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引き続き痛々しい描写があります。
その手に、セルジュ王子の真っ赤に染まった手が触れる。瞬間、トーマの手から肩までに黒い刃が飛び出して血をを撒き散らす。ズタズタ、腕が、血が、
「いやぁっ!トーマ!!」
彼の腕がボロボロになった。黒い服を着ているから分からないけど、血がボタボタ落ちて、体がよろけて、刃が引っ込むと更に溢れていて・・・セルジュ王子の魔法だ。殺傷能力の高い闇の魔法。黒い刀身がそうで、王子は楽しそうに笑っていて、どう、どうしたらいい!?私、どうしたら!?
ソファから立ち上がることしかできない。助けに行こうにも彼は王城で、王子の部屋にいて、今から行っても距離が、
「トーマ?」
ずっと見つめていた人はよろけながら後ろに移動すると、大きな本棚の影に隠れるように蹲って、消えた・・・逃げてくれた!
(チュピ!さっきまでいた黒い服の人を探して!部屋の中にゆらゆらしたものがあったら見せて!)
視界が右往左往する。チュピはお願いした通り、部屋の中に浮かび上がる違和感を探そうとしてくれた。
視界は広間に月の光を届ける窓辺で止まって、足が見えた。窓から逃げるの?・・・違う。カーテンが揺れて、トーマと思しき揺らぎは暖炉の側に。火のない暖炉の中に入り込んだ。
(隠し通路・・・もしかして王子の護衛だったアサシン達に聞いていたのかも!)
取り敢えず、窮地は脱したはず。緊張して息が詰まっていたから、ゆっくり肺の中の空気を吐き出した。
(外に出たのなら探さないと・・・チュピ、その建物から出て。誰にも見つからないようにして、さっきの黒い服の人がいたら追いかけてね)
ぴょんぴょんと視界が跳ねて、チュピは通気口を通り抜けるとセルジュ王子の部屋から脱出した。
もう王子のことはどうでもいい。酷い怪我を負っているけど、トーマの方が重症よ。服装のせいで確認はできない。だから、腕が無事と思えない。無数の分厚い刃に裂かれたから、千切れ取れている可能性もある。
チュピの目が窓の外を捉える。黒い塊が素早く城壁をよじ登って、その向こうに落ちた。
トーマは王城から脱出できた。チュピも追うように通気口を通って外に出る。
彼はどこに逃げるつもりだろう。予期せぬ反撃を受けて致命傷を負った。生き延びようとするはず。私がいるから死なずに帰って・・・、
(チュピ、戻ってきて)
王城の中庭上空を飛ぶ小鳥に命じた。次第に遠ざかる緑地。後ろへと流れていく白い壁を確認すると、私は視界のリンクを切った。
今の視界には物が一杯乗っているテーブルがあって、それから目をそらして立ち上がる。
足は動いて、気持ちに速度が早まる。ドアにぶつかると勢い任せに開いた。私を守ってくれる場所を飛び出して駆け出す。廊下を駆け抜けて、階段を降りて、見かけたメイドさんが目を丸くしていた。
「お嬢様、いかが致しました!?」
返事はあと。そのまま横切ると、真っ直ぐに廊下を走り続ける。
「いけません、お部屋にお戻りください!!」
後ろの方から大きな声で呼びかけられても足は止まらない。全力疾走だから呼吸が荒くなる。肺が痛い。足も痛い。
「お嬢様、落ち着いてくださいませ!いくら旦那様の結界内とはいえ、人目につく窓際にいられたら」
心配に思ってくれているのは分かる。でも、私は行かないといけない。迎えないと、早く見つけないと!
走る私を見かけたメイドさん全員が後ろから追ってくる。追い付かれないために速度を上げた。足の痛みは増すけど、走り続けて辿り着く。大きな正面玄関ではなく、使用人達が備品や食料を搬入する屋敷の裏口。
深呼吸を繰り返すことで息を整えた。
トーマは私のところに帰ってくる。絶対に戻ってくる。だって、私のことを想ってくれているから。私も彼を想っているから分かる。側にいたいって思う。
ただ、セルジュ王子を殺すために忍んだ人が正面から帰ってくるはずもない。後ろめたい、とかじゃなくて大手を振って姿を現せる状態じゃないから。人目につかない裏口から帰ってくるはず。
後ろから迫ってくるメイドさん達には振り返らずに、裏口のドアを開け放った。
風が吹く。眼前の庭の草木が揺れて、空間が歪んでいた。ゆっくり近付いてくる。辿々しい足取りで、歪みは人の形を取っていた。暗い夜の闇に浮かび上がる黒ずくめのトーマ。
やっぱり帰ってきてくれた!早く傷を確認しないと!
近付こうと足を動かそうとした。でも、私の体の前に腕が出てきて止められる。黒い長袖を着た誰かの腕。体があるだろう方向を見れば、トーマと同じように黒ずくめの人がいる。いつの間にか、私の一歩前に立っていた。そんな突然現れる存在はアサシンしかいない。
「リスベット様、頭領は怪我を負っています。そのまま触れれば、御身が血で汚れてしまいます」
声を聞くにアサシンは男の人だった。頭に被ったフードの隙間から、赤い瞳が私を見ている。感情が見えない目。それに怖さはあるけど、怯んでる場合じゃない。
「分かっています。ですから、退いてください。今すぐに治療をしなければいけないのです」
「あなたが治療してくださるのですか?」
「・・・はい。あなたがどう思っているか知りませんが、私は回復魔法を体得しています。なので、この手を退けてください。すぐにでも彼を運ばないといけません」
「・・・あなたでは頭領の馬鹿デカい体を支えられません。あの大男は俺が運びますので、部屋まで案内してください」
自分の上司を大男呼ばわりしたんだけどこの人!?いや、大男なのは間違いないか。
それに、冷静に考えればアサシンに従ったほうがいい。意識が朦朧とした大男を運ぶなんて私には無理だもん。
「分かりました、お願いします」
体をストッパー代わりにしてドアを開き続けた。アサシンは、よろよろ近付いてくるトーマに瞬間移動のような素早さで近付くと、肩を貸してすぐに私の脇に戻ってきた。あまりの素早さだった。瞬きしたらもう隣りにいたんだけど。
「勝手な行動を取るのは二度となさらないでほしい。頭領が不在だったのです。何かが起こってからでは遅い。我々はアシュレイ様より、あなたを監視する命を受けていました。その命令がなければ、あなたを王子の間者の眼前に晒すことになっていた」
我々ってことは、まだ他にもアサシンが控えているんだろう。お兄様の名前が出てきたから関係者かな?
「あなたは兄の護衛ですか?」
「はい。今は屋敷の警護も担っております。本日は頭領の姿がなかったので、あなたの身辺警護に重点を置いていました。よもや部屋から飛び出すとは思っていなかったので、虚を突かれましたがね」
「おい・・・いつまで、俺のお嬢と話してんだ・・・」
弱々しい声。屈んでいるから顔を隠すフードの奥にある目元が見えた。苦悶と眉を寄せて、虚ろな灰色の目が私を見ている。
「お嬢様!やっと、えぇっ!?こちらのアサシンの方はどうされたんですか!?」
「まあっ、血が!!」
追い付いてきたメイドさん達がぐったりしたトーマの姿を見て声を上げる。青ざめている彼女達は今にもパニックになりそうだった。
「落ち着いてください。彼はトーマです。酷い怪我を負ったので、今から私が治療をします。ここからだと使用人の休憩室が近いので運ぶつもりです。あなた達は・・・」
トーマを見た。黒い服から血を滴らせている。服を脱がさないと状態が分からない。
「裁断用のハサミを持ってきてください。あと、湯を入れた桶とタオルもお願いします」
「は、はい!ハサミですね!」
「わたしは湯桶とタオルを持ってまいります!」
二人のメイドさんが早足で移動し始めた。残った一人に私は言葉を送る。
「あなたは床に滴った血を拭き取ってくれますか?」
「わ、分かりました!すぐに拭き取ります!」
メイドさんは走り出すと、近くの用具入れからモップを取り出す。
私はその姿を確認して、トーマを支えるアサシンと共に休憩室に向かった。
ゆっくりと、後ろから聞こえるモップが床を拭く音を聞きながら、傷付いたトーマの体に響かないように進み、辿り着いた休憩室のドアを開ける。
先導するために先に入室した私が振り返れば、アサシンはすぐ後ろにいた。重いと言いたげに目元を顰めている。
「このソファに座らせてください」
手を二人がけのソファに向けて示せば、アサシンはトーマを運んで座らせた。肘掛けに怪我をしていない方の腕をもたらせると、体を離して一息つく。
余程重かったみたい。背が高くてムキムキだもんね、この人。
「ありがとうございます」
お礼を言えば、赤い目が私を見て細まる。笑っているの?
「なぜ礼を言われるのか分かりませんが、お役に立てたのなら幸いです・・・頭領のことを頼みました」
そう言うと、振り返ることなく休憩室から出ていった。本来の職務である屋敷の警護に戻ったんだろう。
でも、アサシンである彼の頭領を託されたんだ。部下のためにも絶対に治さないと!
私はトーマに向かい合うと、身を屈めた。力なく項垂れている体を正面から見る。生気のない顔は血の気が引いていることで、出血の多さを物語っていた。
(服を脱がさないと)
腕がポロッと落ちないことを願いながら、トーマの服を脱がしていく。隠匿のマントを体から外して広げた。染み出た血の量もだけど左側がズタズタになってる。それでも効果が落ちないのは凄い。ベストも外し、重っ!裏側は鉄板だし、ジャラジャラと太い針とか小さなナイフ出てきた。隠し持っている暗器か。危なすぎる。
重くて危ないベストと暗器は床に置いて、ぶつからないように壁際に寄せた。さて、あとは・・・。
「お嬢様、桶とタオルをお持ちしました!」
「ハサミはこちらのもので大丈夫でしょうか?」
メイドさん達が入ってきて、頼んでいた物を運んできてくれた。
お礼のために顔を向ける。モップを持つ子も含めて、彼女達の顔はしっかりしていた。もう動揺などない姿に流石としか言えない。
「ありがとうございます。一旦、桶とタオルはテーブルに置いてください。ハサミは私に」
「はい」
「分かりました」
指示に従ってくれる。モップを持つメイドさんも、室内に滴り落ちていた血を綺麗に拭ってくれた。
私はハサミを受け取ると彼女達に笑みを向ける。大丈夫だと表したかった。
「あとのことは私がします。あなた達は職務に戻ってください」
「でも、お嬢様。血で汚れてしまいます」
「負傷者の手当をするのですから当たり前のことです。私は大丈夫。ですから、あとは任せてください」
メイドさん達は顔を見合わせると、少し納得していないと言いたげに眉を寄せた。でも、私が動かないから彼女達は従ってくれる。
「分かりました」
「何か必要なものがございましたら仰ってくださいね」
同時にお辞儀をして、順々に休憩室から出ていく。トーマと二人きり。すぐに治療をしないと。
袖から出ている左手はすっかり真っ赤になっていた。私はズタズタになっている黒いシャツの左肩の布地を少し引っ張って、ハサミを入れる。腕なんて落ちないでよ。絶対に落ちないで。
肩口で切り開き、腕に沿ってハサミを動かす。刃が当たらないように注意しながら、見えてくる腕の酷さに顔を顰めた。血の匂いも凄まじいから頭も痛くなる。
でも我慢して、袖口まで切ることでトーマの左腕を露出させた。
・・・なんて酷い。腕は取れてはいないけど、ぐちゃぐちゃになっている。真っ赤に染まっているからはっきりとは分からない。でも、皮膚も肉も裂けて、千切れ取れかけた肉片が宙に下がっていて、場所によっては骨まで見えている。常人なら激痛で意識を失うほどの大怪我。
それなのに、トーマは虚ろながら私を見つめている。私に助けを求めているって思ってしまった。
助けないと、この酷い怪我を完治させないと。
頭に浮かぶのは人体の図鑑や解剖図で見た腕の構造。しっかりと思い出しながら、床に膝立ちをして彼の体に近付く。
「・・・っ、はぁ・・・っ」
ぐったりとした頭を私の肩に乗せることで支えた。暑い息を鎖骨に感じながら、再びトーマの左肩を見る。
切り裂かれた傷口は深く、筋肉もかなり損傷している。骨も切断されているかもしれない。しかも、止めどない出血で貧血を起こしかけている。まずは血だ、血を作ろう。私の体内のマナを放出と共に変換させて血液に・・・血液型とか知らないけど、トーマの血液になれと思えば・・・。
くらりと目眩がした。マナを放出したからだろう。私は掲げた手で、彼の左肩から腕を触れずになぞり、喪失感を感じた瞬間から血管を塞ぐイメージをした。血管が塞がって、骨を繋げる。次は筋肉を、淡く光る手でなぞって塞いでいく。
「・・・回復魔法、使えたんですね」
出血が治まり、マナで代用した血液が体の中を満たしたのだろう。少し元気になった声が聞こえた。
私は頷きながら、破けた皮膚を繋げる。
「ソニアさんほどではありませんが、あなたの傷は私が治しました。絶対に傷も後遺症も残しません」
トーマの血で汚れた指先。躊躇いつつもそれを赤い腕に触れた。するりと全体を撫でて確認をする。傷は塞がった。鎖骨に当たる彼の息も安定しているから、痛みはなくなったみたい。
あ、でも、ちゃんと聞かないと。聞くことまでが治療だもん。
「痛みはありませんか?」
「・・・全然」
間が空いたことには引っかかるけど、はっきりした声色からトーマの傷は完全に塞がったと分かる。
私は膝を動かして後退した。肩にあった頭が落ちそうになったから、彼は顔を上げる。
もう虚ろな表情じゃない。しっかりとした顔で、真っ直ぐに灰色の瞳を私に向けている。
良かった。ちゃんと回復魔法が使えた。今度は私のほうが貧血みたいになって頭がくらくらする。何とか倒れずに踏み止まれているけど魔力を消費しすぎた。あの大怪我を治したんだから当然か。
一息ついて、真顔のトーマを見ながら身に付けているシャツに手をかけた。傷の残りがないかしっかり確認をして、肌にべっとりと付いた血を拭わないといけない。
「体を拭きます。シャツを脱がしますね」
一瞬、目の前の彼はその目を見開いたけど、
「お願いします」
それだけ言うと、丸めていた背筋を伸ばした。私は立ち上がり、背中を屈めてシャツのボタンを外していく・・・いくわけだけども、初めてトーマの裸を見た。本当にムッキムキ。胸は胸筋で盛り上がってるし、腹筋はシックスパックってやつが盛り上がってる。脇の下に斜線みたいに浮かぶ筋肉も凄い。この人に本気で抱き締められたら逃げられないし、最悪、体がバキバキ言いながらも潰されそう。
ああ、やっぱり胸にも脇腹にもべったり血がついてる。服を伝ってきてたんだ。
上半身を裸にすると、テーブルの上にある桶とタオルを持った。厚手のタオルを一枚、中の湯に付けて、余分な水分を絞る。
トーマに向き直って、先ずは真っ赤な腕を拭き始めた。ゴシゴシ拭いても大丈夫かな?皮膚も分厚いし・・・悪口になっちゃうけど、モンスターにいるオーガみたい。顔とサイズは人間だけど体の構造がオーガって感じ。言ったら変なことされそうだから止めとこう。
腕の血を拭いながら傷の確認をした。あれほどズタズタだったのに傷は一切残ってない。しっかり塞げたことを目でも確認できた。凄く嬉しい。私だってやれば出来るんだわ!
一回、桶にタオルを浸けて濯ぐと、吸い取っていた血を流す。しっかり絞って、今度は胸を拭いた。力が入ってない胸ってふにふにしてるのね。それでも筋肉の弾力が凄いけど。
背中の方は大丈夫かな?覗き込んで見たら・・・ちょっと付いている。拭かないと。
彼の体に寄って、向かい合いながら背中にタオルを持つ手を回した。肩の辺りに唇が当たるけど、本人が気にしてないみたいだし、そのままにしておこう。よし、あとは脇腹だけ。
斜線みたいな筋肉が浮かぶ脇腹をタオルで拭いた。
トーマは息を漏らす。小さくて深く息をを出すと、私の腰に腕を回してきた。急な触れ方に顔を見れば、真剣な表情がそこにある。
「なんでこんな怪我をしたのか聞かないんですか?」
何でと聞かれても・・・。
ちらりと窓を見た。見知った可愛い小鳥が窓枠に止まっている。無事に帰ってきてくれて良かった。
「見てましたから」
「・・・は?」
訳が分からないと呆気に取られた顔をされる。
「あなたが隠匿のマントを持ち出したことが引っかかったので、行こうとする場所を推測したんです。そこは私は行けない場所だから、あの子の目を借りました」
私の視線の向かう先をトーマも目で追った。その灰色の瞳にも、窓枠でふくふく丸まっている小鳥が映っただろう。
「・・・あの小鳥?」
「私の使い魔のチュピです。部屋から出れないので、外の様子を見るためには生み出しました。遠く離れた場所であっても、あの子がその目に映したら私も見える。視界を見ることができるのです・・・だから、あなたがしたことを見ました。セルジュ王子を、拷問するかのように痛め付ける姿を」
言葉はそれ以上言えなかった。
突然抱き寄せられて、逞しい胸に顔を押し付けられる。少し苦しいと離れようとしても、彼の筋肉で太い腕が許してくれなかった。
「俺のことを嫌いにならないでくれ」
何を言い出すんだろう。そう思って上にあるトーマの顔を見上げた。苦しそうな表情が浮かんでいる。
「殺しをする俺の姿なんて見せたくなかった。嫌われる、怖がられると思っていたから遠ざけていたのに、使い魔で見られていたとは思わなかった・・・俺のことを怖いと思っただろ?嫌いになったか?」
怯えるように震えた声で言ってくる。それなのに抱き締める力は強いままで、どんな答えをしても彼は離してくれないって分かった。
というか、確かに暴力的なものや過激なものは感じないように配慮を受けてるとは思っていたけど、嫌われたくない一心だったなんて。やっぱりこの人は私のことを大切にしてくれてる。だから、はっきり言ってあげなきゃ。
「あなたのことはずっと怖いと思ってますよ」
「・・・嘘だろ」
悲しそうに眉が寄って、信じられないと目の光がなくなっていく。私の一言で簡単に絶望した。こんな強い人がこんなにも脆くなっている。これほど想われているなんて、自惚れてしまいそう。
「ただ、怖いと思っても嫌いにはなりません。あなたは殺しの専門家です。恐ろしい部分があるのは当然で、その刃が私に向かうことを」
「俺がお前を殺すわけがないだろ!」
抱き締める力が増した。顔が胸に押し付けられて苦しいし、締め付けられている腰も痛い。このままバキバキって潰されそう。そんなことをしないって分かってはいる。
殺すわけがない、確かにそう。このトーマは私を殺さない。好きになってくれたから絶対に殺さない。ただ、本来だったらリスベットのことを暗殺する。好きになった人のために殺すことができる。
私へと恋心を持たなければ、私がヒロインと敵対していれば殺されていた。だから、殺すはずが「ない」わけじゃない。
でも、縋るように覗き込んでくる目と離したくないと体を縛る腕に申し訳なくなってきた。言葉が不十分だから混乱させてしまっている。
「あなたに刃を向けられると脳裏に過ぎっても、有り得ないと思ってます。あなたは私を大切にしてくれているから信じてる・・・大好きよ、トーマ」
目の前にある強張っていた顔の力が抜けて、息を漏らした。
目を閉じた顔が近付いてくる・・・キスじゃない。安心感を得るためだろう。私の額に唇を付けると、そのまま密着するだけだった。
・・・うーん、少し体勢がキツくなってきた。ソファに座るトーマに上半身を密着させられながら、足は床についてるわけだから中腰状態なんだよね。座ってもいいかな・・・体を動かそうとしたら、離れると思われたらしい。力任せに引かれることで結果的に座れた。トーマの膝の上に。
今度は私が覗き込む感じだけど、この人は私の胸に耳を寄せて動かない。心臓の音でも聞かれてる?それならちょっと恥ずかしい。この体勢にドキドキしてきたもん。
「あの」
「・・・ん?」
何か話題を振ろう。何を言おう。気分を変えるために、そうだ!
「どうしてセルジュ王子をすぐに殺さずに暴行を加えたのですか?アサシンの技は一撃必殺と聞いています。あなたなら気付かれる前に殺せたでしょう?」
「あのクソ野郎はお前を苦しめたんだ、絶対に許せない。だから、お前が受けた以上の苦痛を感じさせてから殺したい。予想以上の反撃を受けたから撤退せざるを得なかったが、最初から野郎が抵抗をできないくらい痛めつけときゃ良かった。初撃で手足を取らなかったのが間違いだったぜ」
うーん、怖い。でも、これがトーマ。
突然王子に危害を加えたかに見えるけど、彼は「スイッチ」を切り替えただけ。私に向ける優しい姿から、殺しや暴力を厭わない冷酷な姿に変えただけにすぎない。
トーマが王子に持つ殺意は以前からあったと知ることで分かった。ずっと在った冷酷な面を表に出して、念願だった暗殺に動き出したんだと。
反撃されたから失敗しちゃったけど、これからも冷酷な姿は在り続ける。私に見せないように「スイッチ」を入れないだけで・・・今は少し見せているか。それほど、セルジュ王子に対する憎悪が凄まじい。
切り替えないと。私がこの人の気持ちを切り替えてあげないと、また王子を襲撃する。
・・・よし、やるわ!
自由な両手をトーマの顎と頬に添えて上に向けさせた。
「リスベット?」
何事だと目が丸くなっている。その目を見ないように、触れ合うことを必要以上に思わないように私は目を閉じて、彼の唇にキスをする。
柔らかさと温もりは一瞬だけ。すぐに離れた。それなのに心臓はドクドクと脈を打っているし、顔が熱い。一瞬の触れ合いなのに感触は唇に残っていて、忘れられなくて、身悶えしそう!
ト、トーマはどう思っただろう。薄めを開けて見てみれば、ポカンとした顔をしている。
驚きましたよね!そんな雰囲気じゃなかったのに、突然キスされて放心しちゃうよね!
目は開けられはしたけど、顔を向かい合わせにすることは出来ない。自分からやろうと思って行動したけど、やるべきじゃなかったと少し後悔しちゃう。
でも、これでトーマの気持ちが切り替われば。
「何で、今キスを」
切り替わっているみたいだけど、理解が出来ないみたいで困惑していた。それはそう。私だって突然キスされたら絶対にこうなる。
「ええっと・・・」
何か納得してくれる言い回しを考えないと、何か・・・そうだ!
「私のことだけを考えてほしいから?」
何故か疑問形な言い方になってしまった!トーマも、
「お前のことだけを考えているから、あのクソ王子を殺したいと思ってるんだ」
ぐるっと世界が反転した。気付いたら私はソファの上に寝そべっていて、トーマが覆い被さっていて、顔が、
「んんっ」
キスをされた。軽く触れたことに驚いて目を閉じれば、何度も触れられて、角度を変えられて。
口が開けない。私の唇に彼の口が吸い付き、啄んでくる。感触にゾクゾクする。微かに痺れたみたいな感覚が広がっていって、意識してしまう。
終わりないキスが息苦しいから、離れた瞬間に口を薄く開いた。空気を取り込もうとしたけど、柔らかくて濡れたものが入り込んでくる。
「ぅ、んっ・・・ん」
口の中を舐められる。舌も絡め取られて、擦られて、これトーマの舌?熱くて、舐められるたびに口の中もゾクゾクする・・・気持ちいい。
何もできない。ただ、気持ちいいだけ。体は熱くて心臓も痛いほど脈打ってるけど、抵抗する力なんて出ないし、元からできない。
好き。この温もりも感触も、トーマのことも好き。彼が望むならずっとこのままで・・・。




