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31  逃げ水

 その男性が食堂に現れたのは、春の祭典の終わった後だった。

 王都から離れた港町でも、見物に行った人はいるので戻ってから食堂でその話が出ていた。

 娘は亭主と女将の作った料理や酒をテーブルに運ぶ。ここの客は船乗りが多く、あとは地元の人間と最近増えてきた傭兵といったところか。傭兵は船でやって来て東に行くらしい。噂では国王の叔父にあたる人物が東を治めていて、そこが傭兵を雇い入れている。

 ――潮風に穏やかでない空気が混じる。きな臭い。

 客の噂話から、娘は他の場所のことを知ることができる。危なくなったらすぐにここを離れようと、娘は聞き耳を立てた。


「最近の王様はずいぶんあちこちを見て回っていらっしゃるようだな」

「ああ、何でも視察に力を入れているんだと」

「知り合いに王城の役人がいるんだが、王様の仕事ぶりがすごいらしいぜ」


 国王の話が出て、娘は洗い場に持っていった皿を置く手が止まる。春の祭典で神殿に召喚されるのではないかと怯えていたのが、何事もなく過ぎて安心していた矢先に耳に入った『国王』の動向。

 必要以上に興味を持っているのを悟られてはいけない、とすぐに出来上がって盛り付けられた新しい皿を客のところに運ぶ。


「何でも曲者の東の国王相手に、有利に国境の川の通行権を認めさせたんだと」

「おかげで荷物を川で運びやすくなって、小麦の値段が落ち着いたそうだ」

「俺の親戚でも王城勤めがいるが、休暇で顔を合わせた時、王様が王城のあちこちを自分の目で見て回って、いきあった奴らに身分関係なく話しかけたり不満を聞いたりなさったそうだ。で、すぐに対処してくれたって嬉しそうだったな」

「仕事には厳しいって話は前からだったが、人当たりが良くなったのか」


 何だか変わった? 客が話している国王は本当にあの国王のことだろうか。

 自分勝手で人の話を聞こうともせずに、感情を押し付けたあの国王と同一人物なんだろうか。あの国王が身分に関係なく話を聞く? 人の話を取り上げる? ドッキリとかじゃないよね、と思いつつ娘はくるくると食堂を動き回った。


 その後もちょくちょく国王の話は漏れ聞こえた。貴族にはどう思われているかは分からないが、庶民には受けはいいようだ。

 多少は誇張されているかもしれないが頑張っているんだ。素直にそう思えた。

 こうして離れたことで客観的に国王を見れば、国や民にとっては悪くない国王のようだ。自分にとっては最初から最後まで残念としか言いようのない相手だったけど。


 視察云々は逃げた自分を探しているのだろうかと思いつつ、国王がこちらの方に視察にやってくるなら、すぐに情報は入るはずと噂には注意しながら過ごしていた。

 港町の食堂ではそんな真面目そうな話はごく少なくて、たいていは船乗り達のあけすけな誘いや口説き文句を笑っていなすか、食堂の亭主や女将がうちの姪に何か? とばかりにすごんでやり込めるかの賑やかな日々だった。



 なりゆきで働くようになった主人夫婦はいい人で、親類のような親近感を抱く。

 元の世界で断ち切られた家族とのような、楽しい日々が娘に笑顔と繕わない表情を取り戻させてくれていた。

 夏がくるまで娘は幸せだった。





「今日は一段と暑かったね。やっと顔出せた。今日のおすすめは何?」


 夏の暑気を払うような元気な声がして、あっと思う間もなく手が握られる。ひょろりと背の高い男性が手を握ったまま、にこにこと顔を覗き込んだ。


「ちょっ、手! 顔も近い。おすすめは揚げ魚と甘酢の野菜の付け合せか、鳥の岩塩焼きですっ」


 娘が手を振り払って後ずさると、周囲の常連から抗議の声が上がる。それに合わせて厨房から亭主が現れた。


「女房の姪っ子に手を出す奴は……」

「うわあ、してません、してません。手を握っただけです」


 おあつらえ向きに亭主の持った肉切り包丁が、迫力を増す役目を果たしている。亭主からぎろりと睨まれ、男性は芝居ががった様子で両手を頭の横まで上げて降参の姿勢を取る。亭主が厨房に戻るとその姿勢のまま、娘を見てへらりと笑った。


「じゃ、鳥の方ね。パンと野菜スープに、酒は蒸留酒で」

「今度手を握ったら、みんなの飲み代払ってもらいますからね」

「えええっ、それは勘弁してくれ」


 心底情けなさそうな声に、今度は周囲が笑い出す。つられて娘も頬をゆるめて厨房に注文を伝えに行く。

 この背の高いお調子者が食堂に現れたのは春のこと。腰に下げている剣がなければ、旅人か吟遊詩人とでも思えそうな優男だった。ふわふわとはねる薄い色目の金髪と、緑と茶色の混ざったような瞳で、いつもにこにこと笑っている。


 食堂に顔を出すようになってから、時々こうして夕食を食べにやってくる。その度に娘を口説きにかかっては娘や亭主から返り討ちにあうのは、この宿屋兼食堂では半ば名物のようになっていた。

 焼きあがった鳥肉とスープをテーブルに置くと、先に運んだ蒸留酒は既に半分ちかくが飲まれてる。


「おまちどうさま」

「ありがとう。美味しそうだねえ、君の顔を見ながら食べたらもっと美味しいだろうね」


 だから、前に座ってくれない? という誘いをあっさり無視して、娘は他のテーブルで空いた皿を下げにかかった。


「兄ちゃんよお、いい加減諦めたらどうだい?」

「そうさ、あのおっかない亭主と女将さんががっちり守っているんだからな」


 周りの声にもいえいえと諦めの悪いさまを示しながら、意外なほどに行儀よく料理を食べていく。

 目が合うと酒のグラスを指さして口の動きだけで、おかわりと注文してきた。

 樽の栓を開けて琥珀色の酒を注ぎながら、こんな感じで傭兵だなんてやっていけているのだろうかとつい余計な心配をしてしまう。


 春、最初に来た時もいきなり手を握られ、その場で付き合ってくださいと言われたのはここの語り草だ。間髪入れず、常連から叩かれ亭主からもげんこつをくらったこの優男は、ひどいなあと涙目になりながらその後もちょいちょい食堂に顔を出し、いつの間にか荒くれの多い常連ともなじんでいた。

 腰の剣は飾りじゃなくて、傭兵なんだと聞かされた時は絶対に嘘だと思った。

 正直にそう言うと、そんなに頼りなさそうに見える? とぼやきつつ結構強いんだよ、だからお嫁にこない? と誘われてその軽い調子につい笑ってしまった。


 以来、傭兵は時々仕事だと姿を消しては、忘れそうになるとふいと顔を見せる。今は二杯目の蒸留酒を飲み干して、ぐいと胸を張る。


「僕はその黒い目に僕だけが映るように頑張るだけです」

「ま。望みは薄いだろうが頑張りな。そういや、代々の王妃様ってのも黒い目だったか」

「そうそう、黒い髪の毛に黒い目をしているって聞いたことがあるぞ。見たことはないけどな」


 お前なんかに見ることができるもんか、とやじを飛ばされた常連がそちらにこぶしを振り上げる。

 綱渡りのような会話だ、と笑いながらどこか醒めた頭で思う。


「はいはい、この髪の毛が黒かったら王城から迎えが来るってことだけど、あいにくそうじゃないからここで真面目に仕事するわ。

そろそろ最後の注文だけど、何かほしい人は言ってちょうだい」


 娘の冗談にあちこちから注文の声が上がる。返事をしてさばきながら忙しい時間を過ごした。

 食堂では壁際の目立たない席で、宿泊客の男性も一人食事をしていた。談笑に加わるでもなく静かに食事を終えて、階段を上がったところにある客室に戻る。その際、声をかけられた。


「連れが部屋で休んでいるのだが、食事を持ってきてはもらえないだろうか。魚と肉の両方と、パンは多め、酒は小さ目の樽を一応頼む」


 買い物に出ている間に到着した客は、ずいぶんと食いしん坊のようだ。

 客の丁寧な言葉遣いに少し引っかかりながらも、下級の役人などならこの宿屋に泊まることはあるのでその類かと考えた。客は剣は持っていない。役人か、取引にやってきた商人なのだろうか。


「はい、分かりました」


 返事をしてから、次々と出来上がった皿を運ぶ仕事に戻る。

 そのさなか、食べ終えた傭兵もテーブルにお金を置いて立ち上がる。


「ご馳走様。また顔を出すから、その時には色よい返事をよろしく」

「何か申し込まれましたっけ」

「ひどい、春から散々申し込んでいるじゃないか。もういっぺん最初から言おうか? ええと、君が好き、愛している。僕のところにお嫁に……」

「あーはいはい、毎度ありがとうございます。お帰りはあちらです」

「ううー。僕は諦めが悪いからね、また来るよ」


 そう言って手を振って夜の町に消えた。

 最後の注文の品を食べて飲んで、常連も店を後にして仕事が終わる。

 皿洗いとテーブルの上を拭いた後で椅子を乗せて終わりだ。

 はあ、と一息ついたところで、さっきの宿泊客の食事を乗せた盆を渡される。


「これを頼むよ。渡したらそのまま部屋に戻っていいからね」

「はい、お疲れ様でした。伯父さん、伯母さん」


 一応伯父、伯母と姪ということで普段からこの呼び方をしている。娘は二人にあいさつをしてから、酒の樽とグラスを二つ持って階段を上った。

 二階には客室が三つと主人の部屋、それを越した一番奥に狭いながらも娘の部屋がある。今日の宿泊客は一組だけだ。

 樽とグラスを客室の扉の横に置く。引き返して料理の盆を手に取り、その部屋の扉を叩いて顔を出したさっきの客に食事を持ってきたのを告げる。


「ありがとう、中の卓に置いてもらえるだろうか」


 足元に置いた酒の樽とグラスを腰をかがめて持ち上げて、扉を開けて客は娘を通してくれた。

 盆から皿をテーブルに並べていき、空の盆を手に持つ。


「お盆は置いていきますから、食事を終えられたらこれに皿などをのせて廊下に出しておいてください」


 窓から外を見ているもう一人の客に呼びかける。

 茶色の髪の毛、大きな体。これで剣を持っていればまるで――。

 そう思う娘に呼応するかのように、客がゆっくりと振り返った。


「久しぶりだ」


 娘の前で、厳しい眼差しを向けているのは騎士団団長その人だった。




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