32 猟犬と狩の終わり
――見つかってしまった。
王城を逃げ出したのが秋の祭典の時。春の祭典をやりすごして夏。
期間としては長かったのか、短かったのか。娘は港町で過ごした日々を思い返す。
元の世界ならもっと早くに見つかっただろう。どこにも監視カメラがついているし、誰かが呟けばそれに即座に呼応する人達がいる。それを思うと長くもった方なんだろうか。ただこの世界では人手しか頼りにならないから、その意味では早く見つかってしまったんだろうか。
団長は記憶よりも少しやせて見えた。真っ直ぐに見つめる視線は鋭い。王城にいた頃には向けられなかったもの、威圧感のようなものを感じる。
お盆を胸に抱えたまま一歩後ずさり、後ろを見やる。
さっきここまで食事を頼み、娘を通してくれた客が扉を塞ぐように立っていた。団長と一緒にいるのだからこの人も騎士なのだろう。二人とも剣を手に取ることもせず、素手のままだ。もし自分が抵抗しても素手で充分と言うことだろう。
きゅっとお盆を持つ手に力が込められる。
団長が窓から離れて近寄ってきた。
こんなに大きい人だっただろうか。こんなに怖い顔をする人だったんだろうか。
取り留めないそんな考えが浮かんだ。
「ご無事でしたか」
跪かれて頭を下げられ、低い声で呼びかけられて納得する。
国王の命令でここまでやってきた。団長の職務の一環なのだと。
「はい」
「早速ですが、王城にお戻り願います」
いきなり本題に入られて、娘は苦笑とともにざらついた不快感が頬をなでた気がした。
戻る。あそこは自分の居場所ではない。『戻る』場所ではない。
何より戻ったりすれば今度こそ、国王の手の内だ。
「……それより顔を上げてください。料理が冷めてしまいます。ここの料理は美味しいんですよ」
思ったよりも冷静な声が出せた。顔をあげた団長をにこりと見やりながら、結構図太い自分に安心する。まだ大丈夫、まだ時間が稼げる。
「では、こちらにお座りください」
団長はテーブルの向かいの席を示し、座るように促した。料理ののった小さなテーブルに向かい合わせに座る。
では失礼して、と小さく断った後で団長は食事を始めた。その様子を眺める。
「どうやって、ここを見つけたのですか?」
「国中から情報を集め、ふるいにかけてからあとは人海戦術ですね」
綺麗な仕草で鳥を切り分けながら団長が答える。人海戦術。国の中枢がそう言うのなら、この半年あまり随分働かされた人達がいるのだろう。上から目線なので適切ではないが、ご苦労様だ。
「ただ、こちらの情報は有力なものではありませんでした」
「そうなんですか」
「まさか、目を晒しているとは思いませんでしたから」
真っ直ぐな視線が娘を射抜く。茶色の目はいつもの穏やかなものではない。
冷たさと得体のしれないものを含んでいるようだ。
赤く染め、編んでたらしてある髪の毛を手に取る。もう、赤く染める必要もなくなってしまう。
楽しかった時間が終わってしまう。
知らず、ため息が漏れた。
団長はテーブルの向かいに座る娘を見つめる。
赤い髪の毛、頭には布を巻いている。耳には赤や緑、青といった飾りをつけているのは元の赤い耳飾を目立たせなくする工夫だろう。そして黒い目は切った前髪の下で堂々と晒されている。
それだけのことで印象が大きく違っている。
茶色の髪の毛で目を隠し、俯き気味で控えめな印象だったのに、この変わりようはどうだろう。
最初は茶色の髪の毛の一人旅の娘を探した。早馬を出して主だった都や町で乗り合い馬車の客についての聞き込みなども行った。
それらしい娘が見つからなかったので、王都に潜伏しているかと調査を行わせた。
祭典のために人の出入りが激しく、有用な情報はなかなか得られなかった。
団長は娘の計画に内心舌を巻いていた。何が娘にとって有利に働くかをよく知っている。
木の葉を隠すなら――人にまぎれるなら人の多い所、多い時期。
寄せられる情報は膨大で、細切れだ。
忙しい時期でもあり、知り合いでもない限りわざわざ人に目をとめ、しかも記憶するなどまずなかった。
田舎から出てきたもの同士の喧嘩、すりにあった娘、急病人、男と一緒に馬車に乗り込んだ娘……。一通り調べ、今度は誰かと一緒の可能性を潰しにかかる。特に男と一緒にいた娘などに関しては徹底的にだ。噂を確かめに田舎まで行って騒ぎになった事例は少なくない。
城下に手引きをする人間がいるとは思えなかった。娘が城下に出かけたのは一度きり、しかも騎士が影ながら護衛し自分が側についていた。不審な人物と接触した記憶などはごく少なかった。それでもあの日のことを思い出して、両替商や武器屋、食堂や雑貨屋、菓子屋などたどった店や道を調べさせた。
どこにも娘の立ち寄った形跡はなかった。
乗合馬車については、臨時便も多く御者も臨時雇いだったりしてこちらの調査も難航する。
一向に手繰れない情報に、騎士団本部で呻いたことも一度や二度ではない。
「本当に間諜だったのか? 手がかりがまるでないじゃないか」
「まあまあ、別の見方から調べなおすしかないだろう」
副団長になだめられ、また国内の膨大な報告書に目を通す毎日。合間を縫って精力的に視察を行う国王陛下の護衛体制を整え、指示を出し、時には同行する。近隣の都市に視察の合間に常駐している騎士団支部の者からの報告をうけ、これはと思うものを確認しては空振りに終わる。
一方で女性の死体の確認もさせていた。若い娘で身元が不明なものに関してはそれこそ徹底的に。
いつ、茶色ないし黒髪で黒い目の死体の報告がされるのか、その恐れにさいなまれていた。
港町の娘の噂は本当にごくささいなものだった。
食堂に黒い目の娘がいる。だが客や主人の話では駆け落ちした主人の妹の娘、姪だという。髪の毛は伯母と同じ赤い色で、何より珍しい黒い目を隠すでもなく接客に当たっている。
別人だろう。その判断でその報告は膨大な書類に埋もれていた。
ただ手がかりが得られずにそれらの雑多な、有力ではないと思われた報告書を再度検証する必要に迫られた際、脳裏に陛下の言葉がよみがえった。
『おそらくあれの一番側にいて、あれの思考回路を知る立場にあった。その目線で考えて行動してくれ』
あれ――娘の思考回路。
隠れ住むのは難しい。人は秘密の気配を感じるとそれを暴かずにはいられない。娘は自給自足の隠遁生活は送れまい。中途半端に隠れていては限界があるはずだ。
ならば、いっそ堂々としているのではないか。
そして改めて報告書を調べなおす。
見つかったのが食堂の娘。
詳細に調べなおし、女主人が秋の祭典で王都にいたことも判明した。そこで娘と知り合ったら? 偶然同じ馬車にでも乗り合わせたら? 南行きの乗合馬車を調べ、途中の宿屋を調べた。そして得られたのが、赤い髪の中年女性と茶色の髪の若い娘の二人連れ。主人夫婦の姪という娘が食堂で働くようになった時期も秋。
――見つけた。まだ最終確認もしていなかったが予感はした。
港町の騎士団支部に赴き、現地の騎士に確認を取る。件の食堂に行ってみるとちょうど娘が買い物に出るところだった。
明るい夏の日差しの中で、娘は笑っていた。
道をゆく知り合いと挨拶を交わし、腕に籠を通して歩いていく。髪の色も髪型も違うが、まさしく。
あの場でよく捕まえなかったものだと団長は自嘲する。人目もはばからずにそんなことをすれば、こちらが不審者だ。現地の騎士が側にいるとはいえ、騒ぎになるのは目に見えている。騎士に尾行させて、自分は宿屋の客になる。
じりじりしながら夜を待った。
気配を消して階段の途中からうかがうと、船乗りの常連が多いらしく上品とは言いがたい店で、娘は笑顔で働いていた。あんな顔は王城では見なかった。大声ではきはきと注文を確認して、皿やグラスを客の卓に運ぶ。声をかけられてまた笑顔で応えている。
それは決して陛下や、そして自分にも向けられなかった無心の笑顔だった。
目を奪われ、ここでの生活が娘には幸せなのだと思わせるに充分な様だった。
無事でいてくれたことに安堵し、同時に暗い思いも抱く。
知らないところで、手の届かないところで笑っているなんて許せない。
見知らぬ男に手を握られているなんて許せない。
色々な思いのまま、客室に戻り計画通りに娘を室内に招き入れる。
――見つけた。つかまえた。もう放さない。
醜く暗い、どろどろした感情を自覚しながら、それでも自分は陛下の臣下だ。
連れ帰ることが最優先事項になる。ここまでは陛下とは共通認識だ。その後は……。
「王城に、戻る、ですか」
娘の声に我に返る。気付けば皿はほぼ空になっていた。
外見は異国情緒のある、だが口調は王城のそれに戻った娘は静かに区切るように戻る、と呟いた。
「ええ、お戻りいただきます。外は危険です」
「中だって危険だったでしょう?」
笑い含みで返される。
「それにしても、春の祭典では召喚の儀はやらなかったんですか? ひやひやしていたのに」
「ええ、陛下があなた以外を召すつもりがないとおっしゃって。ひやひや、ですか」
「だって私がまだ陛下と相性がいいのなら、召喚されればここから神殿に移動させられていたかもしれないでしょう?」
瞬間、この半年あまりの苦労が徒労に過ぎなかったのを自覚する。人手と時間を割いてここまでたどり着きはしたが、娘の言うとおり神官が召喚さえ行えば、どこにいようともあの召喚陣に戻ってきていたのかもしれない。
脱力し、これまで蓄積された疲労が一気に体をおそう。
あの努力が無駄足だったかもしれないとは。だが、のんきに待っている間に何かが起こったかもしれない。
第一、陛下も自分もただ何もせず待つなど到底できなかった。
「戻ればどうなります?」
どうなるか。娘はまた陛下の庇護下に入る。そして。
「それでもお戻りいただきます」