休符
音を出さないことが、いちばん難しい。
そう教えてくれたのは、王立楽団の指揮者を三十年務めたマルセル先生だった。
「音を出すだけなら、練習すれば誰にでもできる。だが、音を出さない一瞬を全員でそろえるには、互いの呼吸を聞かなければならない」
十六歳だった私は、その言葉を技術の話だと思っていた。
六年後、自分が王立楽団の副指揮者になっても、まだそう思っていた。
この国では、王族の大きな儀式には必ず音楽が必要になる。
結婚式、葬儀、戦勝式、そして戴冠式。
大勢の人が同じ場所に集まり、強い喜びや悲しみを抱くと、それに引かれるように空気中の魔力まで揺れ始める。その揺れを整えるのが音楽だった。
難しい仕組みを知らなくても困ることはない。
人が緊張したとき、ゆっくり息を吸って吐けば少し落ち着く。それを何千人という人間と、王宮に満ちる魔力に対して行うのが王立楽団の役目だと思えばいい。
だから私たちは、ただ美しい演奏をすればいいわけではなかった。
速さをそろえ、音の強さをそろえ、必要な場所で息を合わせる。
一人だけ素晴らしくても意味はない。
百人近い楽団員が、一つの大きな呼吸をする。
私は、それを作る仕事が好きだった。
「今日も正確だったよ、エレナ」
練習が終わったあと、婚約者のレオンが楽譜を閉じながら言った。
褒められたはずなのに、その言葉が少しだけ引っかかった。
「ありがとう」
「第三楽章の入りなんて、時計みたいだった。全員ぴたりと合っていた」
「そこは昨日、ずれていたから」
「うん。直っていた」
レオンは王立楽団の首席ヴァイオリン奏者だ。私より二つ年上で、音楽院にいた頃から知っている。私たちの婚約は両家の勧めで決まったものだったけれど、私は悪く思っていなかった。
レオンは真面目で、努力家で、誰よりもよく周りの音を聞く人だった。私が指揮を学び始めた頃も、何度も練習に付き合ってくれた。
少なくとも、ひと月前までは。
「レオン!」
明るい声が響いた。
私たちが振り向くと、リディアがヴァイオリンを抱えて走ってきた。
半年前に地方の音楽院から王立楽団へ入った、十九歳のヴァイオリニストだ。
彼女は天才だった。
そう呼ぶことに、私は何の迷いもない。
一度聴いた曲をすぐに弾き、難しい部分ほど楽しそうに笑う。決められた音を弾いているはずなのに、その場で生まれた音のように聞こえる。
何より、人を振り向かせる力があった。
「さっきの最後、どうだった?」
リディアはレオンの前まで来ると、ヴァイオリンを弾く真似をした。
「ちょっとだけ伸ばしたの。気づいた?」
「気づいたよ。あれは君だったのか」
「駄目だった?」
「いや。曲としては面白かった」
リディアが嬉しそうに笑う。
私は二人のやり取りを聞きながら、楽譜を胸に抱えた。
「ただ、本番では譜面通りにお願い」
私が言うと、リディアの笑顔が少しだけ薄くなった。
「分かっています、副指揮者様」
「戴冠式で演奏する曲だから、特に最後は変えられないの」
「はい」
返事は素直だった。
けれど、レオンが少し困ったように私を見る。
「エレナ、今日は普通の練習だ。そこまで厳しく言わなくてもいいんじゃないか」
「本番で変えられないところだから、練習でも同じようにしておきたいの」
「君はいつもそうだな」
「そう?」
「正しいよ。間違ってはいない」
また、正しい。
その言葉が今度ははっきり胸に残った。
リディアが私たちの間を気にするように視線を動かしたあと、「片づけてきます」と離れていく。
彼女の姿が十分に遠くなってから、レオンが小さく息を吐いた。
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「何?」
「君の音楽は、いつも正しい」
「さっきも聞いたわ」
「でも、リディアの音には……心があるんだ」
私は何も言えなかった。
レオンはすぐに言葉を足した。
「君に心がないと言っているわけじゃない。ただ、あの子が弾くと、次に何が起こるのか聴きたくなる。楽しいとか、悲しいとか、そういうものが真っすぐ届くんだ」
「私の指揮には届くものがない?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
レオンは答えを探しているようだった。
その顔を見ているうちに、もう聞きたくないと思った。
「ごめんなさい。困らせたいわけではなかったの」
「エレナ」
「明日も朝から練習でしょう。今日は帰るわ」
私は楽譜を抱えたまま、彼より先に練習場を出た。
腹が立った。
悲しくもあった。
けれど、一番嫌だったのは、レオンの言葉を完全には否定できないことだった。
私は間違えないことを大切にしてきた。
指揮者が迷えば、百人が迷う。私が一拍間違えれば、舞台の上だけでなく、儀式そのものに影響が出ることもある。
だから感情より正確さを選んだ。
楽しいから速くする。悲しいから遅くする。そんなことはしない。
楽譜に書かれたものを読み、作曲者が求めた形をできる限り正確に楽団へ伝える。
それが私の仕事だと思っていた。
自室に戻ると、机に戴冠式の楽譜を広げた。
最後の曲は『王冠のための祝典曲』。
百年以上前から、王が代わるたびに演奏されてきた曲だ。
最後から八小節目。
そこだけ、すべての楽器に休符が書かれている。
音を出さない一小節。
戴冠式で最も大切な場所だった。
そこまで音楽によって整えられてきた魔力が、一度静まり、大地へ戻る。そのあと最後の和音を鳴らして、儀式は終わる。
たった一小節。
けれど、そこに余計な音が入れば、行き場を失った魔力が王宮の中へ戻ってくる可能性がある。
私は赤い鉛筆で、その休符を囲んだ。
音楽に心があるとは、どういうことだろう。
その問いを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、夕食を」
「ありがとう。あとでいただくわ」
侍女が去ったあと、私はもう一度楽譜を見る。
音楽院では、正しい答えをたくさん教わった。
拍子。
音程。
和音。
楽器の使い方。
でも、人の心を動かす方法なんて授業はなかった。
私は楽譜を閉じた。
分からないなら、聞けばいい。
それがその夜、私が出した結論だった。
翌朝、私は練習場へ一番に来た打楽器奏者のオスカーを捕まえた。
「一つ聞いていい?」
「副指揮者がそんな顔で聞いてくると怖いな」
「私の指揮、どう思う?」
「どうって」
「正直に」
五十歳を越えたオスカーは、少し悩んでから言った。
「分かりやすい」
「それは褒めてる?」
「もちろん。いつ入るか迷わないし、間違えたらすぐ気づく」
「ほかには?」
「ほか?」
「悪いところ」
オスカーは露骨に目をそらした。
「言って」
「怒らない?」
「怒らない」
「じゃあ……ちょっと、怖い」
「怖い?」
「間違えちゃいけないって思う」
意外だった。
「本番なら間違えないほうがいいでしょう?」
「そりゃそうだけど、練習でも間違えちゃいけない顔してるんだよ」
「どんな顔?」
「今みたいな顔」
私は自分の頬に触れた。
オスカーが笑った。
「副指揮者は悪くないよ。ただ、俺たちが百点を出すまで待ってる感じがする。マルセル先生は、六十点でも一回最後までやらせてから、『面白い失敗だったな』って笑う人だったから」
「失敗が面白いの?」
「たまにはな」
その日から、私は楽団員に一人ずつ聞いてみた。
木管楽器のミアは、「エレナさんは自分で息を吸わないから、長い音の前で少し苦しくなる」と教えてくれた。
金管楽器の青年は、「大きな音を出したあとに怒られる気がして、思い切れないことがある」と言った。
チェロの老奏者は、「君は全員を見ているが、一人一人とはあまり目が合わない」と言った。
耳が痛い話ばかりだった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
私が知らなかっただけなのだ。
正しい指揮をしていれば、全員が演奏しやすいと思っていた。
違った。
楽器を演奏しているのは、楽譜ではなく人間だ。
緊張する。
失敗する。
調子が悪い日もある。
褒められたい人もいれば、目立ちたくない人もいる。
同じ「正しい一拍」を示しても、受け取る人間によって意味が違う。
私は少しずつ、練習のやり方を変えた。
「もう一度、第三楽章の頭から」
そう言いかけて、一度やめた。
昨日までなら、ずれた場所をすぐに止めていただろう。
「……今日は最後まで行きましょう。多少ずれても止めません」
楽団員たちが少し驚いた顔をした。
「本当に?」
オスカーが聞く。
「本当に。ただし最後まで行ったら、どこが一番危なかったか自分で教えて」
「そっちのほうが怖いな」
笑いが起きた。
私は初めて、練習中の笑い声を止めなかった。
変化は小さかった。
けれど、レオンは気づいた。
「最近、指揮が変わったな」
昼休み、彼が言った。
「そう?」
「前より呼吸しやすい」
「ミアにも同じことを言われたわ。私、自分でほとんど息を吸っていなかったみたい」
「指揮者なのに?」
「指揮者だから、かもしれない」
レオンが笑った。
久しぶりに、二人で普通に笑った気がした。
「この前は悪かった」
「何が?」
「心があるとか、ないとか。言い方が悪かった」
「でも、考えるきっかけにはなったわ」
「怒ってないのか?」
「腹は立った」
「やっぱり」
「でも、あなたが感じたことまで間違いだとは言えないでしょう」
レオンは少し黙った。
その視線が、練習場の向こうにいるリディアへ向く。
彼女は若い奏者たちに囲まれ、何かを弾いていた。
楽譜にはない曲らしい。
ひとつ音を出すたびに、周りから笑いや歓声が上がる。
「リディアはすごいわね」
私が言うと、レオンが驚いた。
「嫌いなんじゃないのか?」
「どうして?」
「俺があんなことを言ったから」
「あなたが彼女の演奏を好きなことと、私が彼女を嫌うことは同じではないわ」
「……そうか」
「ただ」
「ただ?」
「戴冠式で勝手に音を変えたら怒る」
レオンは吹き出した。
「そこは変わらないんだな」
「変えてはいけないところだから」
私はそう答えた。
リディアは、拍手が好きだった。
正確には、拍手が止むのが怖かった。
彼女が初めて人前でヴァイオリンを弾いたのは七歳のときだった。
小さな町の祭りだった。
演奏を終えた瞬間、大人たちが立ち上がって拍手をした。父も母も、それまで見たことがないほど誇らしそうな顔をした。
その日から、リディアは理解した。
上手に弾けば愛される。
もっと上手に弾けば、もっと愛される。
だから練習した。
誰よりも速く。
誰よりも高く。
誰よりも難しい曲を。
王都へ来てからも同じだった。
初めて王立楽団で独奏した日、観客は彼女に大きな拍手を送った。
あの音を、ずっと聞いていたいと思った。
エレナは不思議な女だった。
副指揮者なのに、自分が拍手されなくても平気そうに見える。
演奏が終われば、最初に楽団員へ頭を下げる。
自分に向けられた称賛まで、皆のものにしてしまう。
最初は、それが立派に見えた。
やがて腹が立つようになった。
欲しいものがない人間のように見えたからだ。
名門の家。
副指揮者の地位。
次期指揮者候補。
そして首席奏者の婚約者。
何もかも持っているくせに、それを当然のような顔で受け取っている。
なら、一つくらい自分がもらってもいい。
レオンが自分の音を褒めてくれるたび、リディアはそう思った。
「レオンは、私の演奏とエレナ様の指揮、どちらが好き?」
ある日の帰り、リディアは冗談めかして尋ねた。
レオンは困った顔をした。
「比べるものじゃない」
「逃げた」
「本当に違うんだ。君はヴァイオリン奏者で、エレナは指揮者だ」
「じゃあ、女としては?」
レオンの足が止まった。
その反応だけで、以前のリディアなら勝てると思っただろう。
けれど彼は、しばらく考えてから首を振った。
「そういう聞き方はやめたほうがいい」
「どうして?」
「俺には婚約者がいる」
「知ってる」
「なら、なおさらだ」
少し前までなら、曖昧に笑ってくれた。
リディアは唇を噛んだ。
「エレナ様に何か言われた?」
「何も」
「最近ずっと一緒にいるでしょう」
「俺たちはもともと婚約者だ」
その当たり前の答えが、胸に刺さった。
「……エレナ様、変わったよね」
「ああ」
レオンは笑った。
「前より、ずっと楽団を見てる」
「前から見てたじゃない」
「いや。前は音を見てた。今は人を見てる」
その言葉を聞いた瞬間、リディアはエレナが嫌いになった。
戴冠式まで、あと十日。
最後の通し練習が始まった。
マルセル先生は客席の中央に座り、私が最初から最後まで指揮をする。
本番も私が振ることになっていた。
大きな儀式の指揮を任されるのは初めてだ。
「緊張しているか?」
先生に聞かれた。
「しています」
「そう見えない」
「そう見せない練習だけは得意です」
「それは昔からだな」
先生が笑う。
「でも、最近は少し変わった」
「皆にも言われます」
「良いほうに?」
「たぶん」
「なら、あとは自分で決めろ」
先生はそれだけ言った。
練習が始まる。
最初の曲。
二曲目。
そして最後の『王冠のための祝典曲』。
私は何度も練習してきたように腕を動かした。
大きな流れを作りながら、一人一人を見る。
オスカーがこちらを見る。
ミアが息を吸う。
レオンの弓が動く。
リディアも楽譜通りに弾いている。
最後の八小節。
私は少し大きく息を吸った。
全員がそれを見る。
そして、休符。
音が消えた。
一小節だけの静寂。
そのあと、最後の和音が鳴る。
練習場に音が広がり、きれいに消えた。
「よし」
マルセル先生が立ち上がった。
「これなら王宮を壊さずに済みそうだ」
楽団員が笑う。
私は指揮台から降りた。
「エレナ」
先生が私を呼んだ。
「最後の休符、忘れるな」
「忘れません」
「楽団に音を止めさせることではないぞ」
私は先生を見る。
「全員が、自分で止まれるようにすることだ」
意味を尋ねようとしたけれど、先生はもう別の奏者と話し始めていた。
戴冠式の朝、王都はまだ日が昇る前から騒がしかった。
新しい王が即位する日だ。
王宮前の大通りには人が集まり、鐘が鳴り、窓という窓から国旗が垂れている。
演奏会場となる大聖堂には、王族や貴族だけでなく、各地から選ばれた市民の代表も入る。
およそ三千人。
その全員の感情と魔力が、一つの場所に集まる。
私は控室で燕尾服の襟を整えた。
「似合ってる」
振り向くと、レオンがいた。
「ありがとう」
「緊張してる?」
「とても」
「やっぱり見えない」
「今日は見えなくていいの」
レオンが少し笑う。
それから、真面目な顔になった。
「終わったら話したいことがある」
「今じゃ駄目?」
「今言ったら、たぶん君を困らせる」
「そう」
「だから終わってから」
「分かった」
そこへ開演を知らせる係が来た。
私は指揮棒を持つ。
細い木の棒。
これ一本で百人を動かしているように見えるけれど、本当は違う。
百人が自分からついてきてくれるから、指揮は成立する。
「行ってくるわ」
「ああ」
私は大聖堂へ向かった。
演奏は順調だった。
一曲目は荘厳に。
二曲目は穏やかに。
王太子が祭壇の前へ進み、古い王冠を受け取る。
大聖堂の中に、緊張が満ちていくのが分かった。
音楽を知らない人には聞こえない。
けれど、指揮台に立っていると感じる。
空気そのものが重くなる。
三千人が息をするたび、魔力の波が生まれている。
私は急がなかった。
一人一人に合図を送りながら、その波を音楽の中へ入れていく。
最後の曲が始まった。
『王冠のための祝典曲』。
金管楽器の明るい音が大聖堂の天井まで届く。
弦楽器がそれを支える。
木管楽器が細い光のような旋律を重ねる。
打楽器が心臓のように一定の速さを刻む。
私は楽譜をほとんど見なかった。
何百回も読んだ。
今見るべきなのは、人だった。
レオンと目が合う。
彼がわずかに頷く。
ミアが息を吸う。
私はそれに合わせて腕を上げる。
リディアへ視線を移す。
彼女はいつもより楽しそうだった。
大聖堂。
三千人の観客。
新しい王。
国で一番大きな舞台。
彼女が望んできたものが、全部ここにある。
少しだけ嫌な予感がした。
けれど演奏は崩れていない。
曲は終盤へ進む。
王冠が、新王の頭上へ掲げられる。
最後から八小節。
私は息を吸った。
楽団全員がこちらを見る。
七小節。
六。
五。
四。
魔力が大聖堂の中で大きな渦になっている。
三。
二。
一。
私は両手を止めた。
休符。
すべての音が消える。
はずだった。
一本のヴァイオリンが鳴った。
高く、美しい音だった。
リディアだ。
彼女は目を閉じ、楽譜にはない旋律を弾いていた。
ほんの短い飾りだったのだと思う。
たった一小節の静寂を、自分の音で満たしただけ。
音楽だけなら、それは美しかった。
けれど。
大聖堂の床が揺れた。
観客がざわめく。
祭壇の燭台の炎が一斉に大きくなる。
逃げるはずだった魔力が、出口を失った。
リディアも異変に気づき、弓を止める。
遅い。
魔力の波が、今度は逆向きに戻ってくる。
楽団員たちの顔が青ざめた。
誰かが演奏を止めようとした。
「見て」
私は声を出した。
大きな声ではない。
でも、前列には届いた。
私は指揮棒を上げた。
レオンがこちらを見る。
オスカーがこちらを見る。
次々に視線が集まる。
全員が止まっている。
まだ間に合う。
リディアの音は消えた。
けれど、その音が作った魔力の揺れは残っている。
無かったことにはできない。
なら。
私は左手をゆっくり上げた。
レオンが最初に理解した。
彼のヴァイオリンが、リディアの残した音と同じ高さを静かに奏でる。
チェロが下から支える。
木管が一音を加える。
私は一人ずつ目を見た。
昨日までの楽譜とは違う。
でも、誰も慌てなかった。
今ここにある音を聞いている。
リディアが呆然としている。
私は彼女を見る。
一度だけ、小さく頷いた。
弾いて。
彼女の目が揺れた。
それでも弓を構える。
今度は一人で前へ出る音ではなかった。
周りを聞きながら、短い一音を重ねる。
その瞬間、散らばっていた魔力の波が一つにまとまった。
私はゆっくり腕を上げる。
百人が私を見る。
今だ。
指揮棒を止めた。
全員が、同時に音を止めた。
完全な静寂。
三千人いるとは思えないほど、何も聞こえなかった。
一秒。
二秒。
長く感じる。
床の震えが弱くなる。
燭台の炎が小さくなる。
空気の重さが抜けていく。
魔力が、大地へ戻っていく。
私は息を吸った。
最後の和音。
指揮棒を振り下ろす。
百人の音が一つになった。
大聖堂いっぱいに響き、やがて消えた。
演奏が終わる。
私はしばらく動けなかった。
誰も拍手しない。
失敗したからではない。
何が起きたのか、誰も理解できていないのだ。
やがて新王が立ち上がった。
ゆっくりと手を叩く。
その音に続くように、三千人から拍手が起きた。
私は頭を下げた。
拍手の中で、ようやく息を吐いた。
戴冠式のあと、リディアは王立楽団から外された。
処罰としては、それだけだった。
彼女の一音が危険を招いたことは事実だったが、故意に儀式を壊そうとしたわけではない。まだ十九歳であり、魔力を扱う大規模な儀式の経験も浅かった。
ただし、王立楽団に残すことはできなかった。
団員の一人が勝手な判断で音を変えれば、今回のように多くの人を危険にさらす。
音楽が上手いかどうかとは別の問題だった。
その日の夕方、リディアが一人で練習場にいた。
私は扉のところで立ち止まった。
「入ってもいい?」
「……副指揮者様」
「もう副指揮者ではなくなるかもしれないけど」
「どうしてですか?」
「本番を予定通り終わらせられなかった責任は、指揮者にもあるから」
「私のせいです」
「あなたの判断が原因だった。でも、私の責任がなくなるわけではないわ」
リディアはうつむいた。
「どうして、あのとき私に弾かせたんですか?」
「止めても、出た音は消えないから」
「そうじゃなくて」
彼女の声が震える。
「私なんか外して、みんなだけで直せばよかった」
私は少し考えた。
「あなたも楽団の一員だったから」
「でも私が壊したんです」
「だから、自分で戻る必要があると思ったの」
リディアの目から涙が落ちた。
「私……あの休符が嫌いでした」
「どうして?」
「音がなくなるから」
「休符だからね」
「自分がいなくなるみたいで」
その言葉で、私は初めて彼女のことを少し理解した。
「拍手されないと、怖いの?」
リディアは答えなかった。
でも、それが答えだった。
「私、ずっと一番になれば幸せになれると思ってたんです。誰よりも上手く弾けば、誰よりも拍手されるって」
「うん」
「レオンも、私の演奏を好きだって言ってくれたから」
「うん」
「エレナ様から取れると思った」
かなり正直な告白だった。
私は少しだけ苦笑した。
「そこは謝ってほしいかも」
「……ごめんなさい」
「分かった」
「それだけですか?」
「ほかに何を言えばいい?」
「怒らないんですか?」
「腹は立ってる」
「全然見えません」
「昔からそう言われるの」
リディアは泣きながら、少し笑った。
私は彼女の隣に座った。
「これからどうするの?」
「分かりません。もう王立楽団には戻れないし」
「ヴァイオリンをやめる?」
彼女はすぐに首を振った。
「それは嫌です」
「なら、弾けばいい」
「どこで?」
「どこでも。王立楽団だけが音楽をする場所ではないでしょう」
「でも、拍手が」
「少ないかもしれない」
リディアが黙る。
「でも、拍手の数と、あなたの音の価値は同じなの?」
私は聞いた。
彼女は長い間答えなかった。
「……分かりません」
「私も、まだ分からない」
「エレナ様も?」
「私は逆だったみたい。拍手なんて必要ないと思っていた。でも、人に届くことまで必要ないと思っていたのかもしれない」
リディアがこちらを見る。
「だから、お互い少し極端だったのね」
「一緒にしないでください」
「そこは嫌なの?」
「嫌です」
今度は二人とも少し笑った。
レオンと話したのは、その夜だった。
王宮の庭は、戴冠式のために飾られた花でいっぱいだった。
「まず謝らせてほしい」
彼は私を見るなり言った。
「今日はあなた、謝られることが多いわね」
「俺は真面目に話してる」
「ごめんなさい。どうぞ」
「リディアのことだ」
分かっていた。
「俺は、彼女に惹かれていた」
「そうね」
「知ってたのか?」
「本人から聞いた」
「何を?」
「私からあなたを取れると思っていたって」
レオンが頭を抱えた。
「本当に申し訳ない」
「あなたが彼女にそう思わせる態度を取っていたの?」
「……たぶん」
正直でよろしい。
「君が何でもできるから、俺がいなくても困らないと思ってた」
「うん」
「リディアは違った。褒めれば喜ぶし、困ったら頼ってくる。それが嬉しかった」
「うん」
「でも、それだけじゃなかった」
レオンはしばらく黙った。
「俺自身が、君の隣で自信をなくしていた」
予想していない言葉だった。
「私の隣で?」
「君は副指揮者で、次の楽団長候補だ。俺も首席だけど、君ほど特別じゃないと思ってた。リディアみたいな天才に慕われると、自分まで特別になったような気がしたんだ」
私は何も言わずに聞いた。
「最低だと思う」
「最低とまでは言わない」
「君は優しいな」
「違うわ。人間って、そういうこともあると思うだけ」
私だって、レオンに「心がない」と言われたように感じた夜、自分の価値を疑った。
誰かの言葉で自信が増えたり減ったりすることを、もう馬鹿にはできない。
「それで」
私は聞いた。
「今日、終わったら何を話すつもりだったの?」
レオンが息を吐いた。
「婚約を続けたいと言うつもりだった」
「そう」
「最近の君を見て、やっと分かった。俺は君のことを全然見てなかった」
「それは私も同じよ」
「でも、今は」
「レオン」
私は彼の言葉を止めた。
「一度、婚約を白紙にしましょう」
彼の顔が固まった。
「……それが君の答え?」
「今の答え」
「リディアのことが許せない?」
「それだけじゃない」
私は庭の向こうを見る。
昼には何千人もいた王宮が、今は静かだった。
「私たちは婚約者だから、一緒にいるのが当たり前だった。だから、お互いを選ぶ必要がなかったでしょう?」
「……ああ」
「あなたは私が何でもできると思っていた。私はあなたが真面目で優しいから、それで十分だと思っていた。たぶん、どちらも相手をちゃんと見ていなかった」
「じゃあ、終わりにするのか?」
「分からない」
「分からない?」
「もし、婚約者じゃなくなっても一緒にいたいと思えたら、そのとき考えましょう」
レオンは困ったように笑った。
「厳しいな」
「正しいだけの女だから」
「それ、まだ気にしてたのか」
「少し」
彼が笑う。
私も笑った。
「分かった」
レオンは言った。
「じゃあ今度は、ちゃんと君を好きになるところから始める」
「それは順番が逆じゃない?」
「俺も今そう思った」
また二人で笑った。
戴冠式の失敗について、私は正式に報告書を提出した。
処分も覚悟していた。
けれど、結果として私は副指揮者を続けることになった。
マルセル先生は報告書を読み終えたあと、私に一つだけ聞いた。
「あのとき、どうして楽団はついてきたと思う?」
「私が合図を出したからです」
「半年前なら?」
答えられなかった。
先生は笑った。
「お前が全員を動かしたんじゃない。全員がお前を見ることを選んだんだ」
「……はい」
「それが指揮だ」
私はようやく、少し分かった気がした。
先生が昔言った言葉。
音を出さない一瞬をそろえるには、互いの呼吸を聞かなければならない。
休符は、何もしない場所ではない。
音がないからこそ、周りを聞く場所なのだ。
三年後。
私は王立楽団の指揮者になった。
マルセル先生は引退し、「これで昼から酒が飲める」と喜んでいる。
レオンは今も首席ヴァイオリン奏者だ。
婚約は一度、本当に白紙になった。
その半年後、彼から食事に誘われた。
さらに半年後、今度は私から演奏会に誘った。
そのさらに一年後、もう一度婚約した。
二度目の婚約書には、両家の親より先に私たちが署名した。
リディアは王都から少し離れた町で、小さな楽団を作った。
子供たちにもヴァイオリンを教えているらしい。
たまに手紙が来る。
『生徒が全然言うことを聞きません。エレナ様が昔怖かった理由が少し分かりました』
失礼な手紙だと思う。
でも、その次にはこう書いてあった。
『この前、発表会で一人の子が途中で止まってしまいました。前なら早く弾きなさいと思ったはずなのに、今は待てました。休符だと思ったら、少し待てました』
私はその手紙を机の引き出しにしまっている。
春。
王立楽団は、子供たちのための演奏会を開いた。
難しい曲はやらない。
楽器を紹介したり、客席と一緒に簡単なリズムを叩いたりする演奏会だ。
最後に質問の時間があった。
一番前に座っていた男の子が手を上げる。
「指揮者さん」
「はい」
「音楽で一番大事な音って何ですか?」
難しい質問だった。
客席にいる大人たちも少し笑う。
「一番高い音?」
別の子が言った。
「一番大きい音!」
「最初の音じゃない?」
いろいろな答えが飛ぶ。
私は少し考えた。
「私はね」
指揮棒を持ち上げる。
「音がないところも、とても大事だと思っています」
子供たちが不思議そうな顔をする。
「音がないのに?」
「ええ。休符っていうの」
「休むの?」
「そう。少しだけ休む。でも、何もしないわけじゃないのよ」
「何するの?」
「周りの音を聞くの」
男の子はしばらく考えてから、「変なの」と笑った。
「そうね。少し変かも」
私も笑う。
「じゃあ、最後の曲でやってみましょうか」
楽団員たちが楽器を構える。
私は振り返った。
レオンと目が合う。
木管も、金管も、弦楽器も、打楽器も、全員が準備をしている。
私は指揮棒を上げた。
音楽が始まる。
明るく、短い曲だった。
子供たちは楽しそうに体を揺らしている。
最後の少し前。
私は腕を止めた。
休符。
音が消える。
昔の私は、この瞬間が怖かった。
何も鳴っていないと、失敗したような気がした。
誰かが勝手に音を出すかもしれない。
誰かが私を見ていないかもしれない。
だから、すべてを自分で支配しようとしていた。
今は違う。
静かな一瞬の中で、たくさんの呼吸が聞こえる。
楽団員。
客席。
隣にいる人。
自分自身。
誰も音を出していないのに、音楽は続いている。
私は笑った。
そして、最後の一拍を振った。
大きな和音が鳴る。
曲が終わった。
一瞬だけ静かになってから、子供たちが一斉に拍手をする。
私は頭を下げた。
顔を上げると、レオンが笑っている。
私も笑い返した。
音を出さないことが、いちばん難しい。
でも。
音を出さない時間があるから、次の音を誰かと一緒に始められる。
私は今、それを知っている。




