人生のウイニングボール ~できることならプロ野球に戻りたい~
──あの日、空から落ちてきた白球が、人生を変えた。
燃え尽きたベテランと、夢を追う若者たち。
汗と涙と友情が交錯する、小さな独立リーグのグラウンドで、
阿部祐太朗は再び“心のバット”を握る。
それは勝利のための一打ではなく、
もう一度、自分と家族、そして未来と向き合うためのスイングだった。
奇跡は、努力のあとにやってくる──。
〈主要な登場人物〉
阿部祐太朗・・・
39歳。かつて神宮ギガントで活躍したプロ野球選手。右ひじの故障で戦線を離脱し、独立リーグ「西多摩バッファロウズ」で再起を目指す。過去の栄光と家族への想いの間で揺れながらも、野球を通じて再び“生きる勇気”を取り戻す。
ボゴサンダ・ンディアイ・・・
セネガル出身の助っ人選手。陽気で心優しく、祐太朗の良き友人となる。日本文化を愛し、ちゃぶ台とおでんをこよなく好む。祐太朗に「夢を信じる強さ」を思い出させた存在。
橘権之助・・・
若きサウスポー。無口だが実直で努力家。かつての祐太朗を彷彿とさせる姿に、祐太朗は指導者としての情熱を見出していく。
本多勝義・・・
三十歳の捕手。元寿司職人という異色の経歴を持ち、チームのムードメーカー。熱い言葉で後輩たちを支える兄貴分。
鐘ヶ淵京志郎・・・
バッファロウズ監督。かつて“鬼のスパロウズ”と呼ばれた名打者。奇抜な采配と温かい人間味で、選手たちに“野球の心”を教える。
阿部みさき(あべ・みさき)・・・
祐太朗の妻。堅実で芯の強い女性。実家の酒屋を手伝いながら、夫の再起を静かに見守る。
阿部祐司・・・
祐太朗の息子。中学生。かつて父が見失いかけた“夢”を、未来の世代として再び受け止める少年。
第1章 落ちてきた白球
白球が、空から落ちてきた。
まるで時の隙間をすり抜けてきたように、静かに、そして突然に。
阿部祐太朗は、反射的に手を伸ばした。
白球は乾いた音を立てて、彼のグラブに吸い込まれた。
春まだ浅い西多摩の風が、グラウンドを渡っていく。
その瞬間、祐太朗の右ひじに、稲妻のような痛みが走った。
「――うっ!」
電流のような衝撃に、彼は思わず顔をしかめる。
グラウンドに響くのは、白い息と、遠くで跳ねるボールの音だけ。
「大丈夫ですか、コーチ!」
練習をしていた若い選手が駆け寄ってきた。
「……ああ、大丈夫だ」
そう答えながらも、祐太朗の額には冷たい汗がにじんでいた。
彼はゆっくりと立ち上がり、白球を見つめる。
陽の光を受けて、ボールはまぶしく光っていた。
――どこから落ちてきたんだ。
グラウンドを見回しても、打撃練習をしている者はいない。
風もない。なのに、このボールはいったい……?
祐太朗は、その場に立ち尽くしたまま、ぼんやりと空を見上げた。
西多摩の空は、うっすらと霞んでいた。
雲の切れ間から、一瞬だけ差した光の中に、なにか懐かしい幻が浮かんだ気がした。
――祐司。
息子の名前を、心の中で呼んだ。
そこにいた。
十年後の未来から、息子の祐司が、バットを振りぬいている。
ユニホームの背番号は「7」。
東京ギガント――あの名門球団のロゴが、胸に輝いていた。
白球は弧を描き、青空へと吸い込まれる。
そして、まっすぐ、祐太朗のグラブに飛び込んできた――。
「……夢か」
彼は、唇の端でつぶやいた。
白球を見つめながら、どこか笑っていた。
阿部祐太朗、三十九歳。
現在、BGリーグ――「BASEBALL GANBAROU LEAGUE」に加盟する、西多摩バッファロウズの選手兼打撃コーチ。
独立リーグの中でも歴史ある球団の一つで、地元ファンからは「西バフ」の愛称で親しまれている。
祐太朗は、昨年までNPBの名門・東京ギガントに所属していた。
通算本塁打三百五十本。
ベストファーザー賞も受賞した強打の一塁手。
しかし、成績の低下とケガが重なり、昨季限りで戦力外通告。
セ・リーグもパ・リーグも声がかからなかった。
それでも、彼の野球人生は終わっていなかった。
後援者の紹介で、BGリーグの西多摩バッファロウズが彼を拾ってくれたのだ。
――何としても、もう一度プロ野球に戻る。
ギガントでなくてもいい。
セ・リーグでも、パ・リーグでもいい。
もう一度、あの舞台に立ちたい。
祐太朗は、そう自分に言い聞かせながら、毎朝、鏡の前でユニホームの胸を整える。
独立リーグのユニホームは、少し色あせている。
スポンサーのロゴもまばらだ。
だが、それでも袖を通すたびに、胸の奥が熱くなる。
グラウンドの土のにおい。
汗と、芝生の匂いが混じり合う。
そこに立つだけで、まだ戦える気がした。
「……祐太朗さん、今日のバッティング練習、もう一組お願いします」
若い選手が声をかけてきた。
祐太朗は、軽くうなずいた。
「おう、やろうじゃないか」
ケージの中に立つ。
ピッチングマシンのうなり。
手のひらに伝わる木製バットの感触。
一球、二球、三球……。
ボールは鋭く飛び、外野の奥まで届いた。
祐太朗の表情が、少しだけ晴れる。
しかし、打つたびに右ひじの奥に鈍い痛みが走る。
まだ完治していない。
わかっているのに、バットを握る手は止められなかった。
「……くそ、情けねぇな」
バットを立てたまま、彼はつぶやいた。
目の前の若い選手たちは、みな、夢と焦燥を抱えている。
十代、二十代の彼らにとって、ここは「夢への通過点」。
だが三十九歳の祐太朗にとって、ここは「終着点」かもしれない。
独立リーグ――それは、夢と現実が交わる場所。
プロを目指す者と、夢を諦めきれない者が、同じベンチに座る。
その温度差が、時に痛いほどに突き刺さる。
「阿部さん、ギガント時代ってやっぱりすごかったんですか?」
若い選手が遠慮がちに聞く。
「そりゃあな。東京ドームの満員のスタンドの声、いまでも耳に残ってる」
祐太朗は、懐かしむように笑う。
「でもな……、あの声援も、打てなくなった途端に冷たくなる。ファンってやつは、残酷だよ」
「……それでも、戻りたいですか?」
「戻りたいさ。死ぬほどな」
その言葉に、若い選手は息をのんだ。
祐太朗は、自分のグラブを見つめながら、静かに続けた。
「夢を追うってのはな、しんどいもんだ。けど、あきらめたら、そこで終わりだ」
グラウンドの端では、夕日が山の端に沈みかけている。
オレンジ色の光が、芝生を照らして、選手たちの影を長く伸ばした。
どこか寂しい西多摩の風景が、彼の胸に沁みる。
練習が終わり、祐太朗はバットを肩に担いで歩き出した。
山裾の寮までの道を、一人で歩く。
空気は冷たいが、どこか懐かしい匂いがする。
枯れ草を踏む音だけが響く。
そのとき、ふと、遠くの川の方から少年たちの声が聞こえてきた。
「阿部さーん! がんばってー!」
見ると、地元の小学生が手を振っていた。
あどけない顔、泥だらけのユニホーム。
祐太朗は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう! お前らも、がんばれよ!」
笑って手を振り返すと、少年たちは声を合わせて叫んだ。
「プロ野球に戻れよー!」
その声が、胸を貫いた。
祐太朗は、空を見上げた。
そこには、夕暮れの中に浮かぶ白い月。
まるであの白球のように、静かに輝いていた。
――俺は、まだ終わっちゃいない。
その夜。
祐太朗は、寮のちゃぶ台の前で缶ビールを開けた。
古びたテレビからは、スポーツニュースが流れている。
東京ギガントの若手がヒーローインタビューで笑っていた。
その姿に、かつての自分を見た気がした。
「俺にも……まだチャンスはあるのか」
小さくつぶやき、空き缶を握りつぶす。
その手のひらに、あの白球の感触が残っていた。
右ひじが、再びじんと痛んだ。
だが、痛みの中に、どこか懐かしい温もりがあった。
翌朝。
祐太朗は、まだ薄暗い時間にグラウンドに立った。
朝霧が立ちこめ、草の先に露が光る。
白球をポケットから取り出す。
あの時、空から落ちてきたボールだ。
光にかざすと、微かに何かの文字が見えた。
――YUJI 27。
祐司の名前。
息子が未来で使っていた背番号だ。
祐太朗の胸が、熱く脈打った。
「おい、ユウタロウ、ナニミテル」
隣から声がした。
セネガル出身のボゴサンダが、にこやかに立っていた。
「ボール……。空から落ちてきたんだ」
「ソレ、ミライカラ、キタノカモネ」
「未来?」
「ウチノ国デハ、星ガオチテクルト、願イガ叶ウ」
ボゴサンダは笑って、祐太朗の肩を叩いた。
「アベ、アキラメルナ。ミライ、マダ、オワッテナイ」
祐太朗は、思わず笑った。
朝の冷たい空気の中で、心だけが少し温かかった。
そして、もう一度、白球を見つめた。
その白さは、夜明けの光を浴びて、ひときわ眩しく輝いていた。
――この白球は、未来からのウイニングボールかもしれない。
祐太朗は、胸の奥でそうつぶやいた。
(第1章・了)
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第2章 西多摩バッファロウズの男たち
西多摩の朝は、静かだ。
遠くの山の稜線の向こうから、陽がゆっくりと顔を出す。
夜露に濡れた草が、金色に輝きながら風に揺れていた。
阿部祐太朗は、寮の前の小道をランニングしていた。
吐く息が白く、胸の奥まで冷気が染みていく。
夜明けの空気を切り裂くように、足音が乾いたアスファルトを叩く。
「……はぁ、はぁ……。くそ、やっぱりキツいな」
膝に手をつき、息を整える。
右ひじは、まだ完全に治ったわけじゃない。
だが、それでも走る。
走っている間だけは、心が少し軽くなる気がした。
寮へ戻ると、もう数人の若い選手たちが外でストレッチをしていた。
ジャージ姿のまま談笑するその姿が、まぶしく見える。
「おはようございます、阿部さん!」
「おう、おはよう。朝から元気だな」
「昨日のノック、きつかったです。監督、容赦ないですよね」
「まぁな。鐘ヶ淵監督は昔からそうだ。鬼のスパロウズって呼ばれてたんだ」
選手たちは笑ったが、祐太朗には懐かしい響きだった。
あの鐘ヶ淵京志郎――神宮スパロウズの伝説のスラッガー。
ホームラン四百本を超えた鉄人。
その男が、今はこの地方の独立リーグで若者を育てている。
祐太朗は、寮の食堂に入った。
六畳ほどの小さな部屋。木のテーブルには味噌汁の湯気が立ち、焼き鮭の香ばしい匂いが漂っている。
壁には「突撃・突進・突破!」と書かれた紙が貼られていた。
バッファロウズの社訓――いわゆる「三突」である。
「おはようユウタロウ!」
背中から太い声がした。
振り向くと、隣の部屋に住むセネガル出身のボゴサンダが、巨大な体で小さなコタツを抱えて立っていた。
「おい、それ、何してんだ?」
「コタツ、外、日干シ。ニオイ取ル」
「朝からコタツ干すやつがあるかよ」
祐太朗は笑いながら、味噌汁をすする。
ボゴサンダの笑顔は相変わらずまぶしい。
百九十センチの体を折り曲げて、きちんと正座する姿は、見ていてどこか滑稽だった。
「アベ、オチャ、ノム?」
「またお点前か?」
「ハイ。今日ノハ、マッチャ。ニホンノココロ」
「……お前、なんでそんな日本語だけ上手いんだ」
ボゴサンダはにやりと笑って、湯呑みを差し出した。
抹茶は苦かったが、心のどこかが穏やかになった。
寮には、十四人の選手が暮らしている。
六畳と四畳半の二間続きのプレハブの部屋。
廊下の隅には共有の洗濯機。風呂はポリバスで、シャワーの水圧は気まぐれだ。
夜になると、あちこちの部屋から音楽や笑い声が漏れてくる。
若い選手たちは、ギターを弾いたり、ゲームをしたり、時にはプロレスごっこまで始める。
「おい、うるせぇぞ!」
祐太朗が窓を開けて怒鳴る。
だが、誰も聞いちゃいない。音楽が爆音で鳴っている。
「まったく……ここは野球部の合宿所かよ」
苦笑しながらちゃぶ台に腰を下ろす。
昭和の香り漂う小さな部屋で、一人缶ビールを開けた。
テレビでは地方ニュースが流れている。
「西多摩バッファロウズ、開幕戦に向けて調整中」とアナウンサーが読み上げた。
画面には、自分の姿も一瞬映った。
思わず苦笑する。
「まさか俺が地方ニュースに出る時代が来るとはな……」
ふと、机の上のスマホが震えた。
みさきからのメッセージだ。
「祐司、今日も塾。帰り遅くなるよ」
その一行に、短いスタンプが添えられている。
淡々とした文面。
祐太朗は、ため息をついてスマホを伏せた。
――俺がいなくても、家は回ってるんだな。
妻のみさきは、実家の酒屋を手伝っている。
口癖は「働かざる者、食うべからず」。
東京・港区のビルの最上階にある家で、義父母と一緒に暮らしている。
子どもたちは、その屋上から東京タワーが見えると言っていた。
祐太朗は、あの夜景を思い出すたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
昼過ぎ、チームの練習が始まった。
市営球場までの道を歩く途中、選手たちの話し声が聞こえてくる。
「橘、今日のブルペン入るのか?」
「いや、肘がちょっと……」
「またかよ。若いのに、情けねぇな」
橘権之助――二十歳のサウスポー。
元漁師という異色の経歴の持ち主だ。
黒く焼けた肌、鋭い目。
彼の投げるボールは百五十キロを超える。
だが、口数は少なく、誰ともつるまない。
「おい、橘。たまには飯でも行こうぜ」
祐太朗が声をかける。
橘は少し迷ったように目を伏せ、「……すみません」とだけ言って歩いていった。
その背中に、かつての自分を見た気がした。
――孤独を抱えた若い才能。
それでも彼は、まだ夢の途中にいる。
練習場では、監督の鐘ヶ淵京志郎が、ノートパソコンを開いていた。
サングラス越しに画面を見つめながら、なにやら数式を打ち込んでいる。
「監督、それ……データですか?」
「そうだ。ワシの特製打率予測アルゴリズムじゃ」
「またですか」
「この数式がのぅ、選手の恋愛運まで出るんじゃ。お前、モテ期入っとるぞ」
「……野球に関係ないでしょ、それ」
祐太朗が苦笑すると、監督は「運も実力のうちじゃ」と肩をすくめた。
鐘ヶ淵監督は六十八歳。
老いてなお鋭い目をしている。
試合中の采配は大胆で、時に奇抜だ。
だが、その「勘」が不思議と当たる。
誰もが恐れ、そして慕う存在だった。
「阿部。お前のスイング、まだ死んどらん。
ボールが来たらな、考えるな。ふれ」
「……ふれ、ですか」
「そうだ。昔のワシもそうだった。考える暇があるうちは、打てん」
その言葉に、祐太朗の胸に火が灯る。
――考える前に、打て。
忘れかけていた感覚が、よみがえる。
練習が終わるころ、夕日が山の向こうに沈みかけていた。
汗で湿ったユニホームを脱ぐと、背中を通る風が心地よい。
遠くからボゴサンダの声が響く。
「アベー! キャッチボール、ヤルカ!」
「おう、行くぞ!」
二人は寮の駐車場に出た。
夕焼けの空の下、白球が行き交う。
ボゴサンダの肩は強く、球は重かった。
「ナゼ、オマエ、ソンナ顔スル?」
「顔?」
「オマエ、サミシイ顔。ムスコ、恋シイ?」
祐太朗は思わず苦笑する。
「バレたか」
「ワカル。オレモ、妻ト子、遠イ国」
ボゴサンダの声が少し沈んだ。
「妻、三人。子ども、八人」
「多すぎだろ!」
二人は思わず笑った。
夕暮れの空に、白球が放物線を描く。
笑いながらも、祐太朗の胸の奥には、痛みが残っていた。
――俺は、息子に何を残せるだろう。
野球だけがすべてだった男に、他に何がある?
夜。
練習後の寮の風呂は、湯がぬるく、シャワーの音が途切れがちだった。
それでも、湯気の中で選手たちは笑い声をあげる。
「本多さん、また奥さん怒ってたんすか?」
「おう、寝言で“握りが甘い”とか言っちまったんだよ。寿司のな!」
「ハハハ、野球より寿司の方が本業じゃないっすか!」
本多勝義。三十歳。元寿司職人のキャッチャー。
彼の手は分厚く、どこか包丁を握るような癖が残っている。
練習では厳しいが、後輩思いで慕われていた。
「お前ら、夢ってのはな、握り寿司みてぇなもんだ。
握る手を止めたら、すぐ乾いちまう」
「名言出たー!」
風呂場に笑い声が響く。
祐太朗は、壁にもたれて黙って聞いていた。
その笑い声の中に、かつての自分の姿を見ていた。
若く、勢いだけで突き進んでいたあの頃――。
風呂を出ると、外の空気は冷たく澄んでいた。
遠くに光る街の灯。
東京の方角だ。
あの向こうに、家族がいる。
みさきも、祐司も、りんも。
「……必ず、戻ってみせる」
夜空に向かってつぶやく。
吐く息が白く消える。
そのとき、寮の屋根の上を、ひとつの流れ星が横切った。
祐太朗は、胸の中でそっと願った。
――もう一度、プロのマウンドの上で、息子と同じ空を見たい。
それは、誰にも言えない祈りだった。
(第2章・了)
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第3章 痛みと孤独のリハビリ
春の終わり、グラウンドの芝生が青さを増していく頃。
阿部祐太朗の右ひじは、相変わらず重たかった。
投げるたびに、骨の奥から鈍い痛みが響く。
ボールを握る指先に力を込めると、じんわりと汗がにじむ。
「くそ……まだかよ」
独りごとが、静かなグラウンドに吸い込まれた。
西多摩バッファロウズのシーズンは始まったばかりだ。
チームメイトたちは新しい風のように勢いづいている。
だが、祐太朗はその風に乗り切れない。
痛みが、夢への距離を感じさせた。
「阿部さん、無理しない方がいいっすよ」
キャッチャーの本多が声をかけてきた。
額の汗をぬぐいながら、真剣な目で祐太朗を見ている。
「俺らはまだ二十代ですけど、阿部さんは……」
「年寄り扱いかよ」
「ちがいます! でも……本当に、痛そうですよ」
祐太朗は無言でボールを拾い、ゆっくりと投げた。
――バシッ。
乾いた音がグラブに響く。
だが、腕が上がらない。
痛みが右ひじを突き抜け、背中まで走った。
「……っ!」
思わず顔をしかめる祐太朗に、本多が駆け寄る。
「やっぱり病院行きましょう!」
「大丈夫だって」
「大丈夫な顔じゃないですよ!」
「放っとけ」
祐太朗は、唇をかみしめてベンチに腰を下ろした。
――痛みなんか、慣れてる。
何度もケガを乗り越えてきた。
でも、今回は違う気がした。
夜、寮の部屋に戻ると、ちゃぶ台の上に湿布薬の包みが散らばっていた。
ボゴサンダが戸をノックして入ってくる。
「ユウタロウ、ヒジ、ダイジョウブカ?」
「まあな」
「ウソツクナ。顔ニ書イテル」
「お前、日本語ほんとにうまいな」
ボゴサンダは、にかっと笑って湿布を取り出した。
「ワタシ、整骨院ノ助手シテタコトアル」
「ほんとかよ」
「ウソ。デモ、貼ルノ得意」
「……ありがとな」
ボゴサンダは器用に祐太朗の腕に湿布を貼った。
その指先は、驚くほど丁寧だった。
「アベ、痛ミハ生キテル証拠。痛クナイト、モウ終ワリ」
「終わり、か……」
「ダイジョウブ。オマエ、終ワッテナイ」
ボゴサンダの言葉に、祐太朗は小さく笑った。
けれど、その夜はなかなか眠れなかった。
右ひじがじんじんと熱を持ち、胸の奥の不安が眠りを遠ざけた。
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数日後、祐太朗は球団指定の整形外科へ行った。
白い診察室の中、医師が無表情に言った。
「しばらく投げるのはやめてください。
靭帯に炎症があります。下手に動かすと、もう戻らなくなりますよ」
「そんなこと言われても……シーズン、始まったばかりなんだ」
「阿部さん、年齢を考えてください」
その言葉が、胸に突き刺さった。
――年齢を考えてください。
その一言が、まるで“引退”という判決に聞こえた。
「……わかりました」
祐太朗は、深く頭を下げて診察室を出た。
外の空気は重く、曇り空がのしかかるようだった。
雨のにおいが混じった風が、冷たく頬を打つ。
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その日の夜。
寮の部屋で、祐太朗は缶ビールを開けた。
冷蔵庫の中には、ビールとさきイカしかない。
テレビをつけても、心に入ってこない。
「……もう、プロには戻れねぇのか」
ぽつりとつぶやいた声が、静かな部屋に響いた。
スマホを手に取り、妻のみさきにメッセージを打とうとした。
――が、指が止まった。
何を言えばいいのかわからない。
「元気か?」
そんな軽い言葉では、心の距離を埋められない気がした。
ため息をついてスマホを伏せると、
隣の部屋からボゴサンダの低い声が聞こえてきた。
「〇×▽□&$……アベ、ガンバレヨ……」
寝言だ。
思わず、祐太朗は笑ってしまった。
――お前の寝言、どこの国の言葉だよ。
その夜は、少しだけ心が軽くなった。
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翌日。
整骨院へ行くよう、チームのトレーナーに勧められた。
駅前の小さな建物。看板には「サクラ整骨院」とある。
薄いピンクののれんをくぐると、ひげ面の院長が現れた。
「あら、阿部さん? テレビで見たことあるわぁ~!」
院長は見た目はがっしりした男だが、声は妙に高かった。
「……男の人ですよね?」
「失礼ねぇ! おねえでやってますの。よろしくね」
治療台に寝かされ、祐太朗は電気針治療を受けることになった。
「ピリピリするけど、我慢してね~」
電流が流れるたびに、体がびくっと跳ねる。
「いててっ!」
「これが効くのよ。痛いのは、生きてる証拠!」
「それ、ボゴサンダも言ってた……」
「ボゴサンダ?」
「セネガルのチームメイト」
「あら、国際色豊かねえ~。今度連れてきなさいよ」
施術が終わる頃には、祐太朗の右ひじは軽くなったような気がした。
だが、それ以上に疲れたのは、院長のおしゃべりだった。
「ねぇ阿部さん、ギガント時代の〇〇監督、実物どうだった?
やっぱりオーラすごい? あとねぇ、野球選手ってやっぱりモテるの?」
「……体がもたないです」
「あら、もう帰るの? お茶でも飲んでいきなさいよ~」
治療より、雑談の方が長かった。
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帰り道。
西多摩の山の稜線に夕日が沈んでいく。
オレンジ色の空が、どこか温かかった。
寮へ戻る途中、近くの土手で少年たちがキャッチボールをしていた。
「がんばれー!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥でなにかがはじけた。
――そうだ、俺もあんなふうに夢中だった。
グラウンドの匂い、土の感触、打球の音。
すべてが宝物だった。
家に帰ったら、息子の祐司にもこの感覚を伝えたい。
そう思いながらも、ふと現実に引き戻される。
――帰る場所があるのか?
彼はまだ、妻に「帰ってこい」と言われていなかった。
啖呵を切って出てきた自分が、簡単に戻れるはずもない。
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夜。
風呂上がりにボゴサンダの部屋を訪ねた。
暖簾をくぐると、畳の上に小さなコタツ。
その前で、ボゴサンダが正座して湯を沸かしている。
「ユウタロウ、座レ。今日ハセネガル流オチャ」
「セネガルにもお茶あるのか?」
「アッタリマエ。ミンナ、オチャスキ。コレ、緑茶ト砂糖、混ゼル」
「……甘い緑茶?」
「ウン。幸セノ味」
祐太朗は笑って湯飲みを受け取った。
少し甘いが、不思議と心が落ち着く。
「オマエ、痛ミ、少シハ取レタ?」
「まぁな。整骨院の先生が、うるさくてな」
「ウルサイ先生、ヨイ先生」
「そうかもな」
二人はしばらく黙って、夜の静けさを味わった。
窓の外では、虫の音が響いている。
「ユウタロウ、ムスコ、元気?」
「祐司か。……中学受験だよ。きっと今ごろ、勉強してる」
「ムスコ、スゴイ。オマエ、誇リ」
「でも、俺は父親として、何もしてやれてない」
「違ウ。オマエ、夢見セテヤッテル。ソレ、父親ノ仕事」
その言葉に、祐太朗の胸が熱くなった。
――夢を見せてやる。
まだ終わっちゃいない。
窓の外に月が出ていた。
白く、丸く、静かに輝いている。
その光が、祐太朗の右ひじを照らしていた。
まるで、「まだ投げられる」と言っているかのように。
(第3章・了)
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第4章 ボゴサンダとちゃぶ台の夜
夜の西多摩は、驚くほど静かだった。
都心では考えられないほどの星が空いっぱいに瞬いている。
虫の声と、遠くの川のせせらぎだけが、時間の流れを告げていた。
阿部祐太朗は、六畳間のちゃぶ台に腰を下ろしていた。
机の上には、さきイカと缶ビール、それに半分読みかけの雑誌。
テレビは砂嵐のような音を立てている。
音量を下げ、窓を開けると、夜風がカーテンをゆらした。
草と土の混じった匂いが、かすかに部屋に入り込む。
「……都会とは違うな」
ひとりごとのようにつぶやく。
港区のマンションで過ごしていた頃には感じなかった空気だ。
不便だけれど、どこか落ち着く。
そんな夜だった。
コンコン、とドアが鳴る。
「ユウタロウ、起キテルカ?」
聞き慣れた低い声。
「ボゴか。入れよ」
戸を開けると、ボゴサンダが両手で盆を抱えて立っていた。
湯気の立つ土鍋がひとつ。
「今日はスペシャルディナー。オデン作ッタ」
「おでん?」
「ハイ。日本ノ心、コンブ、ダイコン、タマゴ」
「……お前、料理できるのか」
「ワタシ、元バイト、ソバ屋。味、保証スル」
ボゴサンダはちゃぶ台の前にどっかと座った。
ちゃぶ台がギシリと悲鳴をあげる。
「おいおい、壊れるぞ」
「ダイジョウブ。コタツモ壊レナイ」
豪快に笑うボゴサンダに、祐太朗もつられて笑った。
二人で土鍋を囲む。
湯気の向こう、ボゴサンダの黒い肌がやわらかい光に照らされる。
大根の香りが、寮の狭い部屋いっぱいに広がった。
「うまいじゃないか、これ」
「ホント? ヨカッタ!」
ボゴサンダは嬉しそうに箸を動かす。
「セネガルデハ、オデンナイ。ダカラ、ウレシイ。
ニホンノゴハン、心温カイ」
「……そうだな」
しばらくの沈黙。
ちゃぶ台の上で、二人の湯気だけが上っていた。
「ユウタロウ、ナゼ、野球、辞メナイ?」
ボゴサンダが真剣な目で言った。
「ナゼって……まだやりたいからだ」
「ソレダケ?」
「それだけ、で十分だろ」
「ウーン……ソレ、カッコイイ」
そう言って、ボゴサンダは大根をほおばった。
祐太朗は、ふと笑みを浮かべた。
彼の胸の奥で、何かが少しずつほどけていく。
ギガントをクビになってから、誰かに真顔で「なぜ続ける」と聞かれたことはなかった。
みんな「もう潮時だ」「セカンドキャリアを考えろ」と言った。
けれどボゴサンダは違った。
彼はただ、「なぜ」と問うてくれた。
まるで、野球を信じる気持ちそのものを試すように。
「俺はな、プロ野球に戻りたい。
でも、本当は……息子に見せたいんだ」
「ムスコニ?」
「“夢は終わらない”ってことを。あいつに教えたい」
「ソレ、トテモ良イ。ウチノ国デモ同ジ。
子供ニ夢ヲ見セナイ父ハ、牛ヨリ下」
「牛より下って、ひでぇな」
「牛、大切。ウシハ家族」
二人は同時に笑った。
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その翌朝。
外は霧雨だった。
グラウンドはぬかるみ、練習は室内練習場に変更された。
選手たちはアップを始める。
その中で、橘権之助が黙々とランニングを続けていた。
長い髪が濡れ、肩から湯気が立ちのぼっている。
「橘、肘は大丈夫か?」
祐太朗が声をかけると、彼は一瞬だけ振り返った。
「……投げないと、体がなまるんで」
「無理すんなよ。痛めたら元も子もねぇ」
「阿部さんも、そうだったんすか」
「ん?」
「……ギガントの頃。ケガしても投げてたって、聞きました」
祐太朗は言葉を失った。
「……誰に聞いた?」
「本多さんが。あの人、動画まで見せてくれましたよ」
祐太朗は苦笑した。
「確かに、そうだったな。若い頃は、ケガしてる自覚もなかった」
「でも、それでホームラン王ですよね」
「そうだ。けどな、そのあと、何も残らなかった」
橘は立ち止まった。
「何も、ですか?」
「記録は残る。でも、気づいたら周りに誰もいなかった。
家族にも、仲間にも、背を向けてたんだ」
祐太朗の声が、静かに響いた。
グラウンドの雨音が、二人の間を埋めるように流れていく。
「橘。お前は、まだ間に合う。
野球は、自分のためにやるもんじゃねぇ。
誰かのためにやると、強くなる」
橘は小さくうなずいた。
その瞳に、迷いと情熱が入り混じっていた。
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練習が終わったあと、祐太朗はシャワー室で冷たい水を浴びた。
右ひじに当たる水が、少し痛い。
それでも心の奥には、昨日のちゃぶ台の温もりが残っていた。
――俺は、もう一度、夢を信じてみよう。
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夜。
再びボゴサンダの部屋。
暖簾をくぐると、ちゃぶ台の上に茶筅と湯呑みが並んでいた。
「今日ハ、“西多摩流オチャ”」
「……またお前の創作か」
「マッチャ+梅干し。ココロ、シャキッとスル」
「味の保証は?」
「……ナイ」
二人は吹き出した。
「アベ、今日、監督ト話シタ?」
「ああ。『打てないなら走れ、走れないなら守れ』ってさ」
「イイ言葉」
「でもな、もう走るのもキツい」
「ウソ。オマエ、走レル。夢、追ッテル人、足早イ」
「……そういうもんかね」
「ソウ。オレ、信ジテル」
祐太朗は、湯飲みを見つめた。
梅の酸っぱさと抹茶の苦さが混ざって、妙にクセになる味。
気づけば、自然と笑っていた。
「なぁ、ボゴ」
「ナニ?」
「お前、セネガルに帰ったら何がしたい?」
「ウシ買ッテ、牛丼屋」
「牛丼屋?」
「ウン。“ボゴ丼”」
「ははっ、うまそうじゃないか」
「アベ、来テ。最初ノ客」
「……約束だ」
二人は、ちゃぶ台の上で拳を合わせた。
ごつごつとした手がぶつかる。
そこには、国も言葉も越えた友情があった。
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その数日後。
祐太朗の右ひじの痛みは、少しずつ和らいでいた。
まるで、あの夜のちゃぶ台のぬくもりが、心を通して体を癒しているかのようだった。
グラウンドでのキャッチボール。
ボールを受ける音が、前より軽く感じる。
ボゴサンダが満面の笑みを浮かべて言った。
「オー! アベ、戻ッタ!」
「……まだ完璧じゃないけどな」
「完璧ナ人間、ツマラナイ」
「まったくだ」
祐太朗は笑ってボールを投げた。
その白球は夕日に溶けるように高く舞い上がった。
――空の向こうに、息子がいる。
そんな気がした。
(第4章・了)
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第5章 受け継がれる技術
初夏の西多摩。
青空の下、グラウンドの芝生が眩しく光っていた。
風が山から吹き下ろし、土と草の匂いが混ざる。
その空気を吸い込むだけで、祐太朗の胸は熱くなる。
右ひじの痛みは、まだ完全に消えたわけではない。
だが、ボールを握る手の感触が少しずつ戻ってきていた。
――投げられる。
その確信が、心の奥で小さく灯る。
グラウンドでは、若い選手たちが掛け声を上げていた。
「突撃!」「突進!」「突破!」――球団の社訓「三突」を唱える声が響く。
鐘ヶ淵監督は、ベンチでノートパソコンを前にして何やら難しい顔をしている。
「フム、データ、トンだ……」
誰も突っ込めない。
その横で、祐太朗はバットを持ち、ティーバッティングの指導をしていた。
打撃ケージの中、若い打者が何度も空振りする。
「肩、力みすぎだ。腰から回せ。もっと“芯”を感じろ」
祐太朗が背後から声をかける。
彼の声には、もう苛立ちはなかった。
かつてのように、自分を誇示するための言葉ではない。
ただ、伝えたい一心だった。
「阿部さん、“芯を感じろ”って、どういうことですか?」
若い選手が首をかしげる。
祐太朗は少し考え、空を見上げた。
「……打つってのは、気持ちだ。ボールを見ようとするより、
“打ちたい”って心を身体に通す。芯はな、心の真ん中にあるんだ」
「心の真ん中……?」
「そうだ。ホームラン打つ奴は、バットより先に“夢”を振ってる」
その言葉に、若い選手たちは黙り込んだ。
そして、再びバットを握る。
――カン。
小気味よい音が響く。打球がまっすぐに飛んだ。
「そう、それだ!」
祐太朗の声が弾んだ。
久しぶりに、胸が高鳴る感覚だった。
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練習が終わった昼下がり。
祐太朗はベンチの陰でタオルを首にかけ、ボゴサンダと缶コーヒーを飲んでいた。
「アベ、今日ノ指導、熱カッタナ」
「ついな。昔の俺みたいなやつが多い」
「昔ノアベ、今ノアベ、同ジ顔。目、光ッテル」
「お前、詩人かよ」
「ハハハ。セネガル、詩ノ国」
二人は笑った。
ボゴサンダの笑顔は、太陽みたいに明るい。
その存在が、チームに光をもたらしていることに、祐太朗は気づいていた。
「アベ、オレ思ウ。野球、勝ツ負ケ大事。デモ、人ヲ育テル方ガ、モット大事」
「……そうかもしれないな」
「オマエ、育テル人ニ、ナッテイル」
祐太朗は、缶コーヒーを見つめた。
反射した空の青さが、胸の奥に広がっていく。
――いつの間にか、俺は“選手”より“師匠”になっていたのかもしれない。
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数日後の練習試合。
相手は、若手主体の社会人チーム。
祐太朗はコーチとしてベンチに立ち、若手たちの打席を見守った。
橘権之助がマウンドに立つ。
寡黙な男の顔に、緊張が走る。
初回、連続四球。ベンチの空気がざわめく。
「橘! 深呼吸しろ!」
祐太朗が声を張る。
橘は一度目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
次の投球――スパンッ!
キャッチャーミットが鋭く鳴った。
ストライク。
祐太朗の拳が、自然と握られる。
橘の投球が、少しずつリズムを取り戻していく。
試合後、橘が頭を下げてきた。
「阿部さん……ありがとうございました」
「何がだ?」
「“深呼吸しろ”って言葉で、頭が真っ白になってたのが消えました」
「……そんな簡単なことで良かったのか」
「簡単なことほど、難しいんです」
橘はそう言って、真っ直ぐな目で祐太朗を見た。
――あぁ、こうして、何かが受け継がれていくのか。
祐太朗は心の中でそう感じた。
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夕方、グラウンドの隅で鐘ヶ淵監督が声をかけてきた。
「阿部。お前、いい顔になったな」
「監督までそんなこと言うんですか」
「ワシの勘じゃ、今のお前は“伸び盛り”じゃ」
「三十九で伸び盛り、ですか」
「年齢なんぞ関係ない。魂が燃えておるうちは、選手も人も成長する」
監督は、ぽんと祐太朗の背中を叩いた。
「阿部、若いのに技術を教えるのもええが、自分の炎を消すな。
まだお前のバットは死んどらん」
祐太朗は、その言葉を噛みしめた。
炎――まだ、自分の中に残っているのだろうか。
右ひじを軽く握る。
微かに、熱が伝わった。
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夜。
寮のちゃぶ台の上で、ボゴサンダが野球ノートを広げていた。
「アベ、見テ。オレ、研究シタ」
ページには、拙いカタカナでびっしりと書き込みがある。
「スイングノ角度」「腰ノ回転」「牛丼ノ煮込み時間」――最後は余計だ。
「おい、これ何だ」
「野球モ牛丼モ、タイミング大事」
「いや、たしかに……そうかもな」
二人は笑いながら湯飲みを交わした。
ちゃぶ台の上には、いつも通りの静かな夜が流れている。
ボゴサンダがふと、真面目な声で言った。
「アベ。オレ、来年、セネガル帰ル」
「……そうか」
「オマエトノ日々、忘レナイ。
オマエ、野球教エテクレタ。デモ、心ノ強サ、モット教エテクレタ」
「……お前だって、俺に大事なことを教えてくれたよ」
「何?」
「人は、どんな国でも、同じ夢を見られるってことだ」
ボゴサンダの目が、少し潤んだ。
「アベ、オマエ、コトバ、映画ミタイ」
「いや、俺はそんな柄じゃない」
二人は笑った。
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翌朝。
祐太朗は久しぶりに、グラウンドのベースを一周走った。
右ひじが痛む。だが、走りながら胸の奥で確かに感じた。
――自分の炎は、まだ消えていない。
スタンドの端で、少年たちが練習を見ている。
「阿部さーん! がんばれー!」
祐太朗は、手を振った。
あの日の自分に向けるように。
(第5章・了)
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第6章 白球の奇跡
七月の西多摩は、真夏の陽射しに包まれていた。
グラウンドに立つだけで、汗が噴き出す。
蝉の鳴き声が止まらず、土の熱気が靴底から伝わってくる。
阿部祐太朗は、右ひじを軽く回した。
――痛くない。
違和感が、嘘のように消えていた。
信じられず、もう一度腕を振る。
バットを構え、トスされた球を打つ。
――カキーン!
白球は、見事な放物線を描いてスタンドへ消えた。
打球を見送るボゴサンダが、目を丸くした。
「アベ、今ノ、スゴイ! 本物!」
「嘘みたいだ……腕が軽い」
「奇跡、起コッタ!」
「いや……“戻った”んだよ。昔の俺に」
祐太朗は、握りしめたバットを見つめた。
手のひらのマメが、太陽の光を反射して光っている。
あの冬の日、空から落ちてきた白球――
あれ以来、何かに導かれるように生きてきた。
その“何か”が、今、形になり始めている気がした。
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チームのムードも上がっていた。
夏のリーグ後半戦、バッファロウズは快進撃を続けていた。
若い選手たちの勢い、監督の采配、そして祐太朗の存在――
それらが見事にかみ合い、チームは上位争いへと躍り出た。
祐太朗自身も、代打や一塁守備で出場し、確実に結果を残していた。
打率三割五分、ホームラン十本。
三十九歳のベテランが、再びグラウンドの主役に返り咲いていた。
「阿部さん、今日も打ちましょう!」
若手の声に笑ってうなずく。
「任せとけ。年寄りの底力、見せてやる」
ボゴサンダは、いつも通り明るかった。
「アベ、オマエノ打撃、セネガル行ッタラ、神話ニナル!」
「やめろ、プレッシャーかけるな」
「アベ、ヒット出タラ、牛丼奢ル!」
「お前、まだ日本にいる間に稼げよ」
二人の掛け合いに、チームの笑いが絶えなかった。
その笑いが、チームの力をひとつにしていく。
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八月の終わり。
新潟での遠征試合。
対戦相手は、強豪・新潟レッドソックス。
九回裏、同点。
ツーアウト一・三塁。
代打、阿部祐太朗――。
観客席からざわめきが広がる。
祐太朗は深く息を吸った。
――静かにしろ、自分の鼓動。
ボールの縫い目が、はっきりと見える。
ピッチャーの腕が振りかぶられる。
投げた、速球。
祐太朗の身体が自然に反応した。
――カキーン!
白球は、夜空を切り裂いてセンターの頭上を越えた。
一気に走るランナー。
スタンドが沸き上がる。
勝ち越しのツーベース。
祐太朗は、一塁ベースを踏みながら、天を見上げた。
――ありがとう、まだ俺は生きてる。
ベンチに戻ると、若い選手たちが飛びついてきた。
「阿部さん、すげぇっす!」
「やっぱり“生きる伝説”だ!」
「おいおい、まだ死んでねぇぞ」
みんなが笑った。
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夜。
遠征先のホテル。
窓から新潟の街の灯りが見える。
ボゴサンダがベッドの上でスマホを見ながら言った。
「アベ、見ロ。ネット、記事ニナッテル」
《39歳の奇跡 阿部祐太朗、復活のツーベース!》
「記事なんて久しぶりだな」
「アベ、有名人戻ッタ」
「いや、俺はまだ途中だよ。
でもな……ここまで来れたのは、お前のおかげだ」
「ワタシ? 違ウ。アベ、自分デ立ッタ」
ボゴサンダの声が優しかった。
その夜、祐太朗は久しぶりに深く眠れた。
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九月。
リーグ最終戦を前に、バッファロウズは優勝争いの真っただ中にいた。
右ひじの調子は、奇跡のように安定していた。
もはや痛みはない。
むしろ、二十代の頃よりも感覚が研ぎ澄まされていた。
――あの日、空から落ちてきた白球。
あれが“奇跡の球”だったのかもしれない。
誰も信じてはくれないだろう。
けれど、祐太朗は確信していた。
あれは、未来からの贈り物。
十年後の息子・祐司が放った、時を越えたウイニングボール――。
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そして迎えた優勝決定戦。
対戦相手は、昨年の覇者・栃木サンダース。
満員のスタンド。
応援の太鼓とトランペットが鳴り響く。
空は高く澄み、雲ひとつない秋晴れ。
九回表、二点ビハインド。
ツーアウト満塁。
打席には、阿部祐太朗。
観客席の祐司が、母の隣で小さく拳を握っていた。
「パパ……!」
声は届かない。だが、祐太朗の胸は震えた。
息子の気配が、風に乗って伝わる。
ピッチャーが投げた。
祐太朗の身体が自然に動いた。
――カキーン!
打球は弧を描いて、スタンドの奥へと消えていった。
満塁ホームラン。
歓声が爆発した。
祐太朗は、ゆっくりとベースを回りながら、観客席を見上げた。
そこに、祐司の笑顔が見えた気がした。
――見てるか、息子。
これが、俺の“人生のウイニングボール”だ。
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優勝の胴上げのあと、祐太朗は一歩離れて空を見上げた。
夕陽の中、白い雲が流れていく。
その雲のすき間から、ひとつの白球がきらりと光って落ちてくるように見えた。
――もしかして、あれも……。
彼は手を差し伸べた。
風が吹き抜ける。
白球は消えた。
けれど、その感触は、胸の奥にしっかり残っていた。
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夜、チームの打ち上げ。
ボゴサンダが牛丼鍋を抱えて現れた。
「ミンナ、食エ! “優勝ボゴ丼”!」
選手たちは歓声を上げた。
監督も涙をこらえながら笑っている。
「うまい……うまいぞ、ボゴ!」
「アベ、オマエノ打撃、調味料!」
「いや、俺の汗が塩分になってるかもな」
みんなが笑った。
その夜、祐太朗はこっそり会場を抜け出し、夜空を見上げた。
東京の方角に、遠く光る街の明かり。
そこに家族がいる。
「祐司……お前、いつかこの白球を受け取れ」
静かにそうつぶやいた。
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風が頬をなでた。
まるで、未来からの声が聞こえたようだった。
――“パパ、ありがとう”
祐太朗は、涙を拭いて笑った。
人生のグラウンドに、まだ次の打席が待っている気がした。
(第6章・了)
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第7章 人生のウイニングボール
秋の風が、グラウンドを吹き抜けていった。
白球が転がる音が、乾いた空気の中に響く。
試合が終わった後のスタンドは静まり返り、
夕陽が、赤く染まったベースラインを照らしていた。
阿部祐太朗は、グラウンドの真ん中に立っていた。
背番号7のユニホーム。
それを脱ぐ日が、とうとうやってきた。
目の前には、今シーズンの最終戦で優勝を決めた仲間たち。
泣いている者、笑っている者、肩を叩き合う者。
みんなが「このチーム」で過ごした時間を誇らしく思っていた。
鐘ヶ淵監督が歩み寄ってきた。
「阿部。……よくやったな」
「監督こそ、ありがとうございました」
「お前の打球、まだ脳裏に焼きついとる。
あれは“奇跡”なんかじゃない。努力の証じゃ」
監督はそう言って、しわだらけの手で祐太朗の肩を叩いた。
「監督、俺、野球をやってきて本当によかったです」
「うむ。これからも、野球を愛して生きろ」
ベンチ裏に戻ると、ボゴサンダが待っていた。
いつものようにコタツの暖簾を首に巻いている。
「アベ、今日ノプレー、神!」
「またそれかよ」
「ホント! 牛丼三杯分ノ価値!」
二人は笑い合った。
ボゴサンダの笑顔を見て、祐太朗の胸の奥があたたかくなった。
「お前、いつ帰るんだ?」
「来週。セネガル。ママ、待ッテル」
「そっか……。寂しくなるな」
「アベ、セネガル来イ。ボゴ丼、一番最初ノ客」
「行くよ。約束だ」
拳を合わせる。
その瞬間、二人の目に涙が浮かんだ。
言葉よりも、確かな絆がそこにあった。
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数日後。
祐太朗は、球団事務所で正式に引退の書類にサインをした。
「お疲れさまでした」「第二の人生も応援しています」と、
スタッフたちが口々に声をかけてくれた。
球団社長の利根が言った。
「阿部くん。君の存在は、チームにとって宝だったよ」
「ありがとうございます」
「タクシー会社の方でも、運転手を募集してる。どうだい?」
祐太朗は苦笑した。
「運転手ですか」
「君なら、お客さんを笑顔にできる」
「……悪くないかもしれませんね」
人生は不思議だ。
野球を離れたと思ったら、また“人を運ぶ”仕事が待っている。
ベースは違っても、誰かを目的地へ導くという意味では似ている気がした。
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十二月。
東京の冬は、街の光が冷たく輝いていた。
祐太朗は、黒いタクシーのハンドルを握っていた。
夜の六本木。
高層ビルの谷間を走り抜けると、窓の外に東京タワーが見えた。
真っ赤に染まり、冬空の中にそびえ立っている。
――あのタワーを、何度見ただろう。
選手時代も、悩んでいた日々も、
家族のもとへ帰る電車の窓からも。
いつも、そこにあった。
信号で止まったとき、後部座席のドアが開いた。
酔っ払ったサラリーマン二人組が乗り込んできた。
「うわっ、運転手さん、どっかで見たことある!」
「おい、お前、あれだよ、ギガントの阿部祐太朗!」
「サインしてくれよ!」
祐太朗は苦笑した。
「運転中ですよ」
「じゃあ降りたら、オシリにサインしてもらおう!」
車内は笑い声でいっぱいになった。
――なんだか、懐かしいな。
野球場でも、よくこんな無邪気な声援を聞いたっけ。
彼らを送り届け、車を止めた。
エンジン音が消え、静けさが戻る。
夜風が、わずかに開いた窓から入り込む。
その時、後部座席に白いボールが転がっていた。
拾い上げると、そこにはサインがあった。
――YUJI.
祐司の名前だった。
息子が未来から放った、あの白球と同じ文字。
手のひらが震えた。
「……お前か、また届けてくれたのか」
祐太朗は、ゆっくりと笑った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
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夜空には星が散りばめられていた。
東京タワーの光が、その星と溶け合って見える。
祐太朗は車の外に出て、空を見上げた。
――俺の野球は、終わった。
でも、人生は、まだ試合の途中だ。
風の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
――“パパ、今度は僕の番だよ”
祐太朗は、ボールを胸に抱いた。
右ひじをそっとさすりながら、つぶやく。
「よし。次のバッター、祐司。お前にバトンを渡すぞ」
車のエンジンをかける。
メーターが光り、街の灯が流れ始めた。
彼の人生の新しいイニングが、静かに始まっていた。
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朝方、東京タワーの下を走り抜ける。
夜明け前の空が、薄く白んでいく。
祐太朗は、フロントガラス越しにその光を見つめた。
――白球みたいだな。
あの日、空から落ちてきたボール。
それは、過去からの贈り物であり、
未来へのメッセージでもあった。
彼はハンドルを握り直した。
笑みを浮かべて、つぶやく。
「これが俺の……人生のウイニングボールだ」
車は朝焼けの街を抜け、
新しい一日へと走り出していった。
そして、その胸ポケットには、
あの白いボールが、静かに輝いていた。
(完)
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野球というスポーツは、ただ勝敗を競うものではなく、人と人の絆をつなぐ物語でもあります。
祐太朗が最後に見上げた東京の空、その中に輝く白球は、努力と後悔、そして希望の結晶でした。
「人生に三振はない」と信じて、もう一度立ち上がる姿を書きたくて、この物語を綴りました。
読者の皆さまの胸にも、小さなウイニングボールが届けば幸いです。




