25 代償
頭の中に団長の声が聞こえる。
『正面で手が自由にならなければ』
まず、重ねられた唇を思い切り噛んだ。顔がのけぞったところで頭突きをする。国王の歯が当たって娘も痛いが、国王の唇にはダメージがあったようだ。口を手で覆って上体に隙間ができたところで下を向いて足を踏みつける。肘を広げて拘束から抜け出し真っ直ぐに扉に向かう。
『とにかく一瞬でも戦意を喪失させて、あとは逃げること。道すがらで武器になりそうなものを手にすること』
その教えに従い、肉を切り分けるナイフを手にとった。
「待て。待ってくれ」
背後で聞こえる国王の声にも足を止める気はまるでなく、開けた扉の向こうには王弟と侍女が心配そうに待っていた。
「どうされたのですか? 顔が赤いですよ」
「部屋に戻ります。もうここには来ません」
侍女から言われても、確認する余裕すらない。
小走りに廊下につながる扉に手をかけて出ようとした時、国王の命令が響いた。
「部屋から出すな。……頼む、話を聞いてくれ」
扉の両脇にいた近衛が、王命には逆らえずに持っていた槍を扉の前で交差させた。
足止めされた娘は、近づいた国王が肩に手をかけたタイミングで振り返って平手を見舞った。あえて受けたのだろう。よけもせず大きな音を響かせ、手形を張り付かせた国王は静かに立っている。ただ目だけが、感情をたたえている。
「陛下が」
娘は後ずさる。すぐに扉に背中が付き、そこで体を支える。
「次の人のために、少しでも変わればと思ったのは間違いでした。結局、自分のしたいようにしか行動しない。私の気持ちももうすぐ帰る事情も分かっていて、どうしてこんな真似を」
「どうして。そなたこそ、自分のしたいように行動しているだろう。残れ、守られろと言っているのに頷こうとしない」
「私はここには残らない。守られるにしても、あなたの腕に囲われてなんて真っ平です。大人しく部屋にこもるつもりではいます」
一歩国王が踏み出した。
「あなたは私の外見しか判断しなかった。その後も自分勝手に気持ちを押し付ける。それでも、少しは良くなったかと思ったのに」
瞬間国王の顔が歪む。それでもまた一歩近寄ってきた。
「そうだ、外見でしか判断しなかった愚か者だ。その後も傷ついたそなたを思いやろうともしなかった。だが折れないそなたの強さに、余を嫌っていても筋は通そうとするそなたの生真面目さに惹かれた。
好きな女が危ない目に合っている。自分の側で、自分で守りたいと思って何が悪い。
これも気持ちの押し付けだろうが偽らざる本音だ」
娘は王弟と侍女に目をやった。二人とも口を挟めずに固唾を呑んでいる。扉横の近衛も同様だ。国王が近づいてきたため槍を戻している、国王に視線を戻した娘は、後ろ手に扉の取っ手を探った。
国王は慎重に歩を進めた。周囲の人間はとっくに視界から消え娘しか目に入らない。
「私は嫌いと」
「承知している」
「今は大嫌い」
「構わない」
きっと睨みつけてくる娘の視線は、感情は自分だけに向けられている。それすら嬉しいと思うようになったのが不思議だ。今までなら不敬な、不遜なと切って捨てていたのに。
「私は帰るんです。あなたのお相手じゃありません」
――帰さない、とは言えなかった。それを権力を使って実行すれば唾棄すべき卑怯者になる。だが帰したくない。本当はそれも無理なのも分かっている。それでも気持ちは伝えようと。
「余はそなたが好きだ、愛している。伴侶になってほしい」
告白を受けた娘が見る間に真っ赤になった。その顔が泣きそうになったが少しだけ目をつぶって気持ちを落ち着かせ、それと同時に取っ手を回す小さな音がした。目を開けた娘ははっきりと告げた。
「私はここからいなくなるんです、それは次の人に言ってください」
ナイフを傍らの近衛に押し付けて扉を開け、滑り込むように廊下に出て行き、そのまま駆け去ってしまった。
室内には気まずい沈黙だけが落ちた。主たる国王は頬に手形のあとをつけ、唇は腫れて端は切れている。王弟は近衛に他言無用を誓わせた上で、侍医を呼ぶように手配した。奥の部屋に移動して侍女は濡らした布で唇を拭う。傷に当たったのか国王が顔をしかめた。
「誰か、付いているのか?」
国王の問いに王弟が答える。
「はい、襲撃のあとから護衛の数を増やしています」
「そうか、ならいい」
「よくありません、兄上。一体何をなさったんですか」
侍女が頬を冷やす氷を取りにいくために氷室に向かうのを待ってから、王弟は国王に問いただす。国王は頬を濡れた布で押さえながら、笑いを抑えられずにいた。笑うと唇が痛み引きつる。
「抱きしめて、口付けて、反撃された。護身術は結構身についているようだ」
「笑い事では」
「さすがにそなたの耳にも襲撃の件は入っているだろう? まず、そなたではないとしてよいか」
青い瞳を真っ直ぐ向けられ、王弟の目がすがめられる。
緊張が二人の間に生まれ、唐突に消える。消したのは王弟だ。
「私がやるのなら、まず兄上ですね。そして兄上の差し金でもないのですね」
「当然だ。なぜあちらが狙われるのか理解に苦しむ」
「同一人物とすると、あの方が帰還に傾くのを促しているとしか思えないのですが」
「再召喚と帰還を知る者はごく少数だ。知っていれば行う意味はないし、知らないのであっても意図が分からぬ」
二人してしばし考え込む。
程なく侍女が氷水を持ってきたのでそれで頬を冷やしながら、可能性を探る。
「叔父上はどうだ」
「王城内に内通者がいれば情報は得られるでしょう。ただ、最初の疑問に戻ります」
娘を執拗に排斥しようとする動きが東の不穏な動静と繋がるのか。東が武器や傭兵を抱え込んでいるのは間違いない。探ったところではすぐに内乱を起こせる規模ではない。むしろ、こちらを挑発する姿勢すら見受けられる。
王都や国王を多方面から揺さぶるのに、娘を使うのも妙な話だ。
娘の帰還が決まっている以上、駒にはなりえないし娘を操るのは骨が折れる。
「叔父上の側に潜ませている者からの報告は?」
「相変わらず、領地での足元固めに力を注いでいると。信仰心も深く、領民にも慕われているよい領主ぶりだそうで」
「ふん、父の弟がそんな殊勝なはずがない」
義弟を唆したであろう叔父は尻尾をつかませず、領地で着々と力を蓄えている。
東の騎士団への人員はさりげなく増員し、事が起こればすぐに王城に伝達するように複数の連絡路も確保している。それでもなお燻る不穏な空気は、儀式への緊張も加わって国王をこのところ苛んでいる。それに加えての娘への襲撃だ。
とりあえず手の届くところで守っていたいだけだったのだが。
「儀式まであとどれくらいだ?」
「秋の祭典に合わせますからね。祈る人が多いほど召喚の精度が上がるらしいので、あと一月です」
「それまであの娘が大人しくしているのだろうか」
「さて、それは。兄上がまた揺さぶりましたから」
顔を横に向けた国王は、悪戯を思いついたような表情で王弟に提案する。
「ここに来ないのなら、こちらから出向くか?」
「……兄上」
「分かっている。冗談だ」
こんな時に冗談は止めてほしい。王弟は切実に思った。
侍女は国王をたしなめてから使用人棟に足を運んだ。娘の部屋の前で、護衛に軽く頷いて扉を叩く。
娘に声をかけて、部屋に入れてもらった。狭い部屋の寝台に娘は腰掛けていた。そこにさっきまでの元気はなかった。
「陛下の具合はいかがですか?」
「頬は冷やしています。唇と口の中は知りません。しばらくは食べ物がしみるとよいんです」
「足は? 思いっきり踏んだんです」
「あら、足もでしたの? 陛下は何もおっしゃいませんでしたから気付きませんでした」
さらりと侍女は言い捨てて娘に笑いかけた。
侍女の茶色の髪の毛と優しい瞳が、娘にはしばらく見ていない面影と重なる。さっき頭によみがえった声も久しく聞いていない。
「食堂へはもう行けません。再召喚までここにいます」
「こんな狭い部屋にこもられるのですか? それこそ本宮にいらしては」
「陛下の近くは、嫌です」
きゅっと自分の腕を交差するように抱えた娘は、呟く。国王の告白は目の前で聞かされ、その前の行為もおぼろげながら悟っている侍女は娘の状態を困惑、混乱と見てとった。先程の名残か頬がうっすらと赤らみ、同性からも魅力的に映る。
だからといって娘の厚意につけこんだ国王のやり口が赦されるはずもない。
「驚かれた?」
娘は少し迷うようだったが、頷いた。
「私が襲われた件で、動き回れば隙を作って襲撃されるのは納得しました。でも陛下の側には……」
「そうね。この部屋では誰も隠れられないし、壁伝いにも上がって来れそうにないからこちらでもいいかもしれないわ」
食事にだけ気を配れば危険は少ないはずと侍女は考える。名目を療養あたりにすればあと少しの間なら、部屋にこもっていても不自然ではないはずだ。部屋周囲の警備は兄が上手くやるだろう。そこまで考え兄の様子に肩をすくめる。
全く陛下といい、兄といい好みが似通うとは思っていたのに、ここまでとは。一人きりで異世界に放り出され、初っ端から辛い思いをしたこの娘に兄が惹かれるのは分かる。なよやかに見えて芯が強いとなればなおさらだ。
でも陛下。あんな熱烈なことを言うのなら何故最初に優しくしてあげなかったのかと、自分が召喚に立ち会っていたらなんとしても陛下の口を塞いだのにと悔やんでしまう。伝説の娘を抜きにしてもこの子はいい子だ。知己を得られて本当によかったと思っている。
そっと忍ばせてある首飾りを服の上から触りながら、妹のように思ってしまう娘をいじらしくていとおしいとしみじみ感じる。
こうなったら、陛下や兄は知ったことではない。娘が幸福であればいいとさえ思っている。
「退屈しのぎに沢山本をお持ちしますね。ほかに何か要りますか?」
「裁縫道具や布などいいですか? 手芸でもしようかと」
「お安いご用ですわ」
娘と女らしい細々としたことを決めて、部屋を出る。向かいと隣の扉は少し開かれていて常駐の護衛の気配を感じる。
祭典まであと一月。何事もないようにと祈りながら、国王の顔を思い出しておかしくなる。女性から拒まれるのもおそらく攻撃されるのも初めてだろう。しかもその後で平手を食らっていた。
やったことは情けないけれど、娘の怒りをきちんと受け止めたのは傍から見れば最低限の誠意に見えた。本当に誠意があればそもそも無体はしないというのは承知の上だけれど。
「少しは思い知ったかしら。自己中心で傲慢では人はついてこないことに」
人に聞かれれば不敬罪。だからそっと呟く。外見だけは立派に国王なのに、中身が歪んでしまったかつての『お兄さん』。綺麗に笑う太陽と空のような色彩は子供心に憧れた。平凡な茶色の自分と比べると羨ましいほどだ。そこに寄り添う夜のような色彩を想像する。
お似合いの二人だ。内面も似ているように思える。それがこじれるとは上手くいかない。
国王の言動は女性の敵としていいから、擁護するつもりはない。
ただあの情熱的な告白だけは、ほんのちょっと素敵だと思ってしまっただけだ。
気を取り直して本宮に戻る。もう一回陛下には『きちんと』お話しなければと物騒な笑顔を浮かべながら歩いていた。
娘は寝台の上に座り込んで壁を背に夜空を見上げる。唇はさっきの感触を拭い去ってはくれない。
思い出すと体温まで上がってしまうので、枕に顔を埋めて耐える。
「どうして誰もかれも。こっちの世界への引力なんて要らない。私への執着なんて要らないのに」
国王のあの様子では再召喚をしないのではなかろうかと、眠れぬ不安な夜を過ごした。