30 南へ
「ここがあたしの家だよ。ゆっくりしておくれ。あんた、今帰ったよ」
元気の良い女将の声とともに、背中をはたかれて娘は中へと入った。
潮の香りと波の音が、王都を遠く離れたことを実感させた。
再召喚の翌日に無事に王城は抜け出たものの、その後をどうしようと悩んでいた。
乗合馬車に乗って王都から離れる。そこまでは規定路線だが、さてどこに行こうか。
さすがに国境の守りは厳しく、それを越えるのは難しい。第一追っ手がかかればまずそこから固められてしまうだろう。あまり田舎に行っても悪目立ちするかもしれない。
身を隠すなら都市部、王都を中心にした東西南北の国境近くはそれなりに大きな街になっているらしいので、目指すならどれかだろう。
あまりに早い時間ではまだ馬車は出ていない。それにまだ祭典のために王都に来た人が戻る時間としても早いので、どこかで朝食を食べて時間を潰して、馬車に乗ろうと朝の市場に足を向けた。
屋台で簡単に食べられるものを買って食べようかとした時に、通りの脇で店の壁に寄りかかるようにうずくまる女性を見つけた。近寄って声をかける。顔色が悪く、お腹を押さえている。
「どうしました? お腹が痛むんですか?」
かろうじて頷くのを確認して、どうしようかとあたりを見回す。近くで祭典のみやげ物を売っている人に近くに医者がいないかを尋ねる。医者を教えてもらい、親切なことに手伝いの男性がそこまで女性を抱えて連れて行ってくれた。
その家の扉をどんどんと叩く。中から寝癖のついた、初老の男性が顔を出した。
「すみません。病人を診てもらいたいんですが」
ちらりと後ろの女性に目をやって、医者は扉を開け顎をしゃくって中に入るように合図した。
入ってすぐが診察する場所になっているらしい。診察台に女性を寝かせてから、運んでくれたみやげ物屋の男性は出て行った。
「いつ頃からどんな様子なんだ」
「あ、私も通りすがりで事情がよく分からないんです」
そう言うと医者は女性のお腹を押さえて、その手をあちこちに移動させた。その合間に女性に質問をして呻くような返事を聞いていた。
顔をしかめて反応した場所を確かめて、壁の棚から何か薬を取り出しそれを飲ませる。しばらくそのまま寝ているようにと女性に言ってから、娘を見た。
「体力が落ちていたところへの食あたりのようだ。薬を飲んでしばらく寝ていればいいだろう」
「そうですか。右下を痛がったからてっきり……」
「てっきり、何だ」
失言に気付いて娘は黙り込んだ。医者は何かを記録しながら鋭い視線を外さない。
「……盲腸かと」
「お前さん、医者か? 見たところは王城の関係者のようだが」
下働きの制服のことを言っているのだと気付き、警戒心が生じる。娘の様子に医者は苦笑いを浮かべた。
「そんなに警戒しなくてもいい。俺は昔王城で侍医をしていてな、もったいぶった王城に嫌気がさして、町医者になったんだ」
王城の侍医。それを聞いて安心できるはずもなく娘はじり、と入り口に移動しようとしていた。
「取って食いはしない。ただ聞きたいだけだ。盲腸とは右下の腸の先にある細いやつか?」
「……はい。確か虫垂という名前だったと思います。そこが炎症をおこしやすくて」
「ふうん、ここがそうか」
医者は棚から本を取り出してページを開いて見せた。ずいぶん簡単だが、人の体が描かれていた。娘は指で盲腸のあたりを指す。
「ここが盲腸で、その先にくっついているのが虫垂です」
「他に知っているものはないか」
あっさりと言われ、娘は拍子抜けした。詮索するでもなく医者はただ人体のことが知りたいようだ。聞かれるまま、知っていることを話す。
一通り聞いて満足したのか、医者がお茶を淹れてくれた。それを飲みながら妙なことになったと思う。医者に女性を運び込んだら、そのまま行ってしまえば良かったのに。
「で、お前さんは何者だ? まあ、その目から大体予想はつくがな」
前髪で隠していた目のことを言われて、医者を見つめる。王城の侍医だったのなら知っているのか。こんなに早くばれるとは、前途多難だと思いつつ前髪をかきわけて目を晒した。
「今の国王に呼ばれた者です」
「異世界からの伝説の娘、か。俺は先代の王妃様は知っている。お前さんがあの陛下のな……」
「陛下をご存知ですか?」
「ああ、首に傷を負うまではな」
先だっての国王の傷を思い出して娘は思わず、同じ場所に手を当てていた。
医者はその仕草に頷いた。間違いない、この人は本当に王城で、しかも王族を診ていた医者だったんだ。
「陛下はお元気か?」
「そうだと思います」
「で、お前さんが下働きの服を着て、しかも城下にいる理由は……」
女性は寝ているが、医者は声を潜めて聞き取りにくい音量でしゃべった。
娘はお茶のカップを両手で包む。
「私を王城に突き出しますか?」
「そんな面倒くさいことはしない、俺は関わりたくないな」
探るように医者を見つめるが、表情からはそれが本心かどうかは分からない。ただここまで正体がばれていれば、ごまかすのも無駄だ。
「事情があって、逃げ出しました」
「逃げて、どこに行こうって言うんだ」
「特に決めていません。ただ国外に出るのは難しそうだとは思っています」
「そうだな、国境の門の警備は厳しい。女一人で通過しようと思っても難しいだろう」
医者は、娘が喉から手が出そうなほどに欲しい知識の持ち主だった。
地図を取り出し、国内の地方都市について教えてくれた。かかる日数や、どんな貴族が治めていて都市の性格がどうか。
「その服は着替えたらどうだ。ここらへんで王城の制服を着ていれば、人目を引くぞ」
そう言って別室に案内までしてくれた。見ず知らずの人間への厚意にいぶかしく思いながらも、娘は鞄に入れていた服に着替えた。ポケットにはそっと武器屋で団長が見繕ってくれた短刀をしのばせる。
戻ると医者は女性の様子を診ていた。
「どうしてここまでしてくれるんですか?」
「先代の王妃様を知っていると言っただろう。あの方は……王城で泣き暮らしていたからな」
少し遠い目になった医者は、その当時のことを思い出しているのだろう。国王を身ごもって諦めたと書かれていた先代の王妃。その姿に何か感じるものがあったのだろうか。きっと彼女も身につけていたと思う耳飾に無意識に触れる。
時間もあれから過ぎている。そろそろ馬車に乗っても目立たない頃だろうか。上手くいけば昼までは逃げたのは発覚しないはずだ。その前に王都を離れなければと、娘は立ち上がった。
「そろそろ行こうかと思います。色々教えていただき、ありがとうございました」
「こっちも教えてもらったからおあいこだ。おっ」
最後のは目を開けた女性に対してだ。顔色も最初よりは良くなり、医者と娘に視線をさまよわせている。
「気付いたか。気分はどうだ」
「あたしは、ああ、お腹が痛くなったんだ。ここはどこだい?」
「俺は医者だ。あのお嬢さんがあんたをここまで連れてきてくれたんだ」
女性は診察台で上体をおこした。燃えるような赤毛に緑色の瞳が印象的だ。中年のようで、娘を見て笑った目尻には笑い皺があった。
「そいつは迷惑をかけたね、ありがとう。もうすっかりいいみたいだ。今何時だい? 今日中に馬車に乗らないと」
「まだ午前中だ。だが、あんたはどこまで行くんだ?」
「あたしは王都でしか売っていない香辛料を買いに南の海辺から来たんだ。用事も済んだことだし、帰らなきゃ」
そう言って、すぐにも診察台からおりて出て行こうをするのを医者が止めた。
「おい。あんた一人か? 薬は出すが道中大丈夫か?」
「心配ないだろうさ」
「だけど、随分疲れがたまっているようだ。今は薬が効いているようだが、ぶり返すかもしれん」
それでも大丈夫だと言い張る女性と医者の押し問答に、つい割って入ってしまった。
「あの、私が同行します。行くあてもなかったから、南なら行ってみようかと」
医者は娘の言葉に思案していたが、さっきの棚から同じ薬を取り出して包みだした。
それを娘に渡して食後に飲ませるようにと指示をする。
「今から寒くなるし南ならいいかもしれない。海辺だと、いざと言うときは船に乗れる」
追っ手のことも、対処もそれとなく示してくれた。医者は女性に向き直った。
「この娘さんがあんたと一緒に行ってくれるそうだ。この薬が効かなければすぐに医者に行くこと。一応手紙も渡しておくか」
どうやら面倒見の良い医者のようだ。娘はそう思いながら女性に、一緒に南に行くことへの承諾をとった。女性はそりゃありがたい話だ、と受け入れてくれた。
手紙も受け取り、二人は出て行こうとした。娘は一応フードをかぶり、顔を隠すようにした。
医者は女性から診察料を受け取って、扉まで見送ってくれる。
「じゃ、先生、ありがとうね」
女性に頷いてから医者は娘にそっと忠告した。
「あまり隠すとかえって怪しまれる。南なら、他の大陸からの人間も流れ込んでいる。そちらから来たといえば黒目でもごまかせるだろう」
娘はその忠告を検討する。目を見せる。眉までは茶色だが睫毛はさすがに黒だ。目を出すのならそれをどうにかしないといけない。
「海辺までは何日かかかる。その間に適当にやればいいだろう」
「分かりました。ありがとうございました」
今度こそ、医者の所を出て二人は乗合馬車の発着場所に向かった。南行きの臨時便に乗り込み、程なく馬車が動き出した。
「南までよろしくお願いします」
「いや、こっちこそ世話になって。どうせ五日は一緒になるんだ。よろしくね」
人好きのする顔で女性がにっと笑った。
馬車の窓から、遠ざかっていく王城が見て取れた。少しでも発覚が遅れてくれれば、それだけ安全に逃げられる。その思いで娘は王城を眺めていた。
途中宿屋での宿泊が必要になる。そこで、乗合馬車は馬と御者をかえて次の街を目指すのだ。女二人だからと娘はその女性と同室になった。
「あんた、なんで南に行こうとしているんだい?」
宿の寝台に腰掛けて女性が尋ねる。どう言おうかと少し悩んで、娘は思い切って目を見せた。
女性は黒い目に驚いている。
「この色が珍しいからと王都に連れてこられたんです、そして身の危険にさらされたので逃げ出したんです」
「そうかい、大方珍しいもの好きのどっかの貴族が無理強いしたんだろ?」
当たらずとも遠からずな言い訳を信じ、女性は娘に同情してくれた。
そしていいことを思いついた、と娘に提案する。
「じゃあ南に知り合いがいるわけじゃないんだね。あたしは港町で宿屋と食堂をやっているんだけど、あんたさえ良かったらそこで働かないかい? 住み込みでさ」
「いいんですか?」
「勿論さ。人手が足りなくて誰か雇おうと亭主と言ってたとこだし。ただ船乗りが多いとこだから人は悪くないが、男どもが鬱陶しくてね。
あたしには妹がいたんだけど、船乗りと駆け落ちして別の大陸に行っちゃったんだ。だからあたしと同じ色に髪の毛を染めて、姪ってことにすればちょっかい出す奴もいないだろう」
願ってもない申し出で、娘はそれに乗ることにした。
次の街で赤い毛染めを買って宿で染めた。前髪をそろえて眉は隠れるようにして、生え際は布で覆うようにと髪型を整えた。他の乗客に髪の色が変わったのがばれないように、そこからは頭全体を布で覆い終点の海辺に到着した。
女性――女将に連れられ宿屋兼食堂についた。
「あんた、こっちに来ておくれ」
その声に奥からのっそりと大男が現れた。日に焼けた肌にぱさついた感じの濃い茶色の髪の毛には白髪が混じっている。目は海のように深い青だった。女将は亭主だと紹介してくれたあとに、簡単に娘のことを説明した。
「というわけで、あたしの姪ってことでここで働いてもらうから」
「お前がいいなら、俺は別に構わない」
「よろしくお願いします」
こうして、娘は女将の姪として港町で生活を始めた。
王都を離れてから襲撃もなく、数ヶ月は平穏に過ぎた。
冬を越し、春も過ぎて海の色も美しい夏が来ていた。