います」
「正解だ。あなたもその心積もりをしていてくれ。寝室で悲鳴を上げられてはかなわない」
「もしかして、人をからかうのがご趣味ですか?」
「さて、どうだろう」
このまま何もせずにいれば、傭兵の言い方では『大公とくっついて』王都に進軍する羽目になる。
それはなんとしても避けたい。
期せずして大公に追い込まれた形になってしまった。出立はきっと朝のうちとすると後二日のうちになんとかしないといけない。
大公がいつやってくるか分からないとなれば、決行するのはもう。
「何を考えているんですか? 人が悪い」
「私にはほめ言葉だな。あなたと私でどちらに神の加護があるか、それを試す……試すとは神に失礼が過ぎるか。
見届けたいのだ。神が私と国王のどちらを生かそうをするのかもな」
大公と国王が激突すれば、どちらかは死ぬ運命になる。国王は生かしておくとは思えない。一度だけならまだしも今回で二度目、しかもれっきとした武力を伴う反乱だ。
大公が勝てば国王はどうなるだろうか。騒動の種を残さないとするならやはり国王の命はないだろう。いや国王だけではない。王弟もきっと道連れだ。
兵士も沢山負傷したり死亡したりするだろう。
戦争とは無縁だったのに、間近に迫る緊迫感にぶるりと震える。