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イタクネックレス


俺の顔面から戦化粧―――もとい昨日のアイライナーがようやく消えかけた頃。

俺の家は、さらなる狂気に満ちていた。


「兄様、昨日の失敗は私の計算違いだったわ。道具の出力ではなく、受け手の耐久力を上げるべきだったの」


「……その結論に達した時点で、お前はもう間違っている」


「見て、兄様! これは『イタクネックレス』!」


リシアが誇らしげに掲げたのは、蒼い魔石が埋め込まれた、一見すると上品なチョーカー。

前々から思っていたが、名前が直球過ぎて、何をするための魔道具なのか聞かなくても分かる。

しかし、妹は嬉しそうに話し始めた。


「これは首筋に特殊な魔力の刺激を与えることで、顔面の痛覚神経を一時的にシャットアウトするネックレスよ。これさえあれば、どれだけ至近距離から『コスメ銃』をぶっ放されても、兄様は優雅な微笑みを崩さずにいられるわ! すごいでしょ?」


「拷問か! なんて物を首にかけさせる気だよ!? それに顔に向けて銃を打ってる時点で優雅じゃねぇ!」


俺がリシアの新作を全力で拒否している、その時だった。

古びた木のドアから、礼儀正しくも、威圧感のあるノック音が聞こえてくる。


「……ルディン、リシアはそこにいるのかな?」


心臓が跳ね上がった。

この、冷徹で、規律そのもののような声。

親父に間違いない。

隣のリシアへと目を向けると、その顔から瞬時に余裕が消え、緊張した表情が張り付いている。


「お、親父!? なんでここに」


俺がドアをゆっくり静かに開くと、そこには正装に身を包んだ男爵―――俺たちの父親が立っていた。

彼は部屋に入るなり、床に散らばった魔石、材料の数々、そして俺の顔の「戦化粧」の残り跡を凝視して眉間を深く皺寄せ、後ろにいた妹を見つけると、


「リシア、レッスンを休んでまで、ここで何をしているんだい?」


「…………」


妹は先ほどと打って変わって、借りてきた猫のように静かだ。

父はなにも言わない娘に一瞬視線を落とすと、俺の部屋をぐるりと一瞥した。

不快そうに眉をひそめながら。


「ルディン。お前、この惨状は何だ?」


「あ、いや、親父、これは……」


俺が言い淀む中、リシアが突然、スカートの裾をチョンとつまみ上げ、美しく洗練された淑女の礼を決めた。


「父様。ご連絡が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。私は、ルディン兄様の……その、質素な生活から、民の苦しみを学んでいたのです。社交界にふさわしい淑女となり、貴族の責務を背負って行く為にも、守るべき民草を知ることが大切だと思いますので」


普段とはかけ離れた美しい所作に、思わず感心してしまいそうだ。

とてもコスメ銃で人の眉毛を削った妹には見えない。


「学び為、か。……ならば、何故この“愚か者”の所にいたんだい? 市民の真似事なら、いくらでも紹介先があったというのに」


親父の表情は険しくなるばかり。

俺は内心、「相変わらずだな」とため息をつく。

一方リシアは流石というべきか、とても落ち着いた振る舞いのままニコリと微笑んでいる。


「そんな事、言えません。父様に、ご迷惑をおかけしたくありませんから」


「……嘘だな。本当は、私から逃げたかったのだろう? そこの愚か者と同じように」


「……違いますわ、父様。私は、シアフィン家の責務から逃れるつもりなど、決してありません」


「嘘をつけ!!」


唐突な父の怒号が狭い部屋に響き渡る。

相も変わらずこの男の疑い深さは、嫉妬深い恋人のそれと同等かそれ以上だ。


「こんな魔道具のゴミ溜めに篭って、挙句の果てにルディンと一緒にいたなど! どうせ私の会社から、私から、逃げようとしていたんだろう!」


「……誤解です。私が、そんなこと、思うはずがないではありませんか。父様が望まれた通り、貴族学園に編入する為に、遊びも、友達も、趣味も、何もかも捨てて学んでまいりました。父様が大好きでなければ、そんなこと致しませんわ……」


「むぅ……」


「私がしばらくここにいたのは、確かに休みたいという気持ちもありました。でも父様のご期待から逃げるつもりも、会社の跡継ぎから退くつもりも、絶対ありません」


「……本当かい、リシア?」


「はい。父様」


「しかし、でも……」


どうしても納得できないらしい父親。

リシアはニコリと、お嬢様らしいお淑やかな笑みを浮かべている。

側から見ればその微笑みは、慈愛と優しさに満ち溢れて見える事だろう。

でも、俺からしたら、最悪の気分になる表情だ。


「おい、クソ親父。なに50歳にもなって女々しい事抜かしてんだよ」


「っ!? なんだと?」


「いつまで経ってもジメジメナヨナヨ……いい加減子離れしやがれ」


「黙れ! そもそも、お前が私の跡を継がなかったから、代わりにリシアが継ぐ事になったんだぞ! 自分の責務から逃げ出した分際で、偉そうな口を聞くな!」


「はいはい、そーですか」


やっぱりダメだな。

この男とだけはまともに会話出来る気がしねぇ。

ちょっと喋っただけでも嫌気が差す。


「でもなぁ」


こいつが父親なのは癪だが、家族としてこれだけは言わなければならない。


「自分の娘くらい、大切にしてやったらどうなんだ」


「……そんな事、お前に言われるまでも」


「大切にされてたら! リシアが俺なんかの家に来るかよ!」


「…………」


息子は大切にされなかった。

こんな場所に居たくねぇと思う毎日。

クソ親父を呪って、家の家業を嫌って、ただ捻くれていく日々。

あの頃は全てが嫌だった事を覚えている。

だから、逃げた。

逃げる事で、嫌なものを見えないように、聞こえないように、関わらずに済むようにしたのだ。

それは今でも変わらない。

あそこに戻ろうと思う事は、決して無いだろう。

でも……。


「毎日頑張ってるリシアを見てきたのは、親父。あんただろ?」


大事なものをたくさん捨てても、魔道具作りっていう趣味をやめても、リシアは本気で父の跡を継ぐ為の努力をしていたはずだ。

それは実家に一度も帰っていない俺でも分かる。

でなければ、俺の家に来てまで『貴族マナーを効率的にする』なんて言って魔道具開発なんてしない。

この子はこの子なりに、貴族として相応しい人間になろうとしていた。


「だから、少しくらいリシアが休んだって、許してやれよ……」


父親は一切眉間の皺を緩める事なく、無愛想に「ふん……」と息を吐き捨てる。

珍しくコイツが俺に反論してこなかった。

どうやら娘が帰ってこなかった事に相当ダメージを受けたのだろう。


「父様。帰りましょう」


リシアは貼り付けた笑顔で父を促す。

彼女なりに、俺と親父の不仲を気にしてくれているようだった。


「……ああ、こんな所にいると、気分が悪くなる」


「俺もだよ、クソ親父」


さっさと出て行く父に連れられて、妹も必要最低限の物をまとめて帰り支度を調える。

最後に家を出る時、「あ、そうでした」と俺の方へ振り返った彼女は、スッと右手を差し出した。


「これは?」


「『イタクネックレス』。……あげますわ」


「お、おう……」


「兄様……」


「ん? なんだ?」


リシアは何かを言おうとした。

途中まで口が開いて、あとほんの少しで喉が震えるというところで、口を閉じてしまう。

代わりとでも言うように、作り物みたいな表情で笑う。


「兄様、どうか……お元気で」


そうして父と妹は俺の家から居なくなった。

何故か、喉につっかえた魚の小骨のように、何かが引っかかる感覚。

理不尽に対する怒り?

責任を押し付けた罪悪感?

それとも同情?


―――分からねぇ。


周りを見回せば、少女の残置物で未だに溢れ返っている。


「……ふぅ。これでようやく、静かに眠れるな」


俺は、誰もいなくなった部屋で、ポツンと床に座り込む。

リシアに奪われていた七割のスペース。

そこには、持ち主の居なくなったメモ用紙と、先日踏み抜かれたスリッパの残骸、使い手を失った銃などが無作為に置かれている。

いや、確かリシアにとっては完璧な配置なんだったか?


「…………」


静かだ。

『オトスウプ皿』の静寂とは違う、本当の静けさ。


「……うるさくなくて、いいな」


そう口に出してみたものの、胸の奥には、名前の付けられない『モヤモヤ』が残っていた。

リシアが勝手に広げてくれやがった『魔道具作成空間』。

主人がいなくなったこの部屋は、なんとも面白みのない、ただのゴミ溜めにしか見えない。


「『お元気で』……ね」


手の中にはさっき渡された『イタクネックレス』が握られている。

元気のない顔であんな言葉を言われても、元気になれるわけがない。

だいたい、ここ数日、あんなに迷惑をかけられているのに、あんなサラッとした言葉で終わりとか、いくら兄でも堪忍袋の緒が切れそうだ。


「……ったく! 明日、様子見にくらいは行ってやるか。……一応、手紙にいつでも来いって書いたのは、俺だしな」


俺は部屋の七割をそのままにして、空いた三割にゴロリと寝転がった。


「狭いぜ……」


相変わらず膝を曲げなければ寝返りを打つこともできない。

でも、それほど苦ではなかった。

だって、もう慣れてしまったから。

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