28
私がソファに腰を下ろすと、ソニアさんも続いた。持っていた本をテーブルに置いた彼女は、体ごと私に向けてくる。
「先生、今日はお願いします」
「まあ!先生だなんて!・・・リスベット様が回復魔法に対する理解を深められますよう、しっかり務めさせていただきますね」
柔らかな笑みと言葉に釣られて笑みが浮かんでしまう。
「本日のリスベット様は花のごとく可憐でいらっしゃいますから、わたくしの身も引き締まります。ご令嬢に教鞭をとるなど初めてのことですが、わたくしなりに分かりやすくお教えいたします。分からないことがありましたら、すぐに質問なさってください」
「可憐なんて、いえ、その・・・もう私は貴人ではないとご存知でしょう。気楽にしてください」
また恰好を褒められたわけだけど、今は重要じゃないからスルーした。
大事なのは、私に対してソニアさんが恐縮してしまうこと。もう貴族じゃないと知っているんだから、体の力は抜いてほしい。
「過去のあなたがあるから今のあなたがあるのです。高貴であれと教育された方は、身分が変われど所作に表れます。確かにリスベット様には貴人にはない親しみやすさがありますが、どこか令嬢たらんとされてますよ。ですので、わたくしもそのように合わせますわ。高貴な方が生徒ですもの。誠意を持って対応致します」
真面目。いや、今から先生になるんだから真面目になるのは当たり前か。
この人がいうように、高貴な身分だからしっかり努めようとした時期があったのは間違いじゃないし。まあ、生来のドジのせいで詰めが甘かったけど。
「・・・では、よろしくお願いします」
軽く頭を下げる。会釈程度のお辞儀に対して、彼女は穏やかに微笑んでいた。
その顔がテーブルに向かい、手も向かう。ソニアさんが手に取ったのは回復魔法の教科書ではなく、人体の図鑑だった。
「教科書は使わないのですか?」
「あくまで補助としてお持ちしました。あなた自身も、学園から配布された教科書で回復魔法のことはご存知のはずです。どう使うかなども知っていらっしゃるでしょう?」
「基本的に魔法はイメージ、ですよね」
肯定と頷いたソニアさんは図鑑を開く。ページを捲り、人体の簡単な図が描かれたところで指を止めた。
「そうです、回復魔法も他の魔法と根本は変わりません。イメージすることで体内の魔力が反応して傷を治します。患部に手で触れたり、掲げたりで治しますが、実はより効果的に治療できる方法があります」
「方法ですか?」
身を寄せてくれたことで、開いているページがよく見えた。彼女の細い指が簡易な人体図をなぞる。
「人体への理解です」
「人体への理解・・・」
オウム返しをしてしまった。今の私はかなり頭が悪く思われるんじゃ?
そんな気がしてソニアさんを見たけど、彼女は伏せ目がちになることで長い睫毛を見せるだけ。ページに集中している様子だから、私も急いで覗き込んだ。
「生物の体は、簡単に言えば骨があり内臓があり、筋肉と血管、皮膚で構成されています。内臓は胴体に詰まっていますが、手足は骨と筋肉と血管と皮膚で構成されている。回復魔法を使用する際、その怪我した箇所の構造を理解していれば、どこが損傷しているかもイメージしやすい。イメージできれば、どう損傷を塞ぐのか分かります」
ソニアさんの手が、自身の胸を押さえる。
「私の胸部が剣で貫かれたとしましょう。胸部にあるのは心臓と肺。肋骨という骨。張り巡らされた血管に、それらを包む皮膚。女性であれば、乳房を構成する脂肪もあります。この全てに穴が空いている状態」
ページの人体図の胸部を、指が円を描くようになぞった。
それは視界に捉えている状態で、私の目は彼女の豊かな胸を見ている。そこに剣が突き刺さるっていう恐ろしい想像をしてしまい、体が震えた。
「それらを全て治す。血を止めるために血管を、心臓と肺の穴を塞いで、砕けた骨を繋ぎ合わせる。皮膚も傷が残らぬように、しっかりと破れたところを復元して閉じなければならない。人体の理解が深まれば、容易くイメージすることができるようになります」
「た、確かに・・・」
想像したことが怖くて喉も震えてしまった。
彼女は笑みを浮かべる。その顔に、心臓が締め付けられた感覚が緩んだ。
「リスベット様が恐れを感じたのは慈愛の心をお持ちだからですわ。人が傷付くのを見たくない、考えたくない。苦しいだろうとその人のことを想ってしまう。あなたは、ヒーラーとして大事な気持ちをお持ちです。苦しむ姿が耐え難い、手を差し伸べたいと考えていらっしゃるのでしょう?」
「そこまでは考えていません・・・ただ、痛みというものは苦しいと知っています。それが死に至るものであれば激痛であり、絶望です。望みを失いながら苦しむのはとても辛いから・・・」
前世で車に轢かれて死んだことを思い出す。あの痛みは凄まじく、落ちていく意識に望みが潰えた喪失感を感じた。
きっとその喪失感は他の人も同じ。死ぬほどの怪我を負った瞬間、あの絶望が始まる。あの辛さを感じてしまう。
「人のことを想い、そこまでお考えになれるのは才能です。他者に共感するなど、誰もができることではありません」
本のページにあった指が離れる。彼女の手は、膝の上に置いていた私の手に被さると、優しく包んできた。
「共感のできるあなたに必要なのは、怪我に立ち向かう強い意思です。傷の深さによっては魔力の消費も凄まじい。そして、酷い怪我であれば目を覆いたくなるほどですが、向き合うしかありません。苦しむ人を想うなら、必ず治すとしっかりと思うこと。回復魔法に一番重要なことです」
「・・・はい!」
激励の言葉だと思った。私のことを想ってくれたから、私の気持ちを押してくれた。
だから、真っ直ぐにしっかりとした声で返す。ソニアさんは温和な表情を崩さないけど、その目は私の目を見つめていた。
私の手を包んだ手が外れて、開いていた書籍も閉じる。彼女はテーブルに置くと、魔法で瞬間的に小さな氷の刃を作り出した。
「わたくしは人を傷付けることが出来ません。苦しませたくないと気持ちが先行して、纏まったイメージができなくなります。ですから、わたくしに出来るのは回復魔法のみ。痛みで苦しむ人を救いたいという気持ちから、どんな傷にも向き合って治すことだけをイメージする。これでも魔法使いですから初歩の属性魔法は使えますが、しっかりとイメージできるのはこうして刃を作るくらいですの」
刃を手にしたソニアさんは、もう一方の手のひらに刃先を当て、真っ直ぐに引いた。
「ソニアさん!?」
縦一文字の傷口から真っ赤な血が溢れ出す。ああ、手のひらが赤に染まっていく!いきなり何を!?
「回復魔法の練習をするには、怪我人がいないといけません。無傷であれば使う必要がない魔法ですから・・・リスベット様、わたくしの怪我を治していただけますか?」
赤に染まっていく手が近付いてくる。慌てて手の甲を両手で支えた。じわじわと広がっていく血。今にも手のひらから零れ落ちそうだった。
「痛いのでは!?」
「痛いです。ですので、治してくださいませ」
治す。この血が溢れ出る傷を治す。治るように、塞がるようにイメージして、手で触れて・・・触ったら痛いから手はかざしたほうがいいかな?
「血が溢れるのは血管が裂けているからですわ。まずは血管を塞ぐようイメージしてください」
視界には血塗れの手だけで、だからソニアさんの声しか聞こえない。でも、その声はよく聞こえた。
血管を塞ぐ。止血しないと・・・この傷の血管を、塞ぐ。切り口がくっ付くようにイメージして。
手をかざす。指先で傷口に沿うように、触れないようになぞった。塞がれと考えて、塞がっていくイメージを強く思った。
そうすれば、私の指先に光が灯る。淡い暖かな光。その光を纏わせたまま傷口をゆっくりなぞる。
・・・出血は止まったみたいだった。手のひらから血は溢れることなく、それでいて水溜りのように溜まっている。
「リスベット様。血のせいで見えづらいと思いますが、殆どの怪我に出血は付き物。拭うよりも、まずは怪我の治療を優先させてください。わたくしの血管は塞がりましたが、まだ筋肉と皮膚が裂けている状態です。剥き出しのままでは再び筋肉と血管を傷付けてしまいます。塞がるように回復魔法を使ってくださいませ」
「分かりました」
いつもの穏やかな雰囲気を持つ彼女とは違う。しっかりとした的確な言葉に背筋が伸びた。
言う通りに、先生であるソニアさんの指示通りに、私は裂けてる筋肉と皮膚が繋がるようにイメージして、光灯る指先でなぞった・・・体から力が抜ける感覚がある。私の魔力が消費されているってことだと思うけど、つまり傷口が塞がったのかな?
「治療を受けた者に痛みがないか聞いてください」
「は、はい・・・痛みはありませんか?」
「ええ、ありません」
じゃあ私の回復魔法でソニアさんの傷口を塞がったの?
「せ、成功したのでしょうか?」
「はい、しっかりと傷口は塞がりました。大丈夫ですわ」
安心から力が抜ける。でも、ソファには身を預けず、背中を丸めてしまうくらいで、ああ、駄目!しっかりしないと!
再び背筋を伸ばした。そうすれば、小さな笑みが溢れる。
「ありがとうございます、リスベット様。すっかり痛みは感じません」
「はい、安心しました。ソニアさんの美しい手に傷が残らなくて良かったです」
一息ついて、彼女の顔に向かい合う。少しバツが悪そうに眉を寄せていた。困っている、というか申し訳無さそうに見える。
「突然、手を傷つけて驚かれたでしょう?申し訳ございませんでした・・・しかし、怪我というものは突然に起こること。即座に対処すべく冷静さを失わないでください」
「はい」
「本来ならば、怪我人がいる治療所などで研修を受けるのですが、状況が許してくれません。それだけが心残りです。部屋にいても学びはできますが・・・あ、そうですわ」
キョロキョロと辺りを見渡し始めるソニアさん。捜し物でもあるのかって思ったら、
「紙でもよろしいのですが、血を拭うものはありませんか?このまま触れ合っているわけにはいけませんので」
「あ、そうですね!」
ハッとして、支えるように持っていた彼女の手から離れた。辺りを見渡しながらソファからも腰を上げる。
ソニアさんは、手のひらの血が溢れないよう動かなかったけど、苦笑していた。
「重ね重ね申し訳ございません・・・わたくし自身、準備を怠っていましたわ。自分で言うのも何ですが、どこか気が抜けてますの」
「勝手ながら親近感が沸きます。私も抜けてるところが、ではなくて!すぐにタオルを用意します!」
慌ててしまって、家具に足がぶつかり転びそうになった。それに彼女は「大丈夫ですか!?」と声をかけてくれて、転ばずに済んだ私は笑って、つられて笑ってくれた。
即座に用意した小さなタオルを水で濡らして血を拭い、お互いのドジっぷりを発表し合う。本当に親近感が沸く。このままいけば、ソニアさんは私のお義姉様になるんだけど、優しい人がお義姉様になってくれる。それがとても嬉しい。
「タオルが汚れてしまいましたね」
「私付きのメイドに頼んで洗濯してもらいます。ですから、気になさらないで」
「リスベット様はお優しいですわ。その、言うべきではないことなので、ここだけのお話にしてくださいませ・・・アシュレイ様は厳しい方なので、リスベット様と全く性格が似てらっしゃいませんね」
「フフッ、私もそう思います」
内緒話だと小さな声で言い合う私達。そうすれば、小鳥の鳴き声が聞こえた。愛らしくて小さな囀り。声に惹かれて振り返れば、チュピが窓枠に留まっている。小さな私の小鳥と目が合えば、小さな翼を広げて飛び立ち、近付いてくるとポットの蓋に留まった。
「この小鳥、使い魔でしょうか?」
ソニアさんも見ていたのか、不思議そうに声を漏らしていた。
首を傾げているチュピから視線を外して、彼女を見る。可愛いものを見たことで顔が緩んでいた。
私のチュピにメロメロってことですね。分かります!
「私の使い魔です。ずっと屋敷にいることと、自分の魔力がどれほどまでに至ったのかを知るために生み出しました」
「使い魔作成ですね。素晴らしいですわ。特に、このふわふわしたまんまるな体がとても愛らしくて・・・」
うっとりとした目でソニアさんはチュピを眺めている。私の完璧な可愛さを持つチュピに夢中になっていた。気持ちが分かりすぎる。やっぱりこの人とは気が合うとしか・・・あ。
「お茶」
「お茶?ああ、そうですわね」
チュピが止まっているポットの脇にはお茶が注がれたカップが二客。ソニアさんのために準備したけど忘れていた。どうしよう。
「喉が渇いていますので、頂いてもよろしいですか?」
「え、ああ、はい!冷めてしまいましたが一緒に飲みましょう!」
気遣いに感謝をしながらカップを手に取った。笑い合ってお茶を飲む私達。チュピの可愛さに夢中になりながら、それでも回復魔法の理解を深めるために勉強を再開させた。
この一時に気持ちが安らぐ。穏やかな時間が流れて、平和だと錯覚してしまう・・・───。
───・・・時計のない部屋でも、窓を見れば大体の時間帯は分かる。今は夜。外は真っ暗で何も見えなくて、星が闇の中で瞬いているのが見える。
ソニアさんの授業を終えて、二人で昼食を食べた。彼女が立ち去ると、また魔法の勉強をした。そして、この部屋で夕食を一人で食べた。
お父様は王城に出向いてるからいない。お兄様も職務で屋敷にはいない。屋敷には私とソニアさんと六人の使用人だけで、警護として魔法使いが周囲に控えてる。実力者不在の屋敷はちょっとした警戒状態になっているらしい。一箇所に人が纏まらないように指示を受けている。
そうメイドさんに言われて、静かに息を潜めるように過ごしてた。
お風呂に入った私は、クシで髪を梳かしながらテーブルの上を眺める。積み上げられた教科書。人体の図鑑に、解剖図。この全てに目を通した。解剖図はグロテスク過ぎたけど、回復魔法を使うには重要だから見ないといけない。頑張って体の構造を覚える私を誰か、トーマに褒めてほしい。
教科書類の手前に置いたカップの持ち手にチュピが留まっている。目を瞑っているから眠っているみたい。ゆらゆらとふっくらした体が動いている。この子の可愛らしさをトーマにも見せたい。
彼はまだ帰ってこない。時間は深夜になろうとしているのに、持ち家から戻ってきてくれない。
いくら護衛だからって、いつも一緒にいるわけじゃないとは分かる。相手も人間だから、お休みがほしいと思うって分かっている。
でも、トーマは私といつも一緒にいたいと言う人で、私も彼の側にいたいと思っていて、つまり凄く寂しい。何かあったのか心配してしまう。不安と心細さで胸が張り裂けそうだった。
(探しに行きたいけど)
アサシンだから家なんて隠されている。場所なんて分からない。何より、私は屋敷から出ることを禁じられているから探すことすらできない。
(トーマ・・・)
一日くらい離れているだけなのに、これほど想ってしまうなんて。やっぱり彼が好きなんだって自覚しちゃう。
(会いたい、今すぐに・・・屋敷の中なら大丈夫だよね。トーマがいないと部屋から出ちゃいけないけど、お兄様やお父様に付いている護衛のアサシンが警備に加わっているはず。お願いして)
座っていたソファから立ち上がれば、着ている白いネグリジェの裾がストンと落ちる。その感覚を得ながら、私はドアに顔を向けた。
その瞬間にドアがノックされる。響く音は、いつもより力強い。男の人がノックしている。トーマが帰ってきたのかも!
「リスベット、入るぞ」
喜んだのは一秒もなかった。
声の主はお兄様。職務から戻ってきたお兄様が、私を訪問してきた。
(トーマじゃなかった・・・)
落胆しながらも返事をする。
お兄様は躊躇いなくドアを開くと、スマートな所作で締めて私へと足を進めた。
手に何冊か本を持っていて無表情、いや、少し感情がある。不快そうに眉を寄せて、私を見ずに辺りを見渡した。
「トーマはどうした?」
お兄様はトーマに用事があったみたい。私に顔を戻すと、眉の皺を深くする。不機嫌だと表す顔が怖くてそむけたかったけど、頑張って耐えた。
「今朝方、所用があると一時的に帰宅しました。まだ戻ってきていません」
ひえっ!どんどん顔が険しくなっていく!何があったの?トーマが何かしたの?凄く怖いから逃げ出したい!
お兄様は暫く私を睨み付けたけど、溜め息をすることで表情を変えた。怒りはないと無表情に努めている。そう思うのは、眉がぴくぴく動いてるから。
爆発しそうな怒りを抑えているんだろう・・・トーマ、もう帰ってきて。この人の不機嫌さに当てられたせいで泣きそう。
「あ、あの」
「・・・お前は座れ。話したいことがある」
「はい」
素直に従うしかない。
私はソファに座り直すと、その脇で立ち尽くすお兄様を見上げた。




