4-5 甘美なる忘却
「幻覚よけどころか、折角護符まで無効にしたのに。勇者と名乗るだけあって幻術への耐性は大したものね。褒めてあげましょう」
そう言って丸腰の一人が手を叩いた。
「嬉しい?」
そう言って彼女は小首を傾げるのだ。
「ふざけるな。きさま魔女だな」
「まぁ見た通りよね。もう少し気の利いた問いかけをして頂きたかったわ」
話す魔女を背に守るように、傍らの魔女が湾曲した剣を構え、槍を携える魔女もまたジワリと身構える素振りがあった。
会話をしている魔女が二人の守るべき者らしい。
「勇者アリアだ。名を聞こう」
「あら、教える義務って在るのかしら・・・・ん~、でもまぁそうね。お互いに名乗り合うというのは戦場の礼儀というものですものね」
仮面を被っているので表情は分らなかった。
だが、確かに微笑んでいるという確証はあった。
肚の底で燃える感情に薪をくべる作用があった。
「魔女エラ」
「魔女衆七人の一人か」
「如何にも」
柔らかな声と、仮面の奥の瞳が妖しく緩むのが見えた。
そしてアリアが宿地の踏み込みと共に、剣先を突き立てたのはほぼ同時であった。
湾曲した剣が勇者の剣先を弾く。
「エラさま。お下がりを」
若い女の声だった。
「そうね、お言葉に甘えさせてもらうわ」
「待てっ」
後退る魔女へ放つ制止の声に、「待つわけ無いでしょう」と小莫迦にした返事があった。
そして見ている目の前で、七人衆の一人は自分の影の中に沈み込んでゆくのである。
逃して為るかと更に踏み込もうとするのだが、湾曲した剣と研ぎ澄まされた槍とに行く手を阻まれ、近寄ることすらままならないのだ。
「あなた達も適当な所でお引きなさいね。それに勇者さん、わたし達と戯れるのも程ほどにした方がよろしくなくて?急げばまだ何人かは助かるかも知れないわ」
彼女の姿が見えなくなるのと、その言葉が終わるのはほぼ同時だった。
言われて初めてはっとする。
目線だけで壮年剣士の姿を探した。
視界の端に倒れている人影が見え、小さく息を呑む。
「あっ」
視線を離したのは一瞬だった。
だがそのほんの刹那に、残った二人分の魔女装束のも者も己の影の中に沈み込んでゆくのである。
咄嗟に踏み込んで剣を振るったのだが、ただ虚空を切ったに過ぎなかった。
そして歯ぎしりをし、直ぐさま倒れ伏している壮年剣士に駆け寄ったのである。
「エラさま。次は何処へ」
「完全に警戒されたわね。勇者がやって来るのが随分と早かったもの。でも割と時間を稼ぐことは出来たのだし、そろそろ潮時よね」
「勇者と真っ向から当たるのは危険ですが、主要な街道は此処だけでは在りません。タッフェンやケルヘス峡谷の分岐点なら重要度も高く、距離も離れています。勇者が駆けつけるまでの間、兵糧を焼き続けるのは難しい話ではありません」
「わたしもそう思います。エルフの術士は程度が低いうえ数も多くない。護衛についたとて然したる脅威ではないでしょう」
「芋虫一匹が牛の飼い葉を横獲るようなものよ。連中にとって大した被害じゃ無いわ。それにコチラは一人欠けるだけで、連中の一部隊を喪失するのと同じ程度の被害になる。もう止め止め、割に合わないわ。潜んでいる夜襲部隊の連中にも撤収の合図を出しましょう」
「しかし、手をこまねいてこのまま籠城戦となれば我らは・・・・」
「大事なのは勝つことではなくて生き延びるコト。そうは思わなくて?」
「おっしゃることは分りますが」
「まぁ、わたしにも考えがあります。上手くいけば連中の顔に残飯ぶちまけられるし、魔族も助かる道が開ける」
「策が在るのですね」
「流石です」
「あなた達はまだ若いわ。わたしよりも先に死んだら承知しないからね」
歳を経た魔女は、仮面越しに柔らかく笑った。
火が戦場の一角を舐めていた。
遠目にも動く者の姿は見えなかった。
無数の荷馬車が燃えており、火炎の中に一人佇む人影があった。
裾の長い独特のローブに身を包んでいる。
つばの大きな三角に尖った帽子を被っている所を見ると、魔法使いに違いない。
呆然としているのか、それとも誰かを待っているのか。
馬を急かし近付く内に、それが魔族の意匠であると気が付いた。
騎士パージガルは既に三十路過ぎ。
数多の戦場を経験し、幾つもの死線を乗り越えてきた歴戦の猛者であった。
気力体力とも充実し、彼は騎士として絶頂期にあると言って良かった。
だがそんな男がいま、一人の女を前に足がすくんで動けずに居る。
魔法使いの装束の足元には、幾人もの魔族の兵が倒れ伏していた。
身動きする者は皆無。
全身に無数の矢が突き刺さり、まるで針山のような有様であった。
周囲に人族の装備を着けた遺体はなかった。
剣を交えることも叶わないまま、多数の弓兵に遠巻きから一方的に射殺されたのだ。
炎の照り返しの中に見える横顔は老婆の仮面で、表情を伺うことは叶わない。
だが魔法使いの装束の者がゆっくりと向き直ると、仮面の暗い眼窩の奥に在る瞳から射貫かれたような気分になった。
「随分と殺してくれたものね」
聞えて来た声は艶のある実に落ち着いたものだった。
だがその声音に乗った感情は、決して容易く聞き流せる種類のものではない。
そして初めて壮年の騎士は、この者が女であるという事に気が付いたのだ。
パージガルは勇者先鋒隊の後詰めとして進軍していたのだが、後方からの援護要請を受け一隊を率い取って返すことになった。
魔族の小部隊に後方を分断され、応戦の最中なのだという。
だが駆けつけてみればこの有様だったのである。
魔女っ。
全身が総毛立ち背中に冷たいものが流れた。
この魔族の死体の山。
恐らく我らが助けに来る前に、強襲してきた連中を弓矢で撃退したのだろう。
それは良い。
だがその弓兵達は何処に居る?
何故この一人立つ魔女に矢を放たない?
疑念を抱く壮年騎士の目の前で変化が在った。
仮面を着けた魔女装束の人影が突然に増えたのだ。
魔女の足元に黒い染みが浮かんだかと思った途端、あっという間に地面から湧き出て来たのである。
その手には湾曲した剣が握られていた。
濡れていて、軽く振った途端地面に飛沫が散った。
「始末終えました」
「ご苦労様」
人影は二つともは淡々とした口調であった。
紛うこと無く魔族の言葉であった。
自分は話すことができない。
だが簡単な会話なら聞き取るくらいはできた。
「この連中を呼ぶ必要があったのですか?」
「此処の弓兵だけでは対価として安すぎるでしょう」
二人の会話を聞き及び、おびき出されたのだと知って頭に血が昇ったが、何故か身体が動かなかった。
威圧されて萎縮しているのか。
何たること、このリンスコンティ家の名を継ぐ者が!
己を叱咤し、激昂を糧に自分自身を奮い起こした。
皆の者、何をしている。
立ち竦むな。
この者は魔女だぞ、今すぐ討て!
弓兵は何をしているっ。
声を枯らして叫んだ。
剣を振りかざし、部下に指示を出した。
だが声が出なかった。
剣すら抜いていなかった。
声どころか指一本動かず、足すら微動だにしなかった。
まるで凍えた身体を鎖でがんじがらめに縛り固められたかのようで、馬上で硬直してしまっているのである。
魔眼、金縛りかっ。
臍を噛む思いだった。
何故にこの者を見つけた時にそれと気付かなかったのか。
目を反らし、部下に警告を促さなかったのかと己の迂闊さに歯ぎしりした。
このままでくの坊のように突っ立ったまま、この忌まわしい魔女の毒牙にかかって果てるのか。
無念さと口惜しさに憤怒が込み上げてきた。
だがやはり、我が身はピクリと動かないのである。
だが彼は大いなる勘違いをしていた。
己の感情が未だ自由で在るのだから、嘆き悲しむ幸福は残って居るのだということを。
そして本物の支配というものを知らないで居る、初心なトールマンであった。
二人立つ足元に新たな黒い染みが浮かび、それもまた同じ魔女装束の人影となった。
その人影は槍を携えていて、丸腰の魔女に軽く頭を垂れて告げた。
「錯覚の結界を張り終えました。ですがもって四半刻ほどでしょう。周囲が騒々しいので効果の程も薄いかと」
「充分です。では我らの同族同胞の死を悼み、送り歌を奏でましょう。メ・ルクエル・ケビルの鎮魂歌二番。序章よりフルコーラスで。二人とも唱和を」
「はっ」
「かしこまりました」
三つの老婆の仮面の奥から美しい音の歌声が響き始めた。
聞く者の耳を、魂を、そして自我すらをも震わせる妖しくも艶めかしい声音であった。
空気が震えた。
聞く者に歓喜を呼び起こした。
音が柔らかな絹のように五体を包み込んだ。
安堵と暖かさに満ちた心地よさ。
この得も知れぬ至福。
その場に立ち竦む全ての騎兵が、忘我の境地へと引きずり込まれ、ゆっくりと全てが塗り替えられてゆく。
三つの麗しき美声が複雑に絡み合い、耳の奥底をくすぐり誘惑し、男共の脳髄の芯を蕩かしてゆくのだ。
拒もうとする意思すらも失せる。
此の世の苦痛苦悶災厄全てが霧散する。
一度味わえば二度と忘れることの叶わぬ甘美なる忘却。
正に神の福音。




