15
風が体を凪ぐ。草地の中にいるから緑の匂いがして、近くの海から潮の匂いも漂ってくる。窓の少なかった砦の中のどんよりとした空気と違って、ひんやりと冷やされた空気はさわやか。吸い込むのは気持ちいい。
でも、ずっと走ってるから苦しさが勝る。裸足のままだから足だって痛い。ズキズキ痛むから皮膚が破けていると思う。立ち止まって確認した方がいいかもしれないけど、そんな時間も対処する術もないから無意味。
早くセルジュ王子のいる砦から離れたくて、捕まりたくなくて、痛む足は止まらない。心臓も肺も痛い。全身が苦しいって言ってる。ああ、どうしてこんなことに・・・悔やんでも、私が全部悪いわけじゃないからどうにもできない。
走って、走って、風が止んだら止まって、また風が吹いて背の高い草が揺れると走り出す。草地の中にいる私の動きを、王子やその兵士達にバレないように走る。
そんなことを繰り返して進んだら砦からは離れられた。王子の叫び声は聞こえなくなったし、後ろを振り返ってみれば、砦は拳大くらいのかなり小さなサイズになっていた。これくらい離れれば、足を止めても・・・誰かいる!
咄嗟に身を屈めて動きを止めて、息を潜ませる。身につけている「隠匿のマント」の効力を信じれば、誰も私がいることを気付かない。
「いました?」
「いや、見つからない」
草の上から人の頭が二つひょっこり出ていた。一人は鉄の兜を被った男。もう一人は淡い色の髪をした、暗くてよく分からないけどピンク色の髪の女の子。たぶん、こんなところにいるから王子の配下だと思う。
見つからないように、苦しさを紛らわすために小さく息を吐いた。
「反対側は海に面した崖だ。この夜の暗さがあっても危険だと分かる。そちらには行かないはずだ」
「温室育ちのお嬢様って聞いてますよ?土地勘もないから訳も分からず進んで落ちたりしてません?」
「滅多なことを言うな、王子に聞かれでもしたら処刑されるぞ」
ああ、やっぱりセルジュ王子の配下だった。砦から逃げ出した私を探している。きっと、この人達だけじゃなく砦に詰めていた全員が探している。
人の気配に注意を払って進まないと。
「あーもう!だから嫌だったんですよー!あの王子に付いていくのはー!」
女の子が文句を言うと、兜の男は女の子に手を伸ばした。草の上まで手が出ては下がりを繰り返しているから、多分宥めるために肩を叩いている。
「文句を言うのはあとだ。お嬢様が見つかったらすぐに帰れるからな。さあ、探知してみてくれ。次こそ見つかるかもしれん」
「お名前はリスベット様でしたっけ?さっきから定期的にリスベット様の魔力を探知してますけどね、全く引っかからないんですよ。結界内にはいないんじゃないですか?」
「ものの数分で結界の外まで走り去る体力はしていないと聞いている。まだこの近くにいるはずだ」
「ん〜・・・じゃあ、姿を消すマジックアイテムを持ってるんですよね?それの効果によっては魔力探知でも見つかりませんよ」
女の子は魔法使いらしい。もしかしたら、結界を設置した魔法使いも彼女かもしれない。
私のマントのことも、王子から聞いたみたいだからどんなものか想像できている。
「王子は姿を消すとか簡単に説明してくれちゃってましたが、消すっていう効果は二通りです。『透明』か『隠匿』。透明なら姿が消えているだけなんで気配も魔力も探知できますけど、隠匿は存在自体が消えているので探知できません。だから、当人がボロを出さない限りは見つかりませーん」
このマントの凄さがよく分かった。絶対に手放せない。ここから逃げたあとも大切にしないと!
「簡単に言ってくれるな」
兜の男はお手上げだと顔に手を当てて溜め息を漏らした。女の子はそっぽを向いて、よりにもよって私の方を見てツンとした表情を浮かべている。
緊張して動きそうになるから、こっちに顔を向けないでほしい。
「街道に続く道は大多数の兵士が封鎖した。サバイバルなどしたことがないお嬢様だ。人の手が入っている道を見つけて、そちらに向かってくれればいいが・・・」
「素直に行ってくれますかね?王子が怖くて逃げちゃったんでしょ?ああ、でも世間知らずのお嬢様だから兵士の動きなんて分からないし、安心感から道を選びそうではありますかー」
二人は離れていく。屈む私からは頭も見えなくなった・・・緊張した。でも、いい情報を知れた。道には近づいちゃ駄目。兵士達の目に留まれば、このマントがあっても捕まってしまう。
「・・・ふぅ」
深呼吸をして、気を引き締める。周りに注意を向けてみる。
私の背後から風と共に漂ってくる水のマナ。さっきの二人の会話からも分かったけど、後ろは海に面した崖だと教えてくれている。そっちには行かない。このまま二人組が向かった先に向かえば、たぶん道がある。行けないのは分かってるけど、街道と繋がってるらしい。
街道って、たぶんトライアの街のに続く道。この近くにある街はトライアしかない。
(トライアにさえ着いてしまえば、王子の追手だって振り切れる)
薄いワンピースにマントだけを羽織った見窄らしい姿ではあるけど、街の中にある憲兵の駐在所に行けば、きっと助けてくれる。私がリスベット・グランとは分からなくても、訴えれば連絡はしてくれると思う。
想定しかできないけど、頼れるのはそこしかない。だから進まないと。せめてトライアの街に辿り着かないと何も出来ない。
(あとは伝書鳩頼みだけど・・・見込みはまだ薄い)
飛ばしたのは一度だけだし、この状況だから希望は持てない。とにかく人の生活圏に入れば、何かしらの手段はある。それを希望にして、草地から頭が出ないように上体を屈ませながら移動した。漂ってくる水のマナが薄れる方に。
トライアの街は、海から反対側の北へ真っ直ぐ進めばある。勿論、こんな場所からは初めて行くから確かじゃない。でも、ゲームで見た地図を思い出せば、本当に真っ直ぐだった。海から北に真っ直ぐ進んで、山に挟まれた地方の街。だから、このまま草地の中を進んで、道に出ないようにしよう。
・・・あの近付いてくる暗い影は山?多分、そう・・・そうだ、木のマナと土のマナを濃く感じる。鬱蒼とした木々の立ち並ぶ山。このまま進めば、山の中に入るけど。
(獣だけじゃなく魔獣だっている。夜の山林に入れば危険だと分かるけど、道に出たら即効ゲームオーバーだし)
この辺りにいる人間は全員敵。自然だけは私の味方。自然に身を預ければ、敵には見つからない。
「・・・」
決心して森の中に足を踏み入れた。屈んでいた体も正して走り出し、後ろに顔を向ける。小さな明かりが見えた。松明か、照明のマジックアイテムのどちらか。それが見えなくなるまで離れようと、前に向き直って走り続ける。
足の裏が石やら木の根を踏んで痛い。でも、痛かったのはその前から。雑草がむき出しのふくらはぎを撫でて痒いけど我慢する。小さな背丈の木の枝が体を掠める。構わない。大木が進路の邪魔をするから横にズレて進む。冷たい空気は呼吸をするたびに熱くなった体内を冷やしてくれるけど、走り続けることですぐに熱に押し負ける。
ああ、本当に苦しいし、体中が痛い。いつになったらこの苦しみから開放されるんだろう。早く、トライアの街に着かないのかな?その前にトライアの街はこっちで合ってる?
「・・・はぁっ、はぁ・・・」
休憩も兼ねて立ち止まった。足の痛みが強くなるけど、堪えて周りを見渡す。
周りは暗い森の中。目が闇に慣れているから木々と岩の影、地面の凹凸は確認できるけど、本当にただの森。漂って存在しているのは木と土のマナ。草地で無数にあった風のマナも僅かで、深い森の中と理解させられる。
ただ、左側が傾斜になっているから、そっちに行くと山登りが始まるとは分かった。傾斜の方には行っちゃ駄目。
「トライアは山と山の間にあるから、傾斜のない方に行けば・・・でも、行き過ぎると街道に出て、王子に見つかっちゃうかもしれない」
追手さえいなければ森の中を進まなくてもいいのに!どうして、
「・・・!」
何かの気配がした。緊張したせいで地面を踏み締める音も聞こえる。何かが私の近くにいる。もしかして、追手が側まで来ていた?
ゆっくり頭を動かして後ろを見てみた。見た瞬間、黒いものがいて、飛びかかってきた!
「!!」
痛い!胸に当たって押し倒された!打ち付けた後頭部が痛いし、背中も痛い。でも、目の前にあるもののせいで動けない。
口も閉じれないから、喉の奥で息を止める。
黒い獣、多分オオカミタイプの魔獣だと思う。爛々と光る青い目に、ギザギザの歯からヨダレが垂れていて、血生臭い息が吹きかかってくる。
魔獣に押し倒された。胸の上に前足を乗せて留められている。爪が皮膚まで食い込んでいて痛いし、怖いし、動けば殺される。顔から食べられてしまう。動けない。
咄嗟に考えることができた。だから、この状況でも冷静にいられた。私は隠匿のマントを身に着けている。飛び掛かられたときは動いていたから気付かれたけど、動かなければ見失う。
現に、魔獣は輝く目を彷徨わせて、鼻を動かして私を探し始めた。倒したはずの獲物がいないことを不思議に思っている。
息ができないのは苦しいけど、息をすればもっと苦しむ。激痛を感じながら死ぬなんて酷すぎる。絶対にそんな死に方は嫌。二度と苦しみながら死にたくない。
(早く、いって・・・)
立ち去ることを願って、祈って、魔獣の顔を見続けた。
青く光る目が瞬きで閉じて、開いたあとで大きな鼻息。不可解だと思ってるかもしれないけど、犬のように鼻を鳴らした魔獣は私の上から退いた。土を踏みしめる音を立てながら、森の奥、斜面の方に向かっていく。
遠ざかっていく、いなくなる、息していいかな?いいよね・・・ああ、
「ふ・・・ぅ、うぅ・・・」
怖かった。食べられるかと思った。恐怖で圧迫された感情が、涙になって溢れていく。止まらなくて頬を伝っていく。冷たい。
どうして私がこんな酷い目に合わないといけないの?生まれ変わったときから平穏とは言えない日々だった。死ぬのを恐れて無能だって立ち回って、開放されたかと思ったら怖い王子に拐われて、強姦されそうになった。そこから逃げたら、これ。生きたまま食べられそうになった。
何も悪いことしてないのに。強いて言うなら、王子の性格をおかしくしてしまっただけ。それ以外は・・・いや、それだって私は悪くない。勝手にあの人が歪んだだけ。
「絶対、無事に、トライアに着いてやる」
感情的になってるから喉が震える。でも、これは決意だからしっかり言いたい。生き延びる。それだけを考えて生きてきた。だから、魔獣に襲われたって屈しない。怖くて立ち止まったままで、ただ自分がご飯になるのを待つとかしない!
勢いよく地面から起き上がった。涙を拭って辺りを見れば、魔獣の姿も気配もない。早くこの場所から離れて、街の近くに、
「あ、わぁっ!?」
歩いていたら足が滑って、坂を転がっていく。木の根が腕に、顔に当たりそう!庇ったら肩に何か刺さった。痛い!
「うっ!!」
地面から飛び出た岩に足が当たった。それで私の体の向きも変わって、頭から坂を滑って、
「あうっ!!」
硬い地面に叩きつけられた。頭は腕で抱えたからどこにもぶつからなかったけど、肩がズキズキと痛む。怪我をしたのかも・・・あれ、この地面、石畳だ。舗装されてる。
「街道まで、落ちたの?・・・あ」
全身が痛んでるけど、手を支えにして上半身を起き上がらせた。そうすれば、やっぱり私は街道にいた。森を縦断するように真っ直ぐとした街道の両端には、淡い光を宿す石碑が等間隔で置かれている。
この石碑の光は獣除けの効果があるマジックアイテムがはめ込まれていて、これが設置されているのは街の近く。街の近くだから、あの遠くに見える門は・・・。
「トライアの、街?」
また涙が出てきた。嬉しくて感情が高ぶったけど、周りが見えなくなるから手の甲で拭う。
獣除けの石碑の光が私の体にも当たっていて、どんな姿か浮かび上がらせている。泥と血で汚れたワンピースとマント。晒している肌の部分も擦過傷や小さく抉れた傷ばかり。汚くて見窄らしいって自分でも分かる。
「もうすぐで、安全な場所に・・・うっ、く・・・」
立ち上がったら足に痛みが走った。ズキズキして、ドクドクと血管が脈打ってる。足の裏が一番痛い。
「でも、進む・・・もうすぐトライアに着く」
痛みのせいでゆっくりとしか動けないけど、真っ直ぐに街道を進んだ。転げ落ちたときに受けた腕の傷も痛い。胸の辺りも魔獣の爪で傷付いたから痛い。全部が痛い。でも進む。
すごく遠く感じた。全然辿り着かないと思った。早くしないと王子がやってくるかもしれないって焦った。
それでも歩くことを止めなかったから、トライアの街の門は徐々に近付いてきてきて、あと少しで門の前。守っている門番の姿も見えてきた。
(何か、おかしい)
人の姿が確認できる距離まで来たから分かった。門番の数が多すぎる。いくら魔獣の徘徊する山林の合間にあるからって、一つの門を十人くらいで守るのは過剰じゃない?なんか、ピリピリしているし・・・門の奥から住人も覗き込んでる。
何かを恐れてる?そんな感じはするけど、もう体中が痛いから躊躇ってられない。早く門に、もう少しで・・・あ、門番の一人が私に気が付いた。こっちに来る。
「トライアの住人か?」
怪しむように顔を顰めている。だから、怪しまれちゃいけない。
「獣に襲われて逃げてきました。襲われたときに酷い怪我をしているので、街の治療所に行きたいのです」
セルジュ王子のことは伏せた。皆、王子の本性は知らない。綺麗な見た目と品行方正に装った性格に、剣も魔法も才能があるから国民に愛されている。下手に訴えたら、門番の私に対する印象が最悪になる。真実でも、この場を乗り切るためには伏せた方がいい。
そう思ったけど、門番の兵士の顔は険しいまま。私の頭から足先までを舐めるように視線を這わせると、後ろにいる兵士達に声をかけた。
「こんな夜間に徘徊している女なんかいるもんかね?」
「何だ?随分と薄汚い女がいるな」
「獣に襲われて逃げてきたらしい。怪我の治療をしたいからトライアに入れろだとよ」
「逃げてきた?怪しいなぁ?」
何でそんなに怪しむの?
私の姿が汚いとか弁解の余地はないけど、怪我もしているんだから信じてほしいのに!
「あ、怪しいものではありません!海の方を散策していたら獣に襲われたのです!お願いします!街に入れてください!」
頭を下げるしかなかった。変わらない痛みと焦りで、早く街の中に入りたかったから。
足音が近付く。視界の端に鉄の板が縫い付けられた革靴。兵士の足だと思って顔を上げれば、長身の髭が生えた兵士に覗き込まれていた。
最初、私に気付いた兵士とは違う人だけど・・・何?どうして驚いた顔をするの?
「あ、あの」
「衛士を呼べ」
私の声を遮って、髭の兵士は後ろに振り返った。背後にいる兵士達に声をかけて、衛士を呼ばせる・・・衛士?貴族や王族の直属の兵だけど、このトライアは田舎の街だから貴人はいないはず。あったとしても、別荘くらいじゃない?
立ち止まってしまっていたら、兵士に呼ばれた鎧の雰囲気が違う兵士が門の奥から現れた。この街の兵士とは格が違うっていう豪華な装飾の付いた・・・あの胸の紋章は、王家の!?王家の衛士がなんでトライアに!?
嫌な予感がする。この衛士も迫力があるから気圧される。
逃げたい、でも、トライアはこの人の後ろにあるから、この人をどうにかしないと・・・どうやって?話して分かる相手なの?
「薄汚い浮浪者のような女がトライアの立ち入り許可を得たいと聞いたが、すまない。怪しい人物は拘留することになっている」
衛士が近付いてくる。私の話なんて聞いてくれない。ただ捕まえようとしている。
逃げた方がいい。でも、顔をそらした瞬間に捕まってしまう。鍛えられた衛士に私が勝てるわけがない。どうしよう!
後ろに下がれば、衛士は二歩も詰め寄ってきた。手を伸ばされたら、私のことなんて簡単に捕まえられる。
「あの、私、怪しい人間じゃ」
「ご安心を、リスベット様。セルジュ王子からお話を伺っております。あなたがこちらに来られたら、保護するようにと指示を受けているのです」
小さな声。周りの兵士にも聞こえない・・・違う、兵士達も知っている。さっきの怪しんだ様子もなく、私に近付いてくる。私がリスベットだって分かったから。
最悪。王子の手がトライアまで回っていた。いや、よく考えれば当然。あの砦の近くにはトライアの街しかない。私が逃げるとしたらここしかない。だから、当然で、私は逃げられない。やだ、嫌だ!誰か、
「誰か、誰か助けてください!私は怪しいものではないのです!ただ、怪我をして、逃げて、だから、助けて!!」
誰でもいい。衛士でも、兵士でも、門から覗き込んでる住人の誰でもいいから助けてほしい。私の声が届いて、王子から逃してくれるなら誰でもいいの!私を助けて!!
衛士の号令で兵士達も加わって私を追い詰めてくる。逃げたいから後退るけど、背中が木に当たる。背後は暗い森。前には取り囲む怖い人達。
「やだ、おねがい・・・助けて・・・」
喉が震えて、涙が浮かんでくる。
助けなんてないって分かってるから、理解しちゃったから、もうどうにもできない。
「リスベット様に触れるな。高貴な方だ、触れればセルジュ王子の怒りを買う」
「じゃあ、どう保護をするんです?」
「さっさと捕まえて駐在所に連れて行った方がお嬢様も安全だと思いますぜ」
「セルジュ王子がいらっしゃるまで待て。それまではリスベット様が逃げないようにしろ」
ああ、倒れそう。足に力が入らない。もう無理。
可愛い女の子が酷い目に合うのは可哀想で可愛い。




