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二人でお茶を  作者: 櫻夏
1/1

始まり

ストーリーを楽しんで頂きたいと思い、恋愛・ミステリー・ファンタジー・少々アクションを詰め込んでみました。徐々に成長していく主人公をお楽しみください。

 目の奥を突き刺す鋭い白い光と、遅れてやって来た鼓膜を突き刺す激しいクラクションの悲鳴。世界が破裂したんじゃないかという爆音と、体が宙に放り出される感覚。

 天地はぐるぐると激しく回転して、一瞬浮き上がった体は、無慈悲な凶暴さで地面に叩きつけられた。体中の骨を砕くほどの衝撃に、痛みで息ができない。苦しさと恐怖で水に溺れた人のようにもがくが、手足は虚しく宙をかいた。

 耳元で誰かの叫び声が聞こえたが、それは遠くて本当に遠くて、宇宙の果てから響く虚な音。わんわんと木霊するだけ。何と言っているのか誰の声なのかも、分からなかった。

 僕は突然自分の身に起きた衝撃を理解できず、ただ茫然と無防備に襲い来る暴力的な力に晒された。恐怖と混乱で石のように硬くなった声が、喉に詰まって痛みで激しく咳き込んだ。

 びっしょりとおねしょをしたような生暖かなズボンの濡れに、まさかもうそんな年齢じゃないと、慌てて視線をおろした。

 目にした世界は…真っ赤だった。

 喉の奥から何かが競り上がる。

(うるさい、うるさい、うるさい!)

 金属が火花を散らしながら切断される音が頭の中に突き刺さり、あまりの不快感に両耳を塞ごうとした、が。

 真っ赤に染まった自分の両手を見た途端、金属音はさらに大きく甲高く鳴り続けた。

 それが自分の口から発せられた叫び声だと気がつくと、僕の世界は暗転した。


 

 今日も空は快晴。

 雲ひとつない真っ青な空を塗ってみたいと思った。一言に『空の青』と言っても、それを表現する言葉も絵の具も無限だ。スカイブルーに紺碧、セルリアンブルーに空色そして天色。

「オイ、レイ!早くそこの下地持って来い」

 先輩職人のしわがれ声が飛ぶ。いつものざらついた声が今日はさらに酷い。きっと昨晩は大酒を食らったに違いない。

「はあい、直ぐに持って来ます」

 梯子の上から差し出された手に、ずっしりと重い塗料の缶を何とか持ち上げる。缶の中で揺れる液体に腕を取られそうになって、必死に耐える。

「半人前の下働きはな、先輩に怒鳴られる前に、先に先に気を回すもんなんだよ。刷毛持つことだって出来ないくせに給料貰ってんなら、ちったあ自分の頭で考えて仕事しろよ」

 上から容赦なく降ってくる怒鳴り声に「すみません」「気をつけます」を繰り返す。

 差し出した缶を軽々と受け取る腕は、動く度に筋肉が盛り上がり太い筋が浮き上がる。

(僕の腕の倍はあるよな…)

 そっと自分の腕をさするが、肉の直ぐ下に骨を感じて、頼りなさに小さくため息を吐く。仕方がない。元々細身の体は筋肉が付きづらく、一年近く肉体労働の仕事を続けていても筋肉どころか、体を酷使するため、初めの頃より痩せてしまった。作業着のズボンのベルトをきつく縛り上げないと、ずり落ちてくる始末だ。

「何もたもたしてんだよ。そこの幅広の刷毛を取れって言ってんだろ」

 刷毛の事は一言も言われてないが、そんな抗議をしたら「使えない下働きのくせに!」とペンキ缶みたいに乱暴にこづかれる。慌てて限界まで腕を伸ばし、梯子の上に向かって刷毛を差し出した。乱暴に受け取られた刷毛が額を叩き、痛みで一瞬視界が白くなり目を強くつむった。薄く片目を開けると、太い腕に刻まれたタトゥーの女神が、虚な目でこちらを見ている。

 これ以上のとばっちりを受けないように、先輩の声が聞こえるギリギリの距離まで後ずさると、目の前の壁を見上げた。

 大型のショッピングモールの壁には、同僚の職人たちが五人ほど取り付いている。青と赤、緑に黄色…青空いっぱいに広がる大きな虹がジリジリと姿を表し始めている。

 アルバイトで雇ってもらっている塗装屋は、正規雇用の職人から自分のような職人見習いのアルバイトまで、結構多くの人間が働いていて、今日のような商業施設から公共施設、個人宅まで幅広く手掛けている。

 気の荒い職人たちに囲まれ、心休まる瞬間なんてないけれど、僕はこの職にしがみついている。一も二もなく、賃金の良さだと言って仕舞えばそれまでだが、僕には金を貯めたい理由がある。

「レイ!お疲れ。今日も大変そうだったな」

「よう、レイ。後片付けよろしくな」

「レイ、明日も頑張れよ」

(レイ)』僕の本当の名前だ。祖先が東の端っこの島国からやって来た僕は、そのエリア独特の文字で表現する名前を持っている。どうも僕の名前は山の頂という意味らしい。でも、そんな言葉に馴染みのないこの国の人たちは、『レイ』と呼ぶ。音は一緒なのだが、何となく肌触りが違う気がする。

 でも『嶺』と呼んでくれる人たちはもうこの世にはいない。だから僕は『嶺』を忘れて『レイ』になってしまった。

 よろめきながら重いペンキの缶を運び、放り出された刷毛やたらいを洗う。薬品の刺激臭に目を瞬かせ、ペンキで地面が汚れないようにシートを直していると、右からも左からも呼ばれて右往左往する。

 そんな事を繰り返しながら、やっと一日の仕事が終わり、街外れの丘の上に立つ事務所と倉庫に戻る。周りは樹木に囲まれ、同じような倉庫や工場が建ち並び、砂埃を巻き上げながらトラックが往来する。

 帰りのトラックも、座席には先輩職人たちが座り、一番下っ端の僕はペンキの缶と鼻を刺す刺激臭に囲まれながら、荷台の端に小さくうずくまる。

 疲れた体を励ましながら、荷台から今日使った道具を下ろし、まとめたゴミを資材置き場の端にあるゴミ捨て場に運んでいると、声を掛けられた。振り返るとケントが、僕と同じように、大きなゴミ袋を引きずって近寄って来た。

「よう、レイ。今帰って来たのか?結構遅かったな」

「ケントこそお疲れ様。今日はどこに行って来たの?」

 歳の頃は同じぐらい。同じように職人見習いのケントが、よく日に焼けた丸顔を盛大にしかめて見せた。

「今日は個人宅だったから、仕事自体はそこまでじゃなかったけど、職長の現場だったんだぜ」

「あーそれは色んな意味でお疲れさま」

「だろー塗る壁は小さいのに、違う意味でぐったりだわ」

 ケントの夢はこの道での独立で、そのために日々黙々と見習い業を頑張っている。けれども今は、ペンキ缶の二、三個軽々と持ち上げる立派な体躯も、心なしか萎んで見える。

「今日もねちっこいのなんの」

 ケントの言う『職長』とは、社長の右腕で数十人いる職人をまとめている男だ。プロレスラーのような体格の無骨な乱暴者が多い職人の中で、背こそ高いものの色白痩せ型に、薄くなり始めた髪を綺麗に撫でつけ、細い銀色のフレームの眼鏡が神経質そうに見える。職人、と言うより役所の窓口に座っていそうで、ちょっと異質な存在、だ。

 いや、実際に神経質で、他の職人の仕事を重箱の隅を突くような粗探しをしては「給料分の仕事をしろ」と口の端にいやらしい笑みを貼り付ける。

 もちろん、職人の中では蛇蠍のごとく嫌われているが、ほとんど現場に顔を出さない社長からの信頼も厚いらしく、職人の殺生権を握る職長に表立って文句を言う強者はいない。

 確かにケントのいう通り、職長の現場と比べれば、ちょっとぐらい乱暴な先輩にこづかれている方が、数倍はマシだ。

「良いよなー。レイは金が貯まったら、こんなところとオサラバ(・・・・)すんだろ?」

「うーん、まあ、そうだけど」

 羨ましそうに口を尖らすケントに気を使って「まだまだ先の事だよ」と言うと、明らかにホッとしたため息が聞こえた。決して足を引っ張る訳じゃない。ただ、愚痴を言い合える見習いが、また一人減るのは辛い。

「まあ、でも、レイはこんなところにいるヤツじゃないからな。俺と違って学もあるし。先生になりたいんだろ?」

「そうだけど、学、は僕もこれから付けるんだよ」

 そう、僕は学校に行きたくて、その学費のため、比較的短期間でお金が貯まりそうなこの仕事をしている。

「そうなのか。じゃあ、俺も今から学校行けば、将来はもっと違う事ができるのか」

「その可能性はあるね」

 そう答えたが、別に僕はこの仕事が駄目だと言っている訳ではない。ただ自分の目指す物とは違うだけの話だ。正直、綺麗な色のペンキで、壁や建物が美しく生まれ変わって行く様を見るのは好きだ。

「あー、でも、俺、べんきょ嫌いだった」

 ケントはぺろっと舌を出すと、手にしたゴミ袋を豪快に、背の高いダストボックスの中に放り込んだ。赤茶色の瘡蓋のような錆が浮かんだ鉄製のボックスは、廃車になったトラックの荷台を取り外したものだ。

「将来、レイが先生になったら、そん時は勉強教わるわ」

「何年先になるか分かんないよ。それに僕がなりたいのは、美術の先生だよ。ケントには絵を描いてもらわなきゃね」

「うわー俺、勉強だけじゃなくて、絵描くなんてもっと苦手だわぁ」

 足元に落ちている棒を拾うと、ガリガリとケントが地面に何かを引っ掻いている。いや、何か描いているのか?

「溶けかかったミジンコ?」

「いやいやいや、どう見たって猫だろ、猫」

 ニャーン、と真顔で鳴いてみせる。

「そうか、髭がないから分かんないのか」

「そういう問題じゃないと思うけど…」

 鼻歌交じりにケントは地面にびろんと広がったミジンコに線を引いている。

「ほら、可愛い猫ちゃんだ」

「うわー棘が生えて、ミジンコがモンスターに変身した!」

「ミジンコがモンスターっておかしいだろう。っていうか、これは猫だから」

 何でもないケントとの話に、笑い、少し気も晴れると、急に視界が拓けてダストボックスの後ろで揺れる白さに気がついた。

「あれ、こんなとこに花が咲いてる」

 今までは、自分の目線より高い場所に重いゴミ袋を投げ込むので精一杯で、その後ろまでは見えていなかった。

「ゴミ箱で隠れてて見えなかったわ」

 ケントも頷く。

「結構、咲いてんな」

 膝ほどの高さの小さな木が五本並んで、真っ白な花を咲かせていた。等間隔に並んだ姿は、誰かが植えたのだろうが、残念ながら今では無用の長物らしい。当然手入れはされておらず、折れた枝と枯れた葉が目立つ。

「何ていう花だろう」

 一歩近づくとふわりと甘い香りが漂う。ダストボックスに澱むペンキの刺激臭で、気がつかなかった。

 少し厚みのある白い花びらの中央に滲む薄い緑色から黄緑へのグラデーションが綺麗で、もっと近くで見ようと、ダストボックスの裏手に大きく身を乗り出した。

「あれ?」

 つま先に違和感が。何かを踏んだらしい。

「何だよ、その花食う気かよ」

 根本を踏んでしまわないように、身を乗り出し腕を伸ばす僕に、ケントが揶揄ってくるが、それでも僕がバランスを崩さないように、シャツの端を引っ張ってくれる優しさがある。

「いや、何かある」

「何かって、何だよ」

 小さな木とダストボックスの間に隠されるように、汚れた麻袋の端が見えた。場所と汚れ具合から、ダストボックスから落ちたゴミ、というところだろう。それならちゃんと捨て直そうと麻袋の端を掴んだ。 

 手のひら程の大きさの汚れた麻袋は、ずっしりと重い。恐る恐る中を開けてみると、真っ黒な石が幾つか入っていた。

「何だよ、石かよ。誰かが隠したお宝かと期待しちまったぜ」

 同じように袋を覗き込んでいたケントが、大げさにがっかりする。

「そうでも拾っただけなんだから、勝手に自分の物にはできないよ」

「けー真面目だね。でもさこれって拾った言うより、絶対隠してあんだろ。やっぱ後ろ暗い何かって感じしねえか」

「どうだろ。石だからなぁ。子供が集めた宝物を隠して忘れちゃっただけかもよ」

 袋の中からひとつつまみ出すと、手のひらに転がした。親指の先ほどの大きさの石は、夜の真っ暗な闇のようにどろりと暗く、角度によって赤や緑、黄色とキラキラと色が浮かぶ不思議な石だった。

「確かに綺麗だよな。でも石は石だから、レイの言う通り、ガキンチョが隠して忘れただけだったりして」

 一旦答えが出ると、早くもケントは石への興味が失せたらしく「あー腹へった」と呑気な声を出している。

(そういえば、僕も色んな宝物を缶に入れて、『ホーム』の庭に隠したっけ)

 六歳の頃から去年まで過ごした『ホーム』を思い出した。事故で両親を亡くした僕が、同じような身の上の兄弟姉妹たちと過ごした、神の子の家だ。

芳亜(ヨシュア)は神父様に見つかったらマズイ物ばかり集めて隠してたっけ)

 割ってしまった皿や破ってしまった本、点数の悪いテスト用紙。

 一緒に育った同じ歳の親友は、今でも心の拠り所で。いや芳亜だけじゃない。ホームを思い出すと、黄色やオレンジ、ピンク色が、水をいっぱい溶かした絵の具みたいに僕の心の中に広がる。

(でも結局は見つかっちゃうんだけどね)

 二人の親代わりだった神父から、手足をバタつかせながら必死に逃げる、記憶の中の幼い親友を思い出して思わず笑いが漏れた。が、

「お前たち、何をやっているんだ!」

 いきなり刃物のような鋭い声に背中を切りつけられ、ひゅっと息を飲む。横に立つケントからも、小さな悲鳴が漏れたのが聞こえた。

 弾かれるように振り返ると、そこには職長が立っていた。いつも通りの少し猫背の長細い体が、傾き掛けた夕日に照らされ、不気味な黒い影と化していた。

「お前、何持ってるんだ」

 職長の細い目がジロリと僕の手元を見た。

「まさか薬じゃないよな。違法な物だったら、今直ぐクビにして警察に突き出す」

 職長が口癖のように吐き出す『クビ』と言う単語に、カッと頭に血が上った。なんて理不尽なんだ!

「違います。偶然ダストボックスの下にあったのを見つけたんです」

「どうせガキが隠して忘れちまったんじゃねえかって、レイとも話してたんです」

 ケントも横で、身の潔白を必死に訴える。

「お前ら、中身は見たのか?」

「ただの石ころでしょう」

 ケントが詰まらなそうに答えた。僕は「とても綺麗な」と付け加えたかったのを、我慢した。何故だか、職長にそれを言ってはいけない気がしたからだ。

 心なしか、職長の表情が和らいだ気がした。

「こっちに寄越せ。念のため俺が調べて、本当にただの石だったら捨てておく」

 半ば強引に、職長が僕の手から麻袋をひったくった。

「万が一違法な物だったら、お前たち覚悟しておけよ」

 麻袋を手にした職長の顔に、一瞬安堵の色が過ぎった気がしたが、それまでだった。神経質な猫背が事務所のプレハブ小屋に消えたと同時に、ケントが吐き出すように文句を言った。

「何だよ、あれ!マジムカつくな。最初っから俺たち犯人扱いじゃねえか」

 怒り心頭、とばかりのケントだが、急に両眉が情けなくハの字に下げる。

「…あの噂って本当かな。人員減らしするっていうやつ」

 新し物好きの社長が、人間の従業員を解雇して、代わりにアンドロイドを検討しているというものだ。人員整理の対象になってはかなわないと、誰もが職長におべっかを使う。

「アンドロイドって、物凄ーく高いって聞くよ。普通の会社じゃあ、購入は難しいんじゃないかな」

「でもよ、一体で人間十人分の仕事が出来るって言う話じゃん。だから十人クビにすれば、その内元取れる。そういうのセンコウトウシって言うんだろ?」

 僕は日中に見た現場の壁を思い出した。何人もの職人の刷毛の先から生まれる虹。微妙な色のニュアンスは、職人一人一人の感覚から生まれる。果たしてそれがアンドロイドとなった場合、どこまで再現できるのだろう。

「まあ、ロボットが人間様みたいなデリケイトな事なんてできないだろうけどな」

 ケントの声は、自分自身を励ますているようにも聞こえたが、あながちハズレでもない。

 ロボットが導入されている職場は多いが、あくまでもロボットなのだ。単純作業だったり、力仕事だったり、人間じゃ耐えきれない程の高温の場所や低温の場所での作業が多い。要は補助的な内容で、指示書を見て、自ら色を選び、天候や壁の状態に合わせてペンキの硬さを決め、塗りながら臨機応変に刷毛を変え色の調整を行う。これが全部出来るロボットなど、聞いたことがない。

「もしかしたら、僕たちが知らない所では、そんなすごいアンドロイドいるのかなぁ」

「怖いこと言うなよぉ。そんなのがいたら、真っ先に俺たちクビだよ」

 ケントが首をすくめる。

「心配したら、腹が減ったよ。早く後片付けしようぜ。んで、飯食いに行こうぜ。安くて美味い店、見つけたんだよ」

 ケントが事務所に向かって歩き出す。追いかけようとして、足元で何かが光った。屈むと、麻袋の中に入っていたのと同じ黒く光る石だった。いきなり怒鳴られて、驚いた拍子に袋の中から落ちたのだろうか?

 僕は咄嗟に黒い石を拾ってしまった。本当は職長に提出した方が良いのかもしれないが、不思議な光がとても美しく、僕はそれをズボンのポケットにそっとしまった。

 後でスケッチしてみよう。鉛筆で艶のある黒の濃淡を描いてみたい。

「レイ。何やってんだよ。早く来いよ」

 ケントの声に向かって手を振る。ポケットの上から触ると、そこだけひんやりと冷たい気がしたが、片付けと明日の準備の忙しさで直ぐに忘れてしまった。


 

 それから三日後。いつものように心と体の両方の疲労でよろめきながらも、一日の作業を終えて戻ると、事務所の中は異様なざわめきに満ちていた。

「チキショウ。やりやがったな。やっぱアイツ怪しいと思ったんだよ」

 古株の職人の一人が、顔を赤くして喚いている。

「ねえ、どうしたの?」

 部屋の隅に青白い顔で立っているケントを見つけて、声を掛けた。

「…職長が、逃げたらしい…」

「え?どう言うこと?意味が分からない」

「職長、アイツ、悪党だったんだ。会社の金全部持って姿を消したって」

 ギスギスと痩せた猫背姿を思い出す。口元を歪め人を見下す視線は、飛びっきりの嫌な奴だったが、会社の金を持ち逃げする程、金に困っていたのか?

「悪い奴らとグルだったらしいぜ。さっき警察と社長が来て、またどっか行った」

 事務所のあちこちで、心配と怒りと混乱のざわめきが渦巻いている。

「金庫の中身は空っぽだったって話だぜ。社長が真っ青な顔してた」「俺たちの給料分は大丈夫なんだろうな」「倒産しねえよな」

 どれが真実でどれが想像の域なのか不明だが、どの発言も不安を掻き立てられる酷い内容だ。

「やってられっか!」あちこちから罵声が飛び交い、誰かが力任せに壁を叩いた。びくりと心臓が跳ねた。身の危険を感じて、興奮の坩堝と化した事務所から、そっと外に出た。

 いや、そっとじゃなくて堂々と出ても、誰も一番下っ端の見習いの事など気にも留めないだろう。それよりも充満していたみんなの怒りにあてられて、酷い頭痛がする。

 横を走るバイパスを走るトラックのエンジン音が、近づき通り過ぎて行った。整備不良のトラックの排気ガスに咽せて咳き込んだ。

 このまま事務所に居ても、一番下の立場の自分では、機嫌の悪い職人達の八つ当たりの的になるだけだ。一瞬、ケントの事が頭を過ったが、彼なら僕よりも上手に立ち回れる。

 明日はいつもより早く来て、様子を伺う事にしようと決めて、僕は事務所に背を向けた。


 

 僕の年齢の倍以上のオンボロアパートは、街の中心部から一番外れたエリアの中に建っている。

 この街は国会や政府の機関を中心に、ぐるりと三重にエリアが分かれている。一番内側は『ゴールド』と呼ばれ、元貴族や金持ちの特権階級が住んでいる。中間層の『シルバー』そして一番外側の『ブロンズ』は労働者階級や地方からの出稼ぎ者が多い。それを超えると、プラントと言われる大規模農場や工場地帯が広がる。中央から離れれば離れるほど、治安は悪くなるが、家賃も物価も安くなるので、僕のような金のない若者も多く住む。

「もー、いつになったら、電球変えてくれるんだよ。階段踏み外しちゃうだろぉ」

 外廊下の照明は、もう数週間前から弱々しい瞬きを繰り返している。文句を言ってみるが、安い家賃しか払えない住人のために、まめに電球を取り替えてくれる大家など、稀だと知っている。

 ちょっとゴツい(アルバイト先の職人たちみたいな)男が体当たりしたら、簡単に吹っ飛びそうな薄っぺらいドアでも、一応鍵はかけている…はずなのだが、あれ?鍵を差し込むと逆側に回った。開いている?閉め忘れたか、と首を傾げながらドアを開けると、目の前に信じられない惨状が広がった。

 部屋の中は酷い台風が過ぎ去った後のように、全てが引き出されなぎ倒されていた。金のない僕が暮らす小さな部屋は、服も本も食器、そして大切な絵の道具も全てがぶちまけられ、ご丁寧に枕の中身まで引き摺り出されていた。

 自分の目の前に広がる光景を現実だと飲み込む事が出来ずに、二回ギュッと目を瞑って開いてみたが、もちろん悪夢は覚めてはくれず、一ミリも変わらない惨状が目の前に広がるばかりだ。

「あ!」靴を脱ぐのももどかしく、靴が足に引っ掛かったまま部屋の奥にある棚に走り寄った。途中、服を踏みつけたが、構ってはいられなかった。

「…やられた…」

 引き出しの中の金が全て消えていた。学費たためにと、コツコツと貯めていた物だった。

 僕は泣いて良いのか、怒るべきなのか分からず、ただただ呆然とした。

 こんな場所に住むのなら、金は銀行に預けておくべきだと言われそうだが、僕のような身元保証人がいない人間は、簡単に口座を作れない。もちろん神父様に頼べば快く引き受けてくれるだろうが、そこを遠慮してしまった自分を、今は殴りつけたい気分だ。

「大丈夫、大丈夫、僕は大丈夫」

 どう考えても最低最悪絶体絶命なのだが、こんな時にいつも口にする呪文を口の中で呟く。今まで辛いことや悲しい事があっても、この呪文を唱えながらやって来た。

 でも今はそれすらも僕を救ってはくれず、気を抜くと叫び声を上げてしまいそうになり、グッと奥歯に力を入れる。

 外から酔っ払いなのか、怒鳴り合いの声が聞こえた。

「うるさいよ。怒鳴り散らしたいのは、僕の方だ」

 蹲っていても、盗まれた金は戻って来ない。僕は自分自身を叱咤しながら立ち上がる。

 ぐにゃりと歪んだ視界を服の袖で乱暴に拭った。

 ヒリヒリとする痛みが少し正気を取り戻してくれる気がして、さらに強く両目をこすった。

 



【続く】

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