契約の前夜――揺れる決断
これは、軽い気持ちで始めたはずの選択だった。
だが――
その一歩が、すべてを変えてしまうことになる。
財布の中には、もうほとんどお金が残っていなかった。
何度も確認した残高。
何度見ても、数字は変わらない。
家賃の期限は目前。
頼れる人もいない。
「……どうしよう」
小さく呟いても、答えは出なかった。
スマホを握る手が、わずかに震える。
本当は、こんなことしたくない。
そんな気持ちは、何度も頭の中を巡った。
それでも――
選択肢が、なかった。
しばらく画面を見つめた後、
ゆっくりと指を動かす。
表示されるメッセージ。
短いやり取りのあと、
会う約束が決まった。
それが、すべての始まりだった。
⸻
待ち合わせの場所。
時間ぴったりに現れたのは、
どこにでもいそうな中年の男だった。
特別な雰囲気はない。
むしろ、印象に残らないタイプ。
それが逆に、不気味だった。
「初めまして」
落ち着いた声。
「……初めまして」
自然と、声が小さくなる。
短い沈黙。
周囲の音がやけに大きく聞こえる。
「内容は、聞いていますか?」
男の問いかけに、わずかに頷く。
「はい……一応」
「無理はさせません。すべて同意の上で進めます」
淡々とした説明。
その言葉に安心するべきなのか、
それとも疑うべきなのか分からない。
「途中でやめても構いません」
その一言が、少しだけ心を軽くした。
けれど――
それでも不安は消えない。
「……本当に、それだけですか?」
思わず口に出た言葉。
男は少しだけ間を置いてから答えた。
「あなたが納得できる範囲で」
曖昧な言い方。
だが、その分だけ選択は委ねられている。
再び沈黙。
心臓の音がうるさい。
逃げることもできる。
ここで断ることもできる。
でも――
「……分かりました」
気づけば、そう答えていた。
言葉にした瞬間、
もう後戻りできない気がした。
男は静かに頷く。
「では、行きましょう」
その一言で、すべてが動き出す。
並んで歩き出す二人。
距離は近くない。
だが、妙に意識してしまう。
何も話せないまま、時間だけが過ぎていく。
本当にこれでよかったのか。
何度も自問する。
それでも、足は止まらない。
この選択が、どんな結果を生むのか――
まだ、この時は知らなかった。
決断は終わった。
だが、本当の変化はここから始まる。
次回、契約の先に待つものとは――




