37 切り札
「逃げ出す算段は見つけられそうか?」
「――大公様」
図書室で何か参考になるような本をと探していた背後からかけられた声に、娘は飛び上がりそうになりながら身をよじった。
見上げると薄青い瞳は何か面白そうな光を宿している。
娘の抱える本の背表紙に目を落とし、これも参考になるだろうと娘の手の届かない上の棚から本を取り出した。
「さすがにここの設計図は置いていない。それに代々の主が手を入れている」
「大公様も何か改修をされたんですか」
「私は祈祷所に手を入れた」
この大公は宗教熱心だという話は王城でも、港町の噂話でも聞いていた。それは本当らしい。朝と夜に祈りを捧げているという話も、ここに来てから目の当たりにした。
宗教に熱心で領民に慕われている大公と、国王の弟をたきつけて謀反を起こそうとし今は自身が火種になろうとしている野心家。どうもそぐわない。どちらも本当のようでどちらも作り物めいて見える。
大公は図書室のテーブルにコーヒーを運ばせて、即席のお茶会になった。
砂糖も何も入れずに飲むので、ポットとカップだけだ。添えられた甘さの控えめな焼き菓子が、コーヒーの味を引き立てている。
「ここの守りをどう思う?」
「とっても警備が厳重です。簡単には逃げ出せそうにありません」
正直に感想を言うと、大公のカップを持った手が止まる。
「簡単にはか」
正直逃げるのはほぼ不可能じゃないかとは言えなかった。部屋の前には護衛が控え、侍女ともどもどこにでもついて来る。ほとんど一人になれる時間がない上に、いる場所が防衛の要のようなのだ。
小娘一人で脱走できるほど甘い場所ではない。
王城の時には布石を敷いて護衛の目をあざむくようにして出てこれたが、ここにはそんなに安易に騙されてくれそうな人も協力者もいない。
「つい、歴史の城攻めを思い出すんですけどね、どれも大掛かりなんですよ」
城を水攻めにした例や反対に堀を埋めた例、抜け穴を掘った例など時間も人手も手間もかかる事例ばかりだ。自分には無理な話だろう。
「あなたの世界の戦にも興味はあるが、最近部屋か図書室にこもりがちとか。私は別にあなたを監禁してはいないのだが」
「噂になっているでしょう? 黒髪黒目がここにいると」
王妃が東の大公の下にいるという話が広がっているらしい。王妃と言っても正確には違うし、王妃になることから逃げていたのだが人がこれをどうとるか。
「私は王妃になるあなたを保護しているだけだ。王城から連絡があれば、あなたを王都にお連れする意思は充分にあるのだが」
余裕たっぷりで本心からの言葉のように聞こえるが、穿った見方だと自分を名目に武装して王都に向かうとも取れる。私兵の他に傭兵を雇い入れる大公に言われても信憑性に欠ける。自分を人質にしている、内乱の意思ありととられてもおかしくないのに一向に構う様子もない。
計算ずくなのか投げやりなのか。そこが読めない。
「下手に動き回って騒動の原因になるのも嫌なので、大人しくしています」
最初の何日かで内部を見て回って結局守りが堅牢なのを確認しただけだった。あとは気晴らしとの名目で馬での遠乗りに付き合わされたり、堀の外側に傭兵の宿舎と鍛錬所をつくったのでそこの見学に付き合わされたりと、大公に振り回された。
そして遅まきながら気付いた。自分と大公が一緒にいることが人からどう思われるか。
『国王は伝説の娘を王妃にする、では逆に考えると伝説の娘を手にした者が国王になるのではないか?』
黒髪黒目の自分と大公が一緒にいる、つまり傍目からは大公こそが国王になるべきなのだと解釈されるのではないか。大公はそう思わせたいからわざと自分を連れ歩いたのではないかと。そう思うと出歩く気にもならず、人目にも触れたくなくなっていた。
大公はカップを軽く揺らして残りを一息に煽った。
「あなたのそういうところは母とも、義姉上とも違うな。二人とも強くはなかった」
「私だって強くはないと思うんですが」
「二度も王城や追っ手から逃げたではないか」
からかいの気配はするが、大公の言ったのは先代と先々代の伝説の娘の話になるだろう。神殿の記録では知っているが、当事者からの見方はまた別だ。大公に話の続きを希望した。
先代の話は弟の目から見てもやや横暴な国王が無理やりという話で、先代の王妃は心を閉ざしがちで憂いがちであったとのことだ。
「母は家を賊に襲われ家族が殺されたところを召喚されたと言っていた。あのまま残っていても殺されるか慰み者の末に売られるかの運命だっただろうから、そこから救い出してくれたような父には感謝していた。
その母から生まれたのに兄は義姉上にひどく執着した。義姉上には元の世界に婚約者がいて、戦地で消息不明になったらしい。ずっとその婚約者に心を残していたからだろうか、しばらくは待っていたのだがある時……」
召喚を感謝した先々代と、元の世界に未練を残していた先代の話は生々しい。召喚がなければ命はなかったと宗教に熱心になった母親の影響を受けたと大公は笑った。
「宗教は平和を望むはずなのに、なぜ国王を挑発するんですか?」
「あれに国を委ねてよいものか疑問でな」
内乱になれば国内が荒れて人が死ぬ。それを承知で事を起こそうとする。実の叔父と甥が争おうとする。
「あなたも争点の一つなのだ、自覚しているか?」
娘の顔を眺めて大公は笑う。
代々の黒髪黒目の娘はいずれも美しいとされる。今回の娘はその中でも変り種だ。国王を嫌がって再召喚をさせたり、王城を逃げ出したりは今までにない。その行動自体が国を揺るがす。野心家の貴族や、周辺国の手に落ちれば駒として利用されるだけでなく、国自体も脅されてしまう。
「あなたが私の手のうちにある、それだけで私に神の加護があることになる」
「私はそんなご大層なものじゃない、ただの……」
「その姿でいる限り、ここではその理屈は通らない」
異世界からやってくる娘はそれだけに神秘的で、畏怖の対象になる。現に国内の傭兵の口から、ここに王妃がいることはものすごい勢いで広がっている。
まずは無事なまま保護できた。あとは人が勝手に解釈してくれる。母にも義姉にもなかった芯の強さと行動力は、計画の不確定要素としてはいささか大きなものだ。
これで逃げられれば士気は一気に落ちる。
反対に最後まで手のうちにおさめられれば、甥を排斥できるかもしれない。
「ある意味人生最後の賭けで、あなたはその切り札だ」
せいぜい利用させてもらう。大公の宣言に睨みつける黒い目は美しく映る。
いささか生に飽いていた身としては、刺激的に過ぎるほど。
「もう少しで準備が整う。王都まで同行願おうか」
「利用されるのは真っ平です」
「なれば、逃げ道を探ることだ。早くしないと名実ともに側に置くことになるぞ」
最後に脅しとも揶揄とも取れる台詞で締めくくり、大公は上機嫌に図書室を出て行った。娘はぐっとこぶしを握った。本を部屋に持っていってもらうように頼み、護衛と厩舎に向かった。
気分を変えるには馬を見ること、馬に乗ることに限る。
噂を恐れて引きこもっていたが、それが無駄なら遠慮はしない。厩舎には最近連れてこられた名馬が、専属の馬丁とともにいた。前脚で床をかいているので機嫌が悪いと判断し、遠くから眺める。
馬丁はそんな馬が可愛くて仕方がないようで、なにくれとなく世話を焼いていた。
「これは大公様の馬になるのでしょうか」
「そのつもりで調教していますが、もう少し時間がかかるでしょう」
馬丁は娘の質問に丁寧に答えてくれた。背が高く粗末ななりながら厩舎にしっくりと馴染んでいた。結局大人しい馬のブラッシングだけをして、厩舎を後にする。
続いては傭兵の鍛錬所に足を向けた。こちらに来る時には護衛の数が増える。荒くれの多い傭兵だけになにかあってからでは遅いとの判断のようだ。
ただ、最近はこの傭兵をしっかりまとめられるだけの器量を持つ、いわゆる傭兵隊長が指揮を執っているらしく傭兵の動きにも統一性が出てきているように思われた。
その傭兵隊長は大柄で赤い髪と茶色の目をした人物で、大声で指示を出してさぼりがちな傭兵をまとめていた。娘が顔を出すと場がざわめく。傭兵隊長が迷惑げに振り返り、娘を認めた。
「こんなとこに来たら危ないです」
すげなく出て行くようにと言う隊長に、もとより素人の娘は従って鍛錬所を出て行った。
厩舎は堀の内側にあるが、鍛錬所や傭兵の宿舎は内部ではなく堀の向こう側にあった。これは人数が多いせいと、内部に引き入れていて裏切りなどあったらとの用心のためのようだ。あくまで内部は護衛兵と大公の私兵が守っている。
歩いて移動するのが大変なので、堀を小船で下りながら娘はぼんやりと外壁を、その細い攻撃用の窓や見張り台を眺める。もうあまり間がない。それまでに逃走経路をどうしようか。
船着場で娘は船を下りる。堀は川から水を引き入れ下流で再び川へと合流している。幅は広く泳いでは渡れそうもない。
それでもやらなければ。
気が塞いだ娘を慰めるためか、大公は東の都を見物するように勧めてくれた。
髪の毛は結い上げて見えないように帽子に押し込み、顔の方にはレースを幾重にも覆って目も色を読取れないようにして目立たない馬車で出かける。侍女頭と護衛が同じ馬車、騎馬で数名が続く。
傭兵の出入りが激しいだけでなく、川を渡って国境から入ってきた品物の売買で都はにぎわっている。王都の城下よりは規模は小さいがそれでも繁栄はしていて、大公の治世ぶりがうかがわれる。
「どうして、これを守っていこうとは思わないのか」
娘の呟きは聞く人もなく、ざわめきに消えていく。
ずっと馬車から眺めるだけだったのが、目抜き通りに入ると馬車をおりて散策という運びになった。珍しい品に目を奪われたり、威勢のいい呼び込みに聞き耳を立てたりと楽しんで、記念にと一つの店に入った。
布や手芸の品を扱うその店の主人は、白髪交じりの人のよさそうな婦人だった。黒い布やリボンなど、細々とした品を頼み主人が注文を書き留める。ふと開いていた窓から風が一陣。
「いい風。風をつかまえたいですね」
「本当に。ご注文の品を後ほどそろえてお届けにあがります」
主人に見送られて馬車に乗り込み、砦兼大公の居城に戻る。夕方には注文した品物が部屋に届けられ、侍女頭とも女性らしく布や糸などについて話が弾む。
夜、床に入ると昼間の疲れのせいかすぐに目を閉じる。侍女頭はしばらく側についていて、その後で明かりを持って退出する。部屋の前では護衛が待機している。以前は寝室にも侍女を配していたが、娘が一睡もできないのでこの形に妥協した。
バルコニーにも巡回の護衛兵がついている。その巡回の隙をついて黒い影が横切った。
寝室の鍵を静かにあけて影が入り込む。
「今晩は。忘れないでいてくれて嬉しいね」
にこりと笑ったのは、相変わらず優男にしか見えない傭兵だった。