repair.15 『時層の調律と再会の声』
リエイの作業場には、朝から一度も明かりが灯っていない。代わりに、作業台の上にある上下巻の音読書から、淡い蒼光が溢れ出していた。
覚醒したスキル、時層同調により、リエイの意識は本の内部にある魔力の激流と同化している。
(……ここだ。この十六ページ目の末尾と、録音された声の第三十二階層を同期させる)
極微魔力修復針が、虚空を縫うように動く。ノエルが言った出口を、リエイは魔力糸で緻密に編み上げていった。ズレていた歯車が噛み合うように、ノイズの向こうから女性の穏やかな声が響き始める。
作業を終えたのは、約束の一週間が過ぎようとする日の夕刻だった。
全てのページと音声が、寸分の狂いもなく一致している。リエイは最後の確認として、下巻の最終ページを開いた。そこには、日記にも記されていない、音声だけの隠しメッセージが残されていた。
「――ありがとう、ゾルクス。あなたがいてくれたから、私たちはここまで来られたわ」
それは領主夫人、かつての聖女が、死の間際に遺したであろう最期の言葉だった。
リエイはその重みに、思わず目頭を熱くした。この声を届けるために、あの男は酒に溺れるふりをしてまでも、この本を守り抜いてきたのだ。
カラン、と鋭いドアベルの音が響き、夜の冷気と共に一人の男が踏み込んできた。
リエイは、その立ち姿に息を呑んだ。
そこにいたのは、一週間前の酒臭い男ではない。酒の匂いは一切なく、かつて愛用していたであろう手入れの行き届いた装備一式を身に纏い、身なりを整えた精悍な男が入口に立っていた。腰には宝具としか思えない見事な装飾をあつらえた鞘と、鈍く光る剣の柄が覗いている。
「……できたか」
低く、重みのある声。その瞳には、かつて「皆殺しのゾゾ」と畏怖された伝説的な武人の、鋭くも静かな光が宿っていた。
「ああ。全て直してある。……あんたが繋ごうとした想いも、な」
リエイは静かに、修復を終えた二冊を差し出した。
ゾルクスは革手袋を外した素手で、壊れ物を扱うように本を受け取ると、無言で数ページをめくった。流れ出す清らかな声。ノイズ一つない、かつての安らぎそのものの響き。
男はしばらくの間、石像のように固まっていた。やがて、その肩が微かに震え始める。それは悲しみというより、ようやく果たされた「約束」への安堵に見えた。
「……そうか。直ったか」
ゾルクスはそれ以上何も語らない。かつての仲間、そしてその娘にこの声を届けることが、今の彼に残された唯一の聖域なのだろう。男は無造作に懐から追加の報酬を卓に置いた。それは依頼書に記された額を遥かに上回る、純度の高い金貨だった。
「礼を言う、修理師リレイ。……お前なら、信じても良さそうだ」
彼はかつての英雄としての背中を見せ、迷宮都市の夜へと消えていった。
リエイは一人残された作業場で、大きく溜息をついた。
窓の外を見れば、夜空に星が瞬いている。ノエルが教えてくれた出口がなければ、この声は永遠に失われていたかもしれない。
リエイは棚から新しい紅茶の葉を取り出した。
今夜はブランデーではなく、ノエルが以前持ってきてくれたドライフルーツを浮かべて、少し甘いお茶を楽しもう。
明日もまた、誰かの壊れた思い出が、この扉を叩くはずだから。




