幕間 ある夫婦の話
春の祭典。港町でも小さいながら王都の祭典にあわせた祭りが催された。娘にとってはいつも以上に食堂への客が多く、忙しかった三日間が終わった後でもあった。
祭りの三日目の朝、変わらずに小さな部屋で目をさますことができて、ほっとして顔を覆ったことは娘しか知らない。これはそんな春のある日のことだった。
忙しい昼食の時間帯も終わり、一息つける時間帯に主人夫婦と娘はお茶を飲んでいた。気持ちのよい風が店の中を通り抜ける。
大きく開けた窓からは、太陽にきらきら光る海が見えた。
「ああ、いい風だね」
女将の言葉に娘も頷く。最初は波の音で眠れなかったのに、今では慣れて子守唄のように気持ちよく感じられる。今日の海は凪いでいて、午後の気だるい雰囲気によく合っていた。
一足早くお茶を飲んだ亭主が厨房に戻って、夕食の仕込みを始めた。大きな手が包丁を握り、驚くほど繊細な味わいの料理を作る。昼食も夕食も開店前に試食をかねて亭主が作ってくれるものを美味しくいただいていた。
今日の夕食は肉のあぶり焼きと魚介の煮込みだ。日替わりのメインがだいたい二品、それに常連は勝手知ったる注文を加える。手際よく応じて亭主は料理を作り、女将が盛り付けて娘が注文を取ったり皿や酒を運ぶ。会計は女将か娘の手がすいている方がやる。
一度店を開けると閉店時間まで忙しく働くことになるこの店は、女将の人柄と亭主の料理の腕が評判だった。
「伯父さんは元は船乗りだったの?」
「北の出身だったのが故郷を飛び出して流れてきて、船乗りになったんだって」
ふと女将が海に目をやり、娘もつられてそちらを見る。船がゆっくりと航行していた。
「初めて会った頃は、あたしの親も健在で妹と四人で宿屋と食堂を切り盛りしていたんだ。……もう随分前の話だね」
緑の目がふっと優しく柔らかい光をたたえる。見事な赤毛で印象的な緑の目の女将はいささか貫禄のある体つきながら今でも綺麗だけれど、若い時はもっと綺麗だったのだろう。
夏の海にも負けないような鮮やかな美人だったに違いない。娘がそう言うと女将は照れるようなこともなく、若い時は自分か妹が春と秋の祭典の女神役をやったと自慢げに言われた。
「女神役?」
「王都ほど大規模じゃないが、この町でも祭りをやっただろう? その出し物の一つで大通りを綺麗に飾り立てた天井のない馬車にのって、手を振りながら進むんだ。女神役は専用の衣装を身につけて春は花の冠、秋はぶどうの蔓を冠にしたものを頭に乗せて手を振ったっけ」
元の世界のパレードのようなものだろうか。娘はそんなイメージをもった。とにかく、若い娘にとっては栄誉なことに違いない。それを妹と交代で選ばれたことでも美人ぶりがしのばれる。
「この人はたまたま船が港に着いたのが祭りの日で、馬車の上のあたしに一目ぼれしたんだと」
そのままふらふらと馬車の後を歩き、祭りが終わって宿屋に戻ったところまでついてきたと女将は笑う。
「まあ、そんな男はこの人だけじゃなかったけどね。妹と何人食堂まで引っ張れたかで競争していたよ」
女将と妹がその頃の文字通りの看板娘だったのか。つい若い頃の女将の後をぞろぞろついて来る、童話の笛吹きのような姿を想像して娘はおかしくなった。
亭主がどんな顔でついてきたのだろうか。
「それがねえ、ものすごく距離をとって振り返ると視線を外し、また振り返るとよそを見るのを繰り返してね」
のっそりした大男がわざとらしく視線を外しながら、それでもついて来る。少し危ない図のような気もしたが、娘は女将の話の続きを待った。
厨房からは魚の下ごしらえだろう、鱗を包丁でそぐ音がしている。時々出汁用なのか、どんとぶつ切りをしている音も響いてくる。
「食堂に入ってからも何を言うでもなく、黙っているんだ。妹が注文を取りにいくと沢山料理を注文して、それを黙々と食べてお金を置いて出て行った。それから乗ってた船がここの港に着くたびに食事をしに来たね。でもずっと黙ったまま」
「どれくらいそれが続いたの?」
「一年は過ぎていたと思うよ」
相当に純情な行為だ。
「そのうちにあたしの方がじれったくなって。ほら、なんでもはっきりさせないと気がすまないから。一年も通ってだんまり、それなのにちらちら見てきて目が合うと真っ赤になるんだ。妹や親からは目配せされたり肘でつつかれたりするのに、肝心のこの人はちっとも近づこうとしないから、ある日直接聞いたんだ。『何しにここに来ているんだ』ってね。これで食事なんて言った日にはたたき出してやろうと思ったのに、しばらく、ううん、かなり長い間黙った後でようやく『あんたの顔を見に来ている』って返事をくれたんだ」
この台詞を女将は亭主に聞こえないように声を潜めて娘に教えた。
腰に手をあてでもして問い詰めている若き日の女将と、椅子に座ったまま相当に恥ずかしい思いをしながら告白した亭主を想像する。
きっとその頃の常連も成り行きを注目していたはずだ。
「この人があたしに気があるのは分かっていたし、ここでの様子を見ていたら酒は飲まない、料理は好き嫌いなく平らげる。悪くないねって思っていたんだ」
そして春の祭りで事件が起こったのだと。女神役に選ばれた女将を見初めた下級貴族が、強引に連れて行こうとしたらしい。下級でも貴族は貴族。ただ女将の性格からは、黙って連れて行かれることなど論外だ。
「こき下ろしたら、その貴族が馬鹿にされたと手をあげた。ぶたれると思った時に、この人が助けに入ってくれたんだ」
貴族にひるむことなく背中にかばってくれたその時に、この人なら頼りになる、この人が好きだと自覚した。女将は懐かしむような表情のまま笑った。
主人夫婦のロマンスを娘は素敵だと思った。
無口なのにやるべき時にはきっちりやる亭主と、その心意気を感じた女将は本当にお似合いだと思う。
「それで船乗りから足を洗って陸に上がってくれたんだ。しばらく親のもとで修行してこの店を継いだって訳」
船乗りとしてあちこちに行ってその土地の美味しいものを食べていた亭主は料理の才能もあって、結局は料理は亭主が引き受ける形になった。そのいかつい体に似合わない料理の腕は、この店の評判をさらに高めた。
妹が駆け落ちをして、親も亡くなって、二人で宿屋と食堂をするようになってから随分経ったのだと女将は締めくくった。
「そこにあんたが来てくれたんだ。随分と恥ずかしい昔話になっちまった。さ、そろそろ開店準備にしようか」
茶器を洗って一旦テーブルの上にあげた椅子を戻し、テーブルを拭く。往来も簡単に掃除をして二階の客室にも風を通す。
厨房では夫婦が何か話して女将が笑い、亭主がその様子をみてほんの少し表情をゆるめていた。
見ているだけでこちらの気持ちまであたたかくなるようだ。
自分にもあんな風に笑い合えるような人ができるんだろうか。
この人なら頼りになる、この人が好きだと思える人が現れるんだろうか。
ある面影が浮かびそうになって娘は我に帰った。
この世界に来て知り合った人の中でそんな人は……。
主人夫婦の話にあてられて、その日の娘はいつもより少し顔を赤くして開店の時間を迎えた。