14 傷
国王がゆっくりと近づくのに、娘は動けなかった。
娘から視線を外さずに、娘の側で椅子ではなく卓に浅く腰を下ろした国王は、抑揚のない声で娘に問いただす。
「『お前』のところに身分の上下はあるのか?」
「基本的にはありません。人は平等とされています」
何がそんなにおかしいのか、国王は小さく笑った。
いまだにお前呼ばわりされて、娘が気に入らないのも意に介していない。
「それで初めから無礼なわけだ。先程のは余を哀れんだのか? 違うな、お前とてお前の価値観で図って余を蔑んでいる」
「それは……」
「余は国王だ。国王の思いやりは『慈悲』になる。軽く与えられるものではない。『謝罪』もしかり。
余が頭を下げることは、国がその相手に膝を付くのど同じになる。そこに付けこまれ、どんな無理難題を押し付けられるか分かったものではない。身分の何たるかが分からないのなら、余の言葉も態度も理解できなくて当然か」
つい、と顔を娘に近づけるとその分後ろへと引き気味になるが、椅子の背に阻まれ娘はそれ以上は後ろには下がれない。
少し怯えを宿した目は、それでも国王からそれない。
それが国王には快くもあり、不快でもあった。
「首を刎ねても牢に入れても、眉をひそめる者はいても国王が命令すれば、皆従わざるをえない。――お前のところに戦はあるか?」
唐突に話題が変えられ、娘はとまどいながらも随分昔にはあったが今はないと答える。
「人が殺しあうことは?」
「皆無ではないですが、少なくとも私のまわりではありませんでした」
「随分と平和な生ぬるいところなのだな。これが何か分かるか?」
あざけるような国王の言い方にむっときて、口を開きかけた娘は首元を緩めた国王が示したものに目を吸い寄せられた。
ぐいっと喉元をさらした国王の首に走る、真っ直ぐな線のようなもの。
「きず?」
「剣で受けたものだ。異腹の弟からな」
その傷は頚動脈ちかくにあり、もし位置や深さがずれでもしていれば致命的なように思えた。
娘は間近で見る暴力の痕跡にもだが、国王の『異腹の弟』の言葉に思考が止まる。
それは、実の弟から剣を受けたということだろうか。
まじまじと国王を見つめると、国王は口の端だけをゆがめている。
「父が亡くなった後のことだ。即位の準備に追われてばたばたしているところに、弟が訪ねてきた。
『自分を王位争いに担ぐ貴族がいるが、そのつもりはない。臣下に下り兄上にお仕えしたい』と。そう言って弟を推す貴族の一覧を出してきた。
余は弟の心根が嬉しかった。自ら争いごとから身を引き、余を立てようとしてくれたその姿勢がな」
国王は身をよじって、卓の上の杯に酒を注いで、ぐいっと飲み干した。
喉を湿らせ、また話を続ける。
その先は楽しい話ではないだろうに、国王の笑みは張り付いたように消えない。
「爵位や領地についても悪いようにはしないと色々と今後の話をして、『兄弟として過ごす最後の夜だから』と言われて、何の疑いもなく酒を酌み交わした。
一応用心のために酒も杯もこちらで用意していたのだが、弟はそれを運ぶ侍従を買収していたのだ。
飲んで、体が動かなくなった、痺れ薬だな。弟は、余を見て卑しい笑いを浮かべて、剣を抜いて切りかかってきた」
国王は娘が青ざめるのをどこか小気味よく感じながら、話続ける。
今でもあの情景はありありと思い出せる。痺れ薬の効果以上に弟からの殺意で、身動きのできなくなった体。
異腹とは言え血のつながりのある弟から、寄せられた憎悪と殺意。
奇妙に美しく光を反射した、剣。
まるで昨日のことのようだ。実際は何年も前のことなのに。
「余が助かったのは薬に耐性があったからと、剣先をかわすことができたからにすぎぬ。その頃近衛になったばかりの団長が駆け込んだ時には、余が弟を返り討ちにしていた。
『慈悲』は与えてやったぞ。生き恥を晒さず、拷問にもかけず一思いに、苦しませずに死なせてやったのだからな」
今度こそ娘は口を手で覆った。目だけが見開かれて国王を凝視する。
もう一杯酒を飲んで、国王は今度は静かに杯を卓に置いた。
「弟の日記には余に対する呪詛のような怨嗟が書き連ねてあった。年も近く、母親の身分は国内では高貴な貴族の娘なのに、年長で王妃の子だからと王太子になった余が赦せなかったようだ。
余が弟を同腹の弟と隔てなく扱うのも、どうせ召喚の儀で王妃を迎えるからと余に想いを寄せる娘をすげなくあしらったのも悪かったらしい。その娘が弟の想い人だったからなど、下らぬ動機だ」
娘は国王が淡々と、時々は皮肉げに紡ぐ話をただ聞いているしかなかった。
喉になにかが張り付いたように、からからに乾いてくるのを止められない。
「分かるか、この剣は飾りではない。不敬も無礼も看過すれば舐められる。余は弱みは見せられない。
横に立つ王妃の外見でそしられるわけにもいかなかったから、あの時のお前は駄目だと思った。ただ、あれはゆきすぎであったとは思う。故に謝罪した。
『人としての思いやり』の前に、余は国を支えねばならない立場だ。非道にも非情にもなる。そのために権力も使う。
お前は次の者が召喚されるまでは、余の王妃候補だから、これでも思いやっているのだ。余はこのやり方しか知らない。それでここまできたのだ」
すっと国王が手を伸ばして、娘の頬を覆うように触れる。
親指の腹で娘の目尻に触れながら国王は低く、呻くように。
「余が死んでも目蓋が腫れるほど泣いてくれる者などおらぬ」
「……弟さんや側近の方は、あなたを慕っているように見えます。そんなことはないのでは?」
「そうかもしれないが、そうではないかもしれない」
自嘲気味に呟く国王の手を頬から外しながら、娘は国王の首の傷に手を伸ばした。
なぜだか笑っているのに、国王が泣きそうに感じたせいだろうか。いい大人が泣くはずもない、それに俺様な国王ならなおさらだ。
そう思ったのに、娘の指先は心拍に合わせて動く頚動脈の側の傷に触れた。
瞬間国王が身じろぐが、そろりと這う娘の指をそのままに、目線を首に落とした。
首の傷はそこだけ少し色が変わって、つるりとした感触になっている。
「痛かったですか?」
「血はかなり出たな」
言いながら国王は首に触れていた娘の手をとった。
国王に手を握られた娘が焦って、手を抜こうと力を入れてもそれは外れなかった。
気付けば。かつてない近さで国王に手を取られている。娘はそれを意識した途端に、顔が赤くなるのを感じた。
娘は気付かなかった。国王の目配せで侍従がそろりと部屋を出て、扉をきちんと閉めたのに。夜の国王の私室に二人きりになっていることに。
国王は娘の手を眺めている。水仕事でいくらか荒れたかもしれないが、白く傷のない手だった。
「この手は血に汚れたことなどないのだろう? 平和なところでぬくぬく育ったお前のきれいごとは、余には響かぬ。
それとも王妃として苦言を呈するか? なら聞き入れる余地もあるが」
息をのんだ娘を見やり、握った娘の手を口元に持っていった国王は、わざと見せ付けるように指先に口をつけた。
頭が真っ白になった娘は短い悲鳴とともに立ち上がり、手を引いた。
椅子が派手な音をたてて、倒れる。
娘が身を引くのを赦さずに国王はぐい、と娘の手を引き寄せた。
均衡を崩してつんのめった娘は、国王に抱きとめられる形になった。
「い、やっ離してください!」
腕の中でじたばたする娘の耳に、国王は耳をよせた。
「ここに留まるならともかく、お前はここから去るのだろう。そんな者がずかずかと踏み込んでくるな」
「踏み込むつもりはありません。ただ、あなたは強がっているだけなんじゃ――」
「――まだ言うか」
国王は口では踏み込むなと言いつつ、娘を腕の中に拘束して手を握る。
この矛盾をどうしたものか。