2-1 従僕などではなく
三千本桜家に一人家族が増えて、次の日のことであった。
「さあ、先ずはこの世界のことを知りましょうぉ」
三千本桜鰓子は軽薄極まりない口調で、そんな口上を述べた。
彼女の前には椅子に座った三人の人物が居た。
リビングのテーブルは片付けられていて、がらんと広くなった広間にはホワイトボードとボードマーカーが用意されていた。
その脇に、ニコニコと満面の笑みを浮かべた魔女を自称する妙齢の女性が立って居る。
「昨日は魔王ちゃんが中座していたのでキチンと説明しきれませんでした。なので二日に渡っての説明会になってしまったのはごめんなさいね。夜勤明けで辛いでしょうけれど小一時間ほどで終わるから我慢してね」
そんなコトを宣っていた。
彩花は小首を捻っていた。
いったいホワイトボードなんて何処から調達したのだろう。
この家には無かった筈だ。
公介もまた少なからぬ疑念に首を捻っていた。
何故此処に呼ばれたのだろう。
俺はしがないバイトに過ぎないというのに。
そしてその場で、最も納得がいかぬと憤慨しているのは、魔王さまと呼ばれる一人の少女であった。
Tシャツにカットジーンズというラフな姿である。
鰓子が見繕いあてがったものだった。
だがどうにも生足を剥き出しにしている様が気に入らないらしい。
「下品」だの「娼婦のよう」だのブツブツと不平を漏らしていた。
着る物は確かに必要だ。
コレが異界の慣習というのなら耐えるのはやぶさかでは無い。
だが最大の不満は別にある。
故に少女は歯ぎしりをするのだ。
「魔女よ。わしはいつまでそなたの侮辱に耐えねばならぬのか」
「とんでもございません。昨日も申し上げましたが、わたくしは心底魔王さまを尊敬いたしております」
「歯の浮く台詞をヌケヌケと。白々しいわ、この左頬の痣はまだ癒えてはおらぬぞ」
「現地の言葉を操れた方が便利でございましょう。それにこの世界の事を知りたいおっしゃったではありませんか。なのでこうして説明会を開催いたしているのでございます」
「その事ではないっ」
「では何なのかしら、魔王ちゃん」
「キサマ分っていて言うておろう。ソレじゃ、ソレ!ちゃん付けは止めよと昨日から何万遍繰り返しておるかっ。そもそも魔王は階位の呼称であってわしの名前ですらないわ」
「いちいち激昂するものではありませんよ。器を軽く見られてしまいます。あ、いっそのことマオちゃんと、この地の名前に直すのはどうでしょう。現地呼称というヤツです」
ぽんと手を叩いた彼女は、「ちなみにこういう字です」と言ってホワイトボードに「真魚」と書いた。
「どうでしょう。生きが良くてピチピチとしたニュアンスがありますよ。若くてしなやかな大人の女性といった感触が伝わって来るでしょう」
「そ、そうなのか?」
「そう思いますよね、公介くん」
いきなり話を振られて少年は即答出来なかった。だが「どうでしょう」と追撃されて「そうですね」と辛うじて返事をした。
「か、可愛い名前だと思いますよ」
「ナイスです公介くん。ほら、彼からもいいねが来ました」
魔女がサムズアップし、少女は傍らの少年に振り返って尋ねるのである。
「真か?」
怪訝そうで、そして少しばかりの期待が込められた表情だった。
公介は引きつった顔で一瞬戸惑い、しかし「うん」と返事をした。
そして少女は「そうか」と小さく呟くのである。
「ま、まぁ、従僕が納得するなら許可しよう。異邦において身分や真名を軽々に晒すは危険であるからな」
「では、けってーい。今日この瞬間から魔王ちゃんは真魚ちゃんです。彩花ちゃんもそのつもりでヨロシク。ですが魔王さま」
「なんじゃ」
「公介くんは従僕などではなく、対等なあなたの知人であります。ゆめゆめお忘れ無きよう」
「何をたわけたことを。此奴はわしの聖痕を刻まれた存在。生殺与奪の権限はこのわしの手に」
「対等なのです。大事な事なので二回言いました。もう忘れませんよね?」
鰓子という名の妙齢の女性は満面の笑みを浮かべた。
だがその瞳はやはりまったく笑っていなかった。
射竦める眼光が尋常ではない。
少女の幼くて細い喉が固唾を嚥下する。
彼女が素直に頷いたのは言うまでもなかった。
その後は普通に鰓子の講義が続いた。
この土地の名前から始まり人々の有り様からインフラ各種、そして慣習と日々の営みや町の大雑把な概要エトセトラエトセトラ。
それは昨日に引き続いて現代日本の一般的な社会常識から始まり、それに関連するように異世界の慣習や当時の状況を子細に語り始めるのである。
「あの、鰓子さん。俺や彩花さんがそれを知る必要あります?」
そう言うと「真魚ちゃんが知らないコトを知っておいて欲しい」という返答があった。
「本当はあたし達の事情にあなた達を巻き込みたくなかった。だけれどもね、何処かの阿呆が公介くんに余計な印を付けてしまったので、これから何か起きるかも知れません。何も起きないかも知れません。勿論、面倒事が起きないようにあたしも可能な限り努力します。
でもね、それはソレとして念の為に知っておいて欲しいのよ。事前知識が有ると無いとじゃ大違いだし」
その後に昨日のレクチャーを補填する説明を絵解きと共に加え(スマホによる撮影も可。というかむしろ推奨)、一通りの講釈を終えて公介は三千本桜邸を後にした。
彩花もまた、二人一緒に外で食事でもしてらっしゃいと鰓子に追い立てられた。
時間にしては四〇分程度だったろうか。
確かに一時間にも満たない時間だったが、若い二人は何だかなぁという気分が拭えなかった。
「今日明日はバイトお休みよね。ゆっくりしてらっしゃい。来週のシフトもヨロシクね」
見送る鰓子のにこやかな笑みに少年は何とも言えない顔で振り返り、彩花もまた居心地悪そうに頭をかいて路地の向こう側に消えていった。
「ざっくり双方納得させれば、取敢えずあの二人は用済みか。説明だけなら昨日のアレで充分であったろうに」
「彼にはなるだけこの家の門戸を潜っておいて欲しいものですから」
「ふん、回りくどいことを。この家の地下に某かを埋め込んでおるな?昨日わしの法術が成功したのもその為じゃろう」
「もうわたくしの中の魔力も心許なくなりました。可能な限り節約して置きたいのです」
「呪を仕込むのであるのなら、しばし虜囚にすれば良い」
「トールマンは基本的に魔法を操れません。才覚が在る者はほんの一握りです。徐々に慣らしておかないと。急いては害となりますが故に」
「ご苦労なことよ」
「世間体はキチンと守っておかないと、彼の居場所が無くなってしまいます。無理なく何気なく自然に、がベストでありますから」
当人に反感や違和感を抱かれないコトが肝要なのです、と語った。
「随分と心砕いておるな。余程あの二人が大事と見える。わしにだけ言いたいコトも有るのじゃろう?」
「ええ、色々と」
「昨日の話は何処まで信じて良い。まぁこの世界にはわしとそなたしか同族は居らぬ。嘘でたらめを言う必要もあるまいが、ぬか喜びなどしたくはないのじゃ」
「取敢えずお茶にしましょう。少々長いお話になりますので」
珈琲でよろしいでしょうかと問われたが、少女は「苦いので好かん」と答えたので紅茶を入れることになった。