22 トラウマ
こんな予感は外れて欲しかった。何かに突き動かされるように団長室を出て階下の食堂に行きながら、団長は菓子屋でのことを思い出す。
いやにはっきりと嫌いだと言い切った口調は、普段の物静かな佇まいとは違っていた。
とはいえ、雷を嫌いな女性は多い。あれを好きで眺めていられると、それはそれで違和感があるのだが。雷が落ちるとそれ以上に響く女性の悲鳴の方がよほど煩い、間近で聞かされると耳がどうかしそうなくらいに思える。
だから雷が嫌いとはその程度だろうかとも考えた。
だが嫌いと言って視線をそらした顔には、苦悩ともいうべき表情が刻まれていたように思う。
食堂が見えたその時、中から団員が出てきてこちらを認めた。
護衛に付けてある騎士だ。それがほっとした顔をして近寄ってきたのに、ひしひしと嫌な予感ばかりが増してくる。
「団長、今、お呼びしようと思っていたところです」
「どうした」
「あれを、ご覧下さい」
食堂に入って見たものは、窓とは反対側の隅で耳を両手で塞いでうずくまる娘の姿だった。
――予感が、当たった。
目は吸い付けられたままに傍らの騎士に尋ねる。
「いつからあのように? 雷が鳴ってからか?」
「最初雨がひどくなった時は、表情が曇ったのですがまだ。雷鳴が聞こえた途端に真っ青になって後ずさり、あのような状況に……」
できるだけ身を小さくして、存在自体を消してしまいたいように見える。
目を閉じ、耳を塞いで感覚を遮断しようとしているようだ。
「ご苦労だった。この場は私が当たる。陛下への伝言を頼まれてくれるか?窓のない、音が聞こえにくい寝室を用意して欲しいと」
風雨の中を使いに出し、うずくまっているところに近寄る。
その前に腰を下ろした。
かすかに震えているのを怯えさせないように、耳に持っていっている手を覆う。娘が泣く寸前のような顔で見上げてくる。ひどく頼りなく弱々しい表情に、団長は不覚にも動悸を覚えた。
今だけは恐れられることの多い大きな体躯で、窓の景色がさえぎられているだろうことに感謝しながら話しかける。
「気分が優れぬか」
雨に濡れた野良猫を保護する気分だ、などと埒もない想像をする。
答えようと口を開きかけた途端、稲光とすぐに続いた雷鳴が鼓膜を震わせた。
娘がびくりとすくんで、唇を震わせる。それを見た瞬間にはもう、考えるより先に抱き上げていた。
「窓のない部屋に移動する。ここよりはましだろう」
普段の娘ならすぐに下りようとするだろうが、抵抗はされなかった。
大股に食堂を出て、階段を上る。
途中行き会った団員達がぎょっとした顔をしているが、今は一刻も早く安心できる場所に連れて行くほうが先だとばかりに歩く。
何より団長の迫力におされて、皆、その姿を見送った。
「重く、ないですか? 自分で歩けると思いますので……」
口をきく気力もないと思っていたのに、意外にしっかりした声だ。
こんな時にそんなことが気になるか。女心とはそうしたものだろうかとおかしみを誘われる。
「いや。あなたなら片腕でも大丈夫だろう。それをすれば、私の首に腕を回してもらわないとならないが」
軽口に反応した娘の雰囲気がふっと緩む。しかし見澄ましたように雷鳴が響いて、腕の中で再び硬直してしまった。
「目はつぶっていろ。気休めにはなるだろう」
さほどかからずに団長室に戻り、副団長が扉を開けてくれた。迷わず、続き部屋になっている隣に向かう。
いよいよ顔色が悪くなっている。早く、扉を閉めてしまわねば。
団長にとっては勝手知ったる部屋だから、暗くでも支障はない。とりあえず長椅子に下ろした後で明かりをつける。
「ここは作戦会議や内輪の会談などで使われるために、窓もなく壁も厚くなっています。ここなら他の場所よりも怖くないでしょう」
他人の目がなくなると途端に敬語になっていまう団長には、主従の序列が染み付いている。
長椅子の上で動く様子のないのは気がかりだが、一応の目的は果たしたので部屋を出ることにする。
副団長には雷雨がおさまるまで扉を開けるなと言ったが、男女が密室など、しかも相手が相手だけにとんでもない話だ。
だから部屋を出ようとしたのに。
すがるような眼差しを向けられて、団長は出そびれてしまった。
それでもけじめをつけるかのように、離れた場所に椅子を持っていって座る。
「そんなに雷が苦手とは思いませんでした」
団長の感想に、疲れたような答えが返る。
「親が、ひどい雷雨の夜に事故にあったんです。車――人を運ぶ乗り物に乗っていたんですが、反対側を走る車が雨ですべって突っ込んできて衝突したんです。
病院から呼ばれて集中治療室に向かう時も、雨がひどくて雷も近くで落ちて。
結局、親はそのまま……。こちらに来て雷雨があった時にふいに思い出されて、あれから駄目ですね」
指先が震えている。ごく最近の辛い思い出と連動しているのなら、こんな反応でもおかしくないだろう。
「では以前の雷雨の時にはどうされたのですか?」
「ベッド、寝台の中で寝具を頭からかぶって、耳を押さえてやりすごしました」
さっきのように身を縮めていたのかと思うと、痛ましい。
この部屋は視覚は遮断されるが、さすがに扉越しの音までは完全に防ぎきれない。
くぐもるような雷鳴は、部屋の中にまで忍び込んでくる。
「情けないですね。音だけでも駄目なんて」
耳を手で押さえるその仕草は、ここにいるのは伝説の娘でもなく、気丈な娘でもなく、ただの傷ついた娘なのだと思わせた。
無理をするな。口に出そうになった言葉を飲み込んで、娘の前へと移動する。
手を差し出せばいぶかしげながらも手をのせる。長椅子から立たせて。
片耳は手で覆い、もう片耳は胸の、心臓の上に来るように引き寄せて頭を抱え込んだ。
さすがに娘は慌てている。
「こうすれば、他の音はまぎれるでしょう」
心臓の音と胸から響く声で、少しでも雷鳴が聞こえなくなれば。
しっかり抱え込むことで、少しでも震えがおさまれば。
目的を表現するとすればこんな感じだっただろうが、理屈抜きで震える猫をなだめたかったのかもしれない。
目を落とせば、染めた髪の毛とつむじが見えるはずだが、こころもち顎を挙げて視線を宙にさまよわせる。
耳には雷鳴が届く。
――まだ、手をどけるわけにはいかない。
身を強張らせていた娘からふっと力が抜けたかと思うと、だらりと垂れていた両腕がそろりと持ち上げられて脇を回り、背中できゅっと服を握られるのを感じた。
さすがにぎょっとすると、顔は見えないが声が聞こえた。
「ごめんなさい。この方が心臓の音がよく聞こえるんです、もう少しだけ……」
猫が少し懐いただけだと思おうとするのに、馬鹿正直に鼓動が早まって上手くいかない。顎をさっきよりもあげて、決して視界に入れないようにするのが精一杯だ。
耳を覆っている手のひらが固い感触を伝えてくる。伝説の娘に渡される耳飾りだ。どんな仕組みかは分からないが、これを身につけるだけで言葉の壁が解消できる、神殿の奇跡の品。
これを外せば、言葉は通じない。
覆っている手をずらして耳飾りを外す。
決して顔を見ないように、頭を一層おしつけるように引き寄せた。
今なら、今だけなら。
「――」
娘からの反応はなかった。
どれくらい時間が経過したのか。扉が強めに叩かれて、慌てて拘束を解く。
「雷は遠くにいった。雨もだいぶ弱くなった」
怒ったような副団長の声が、少し開いた扉から聞こえる。
耳飾りを手渡してそれを装着した娘から見つめられる。努めて平常心を保つ。
「さっき、なんておっしゃったんですか?」
「雷の音が違って聞こえませんかと」
部屋を出ると、窓越しには雨が小降りになったのが見て取れる。
副団長に小声で指示する。
「送っていってやってくれ。それから、明日以降の護身術の指導を頼んでいいか?」
「――承知した。お前はこれからどうするんだ?」
「陛下のところに」
副団長はそれ以上は何も言わずに、娘を伴って団長室から消えた。
一人きりになった部屋で、浅ましい己の手を見つめる。
国王のもとに伺候した団長は、仔細を報告する。
その間、国王は何の表情も浮かべずにただ団長の報告を聞いている。
最後まで黙って聞いて、青い瞳をじっと向けた。
「状況は理解した。そなたの妹を使用人棟に向かわせているので、今夜は用意した部屋で休んでもらおう」
「承知いたしました。そして、今後私はあの方との接触を減らそうと思います。
誤解されればお気の毒ですから」
「誤解。――誤解としてよいのだな?」
ほんの少し、沈黙が支配する。
それを団長のきっぱりとした返事が破った。早くなく遅くない、絶妙の間合いだった。
「勿論です。雷がお嫌いだと伺っていたので、ご負担を減らすべく行動したまでです」
国王は探るような視線をよこす。ここ最近の洞察力には驚かされているが、表情を出さない術は自分とて鍛えられている。
視線を泳がさず、むきにならず、ただ静かに国王が探るに任せる。
「そうか。ご苦労だった」
国王に一礼して部屋を出る団長は、背中に国王の視線を感じた。
まさか自分が向けられるとは思わなかった感情がそこにある。
表面上は受け流し、扉を出る際に再度礼をする。
重厚な扉が閉じ、廊下を静かに歩く団長の表情から、感情を窺い知ることはできなかった。
娘は侍女に連れてこられた部屋に落ち着いていた。
客室か側妃のための部屋の、予備室ないしは侍女の部屋と思われる。落ち着いた内装と家具が置いてある。あまり広くなく、窓がないのを補うためにともされた明かりが柔らかな陰影を与え、居心地が良い。
侍女にあれこれと世話を焼かれ、夕食と入浴を手早くすませて、いつもよりずっと早い時間に寝台に追いやられている。
使用人棟の寝台とは違う、侍女用としても肌触りの良い、柔らかな寝具に眠気を誘われる。
うとうとしながら、無意識に耳飾りに触れる。
「……嘘吐き」
精神的な疲労には勝てずに眠りに落ちる寸前、出てきた言葉は誰にも聞きとがめられなかった。