8 お薬倉庫にいた目玉
ブリジッドは、血止めの小瓶と痛み止めの箱をしっかりと持って残りの棚を見て歩きました。でも、残念なことにブリジッドが読める文字はもうありませんでした。
ブリジッドが振り向くと、扉のない出入り口が見えました。そっと近づいて様子を伺うと、部屋の外には暗い廊下があるだけでした。
ブリジッドは息を大きく吐き出しました。それから床の上にペタンと座りました。まずはコオリオオカミに噛み付かれた肩の傷です。それほど深くは噛まれておりませんでしたので、腕は充分動きました。
ブリジッドは灰色のローブを脱ぎました。中に来ている服には血のシミがついておりました。のろのろと傷口を出しますと、歯形がうっすらと残っているではありませんか。ブリジッドは噛まれた時の怖さを思い出しました。
ブリジッドは涙をぐっとこらえると、脱いだローブのポケットに手を入れました。血止めを入れておいたところです。肩の咬み傷からは、まだ血が滲み出していたのです。ブリジッドは素焼きの小瓶を握りしめて、木の栓をキュポンと抜きました。
小瓶の中には強い匂いをたてる液体が入っておりました。ブリジッドは手のひらに少しだけ、中の液体を垂らしてみました。液体はドロリとしております。
(薄めて使うのかしら?)
レマニは旅する家族でしたから、血止めも行く先々で教わりました。生の葉っぱを揉んで使うもの、乾燥させて他のものと練り合わせるもの、煮出して煮詰めて、使うときには薄めるもの。本当に様々なのでした。
(ネバネバのやつを塗る場合もあるし)
ブリジッドは困ってしまいました。
ブリジッドは痛み止めを垂らした掌に鼻を近づけました。ツンと鼻につく匂いです。ブリジッドは顔を顰めました。
(せっかく血止めを手に入れたけど、使い方がわからないや)
薄めて使う強いお薬は、直に触るとヒリヒリすることがございます。けれども、今ブリジッドが匂いを嗅いでいるお薬は、手の皮を焼くようなことはございませんでした。
(色は焦茶で、匂い以外に変わったところは特にないな)
ブリジッドは、掌の血止めをしげしげと観察しました。
(これはこのまま傷口に落とすお薬かなあ)
そう思って、ブリジッドは掌を噛まれた肩に持ってゆこうといたしました。
(えっ?)
持ち上げた掌の中で、何かがギラリと光りました。白いような銀のような色でした。形はまるで目玉のようです。思わず手を下げると、赤茶色に広がる血止めの中から、銀色の目玉がギョロリと見上げて来たのです。
「ひぃっ!」
ブリジッドは手首を振りました。けれども、お薬は落ちません。手のひらにくっついたままでした。粘り気のある赤茶色の血止めのなかで、目玉はどこかバカにしたような光を帯びてブリジッドを見つめました。
なんだか不気味な目玉でしたが、ブリジッドは見つめ返してやりました。
「なによ。怖くなんかないんだから!紫色の魔物のほうが、よっぽど怖い眼をしていたものね」
ブリジッドは、コオリオオカミを率いていた血のような眼を思い出しました。温度のない、ぬらりとした眼でした。目に浮かべるだけでもゾッといたします。
その点目玉は、どこか愛嬌がありました。液体の中に目玉だけがあるのですが。
「それで、何の用なの?」
ブリジッドはフンと鼻を鳴らして言いました。目玉はいたずらそうな様子でギョロリギョロリと動くのでした。
「ふん、用がないなら引っ込んでてよ」
ブリジッドはピシャリと言いつけました。目玉は銀色に光って、困ったように俯きました。
ブリジッドは目玉を見下ろして、小さくため息をつきました。
「あんた、喋れないのね?」
銀色の目玉は、我が意を得たりと煌めきました。そして、頷くようにパチクリといたしました。瞼は一切ないのです。けれども液体の中でゴロンゴロンと角度を変えると、とても表情が豊かにみえるのでした。
「あんた、お薬に住んでるの?」
目玉はちょっと不満そうな表情を見せました。
「あら、違うのね」
ブリジッドはたいして興味がないようでした。
「まあいいや」
目玉は、ブリジッドを攻撃してくる様子がありません。そこでブリジッドは、とりあえず目玉は放っておくことにしたのです。
(血を止めるほうが大事だもの)
ブリジッドはそう考えました。そして、痛み止めを垂らした掌を傷口に乗せました。擦らないように、ふんわりとですよ。ブリジッドは、切り傷や擦り傷をギュッと押すと痛いことくらい、ちゃんと知っているのですからね。
肩から手を離すと、目玉は肩に移っていました。
「ぎゃっ、ちょっとやめてよね!」
ブリジッドは文句を言いました。
「肩に目玉があるなんて、気持ち悪い」
目玉は傷ついたような雰囲気を出しました。
「なあに?嫌なのはこっちなんだから」
ブリジッドはプンとほっぺたを膨らませました。
お昼までのブリジッドでしたならば、きっと泣き出していたことでしょう。けれどもブリジッドは、もう不気味な生き物なんか怖くはありませんでした。紫色の髪の毛をした小さな魔物や、恐ろしい氷の牙を持つコオリオオカミたちだって、へっちゃらなのです。
「ねえ、お目々。あんた、いったい全体どうしてあたしの肩にいることにしたの?」
ブリジッドは迷惑そうに聞きました。銀色の目玉は困ったようにキョロキョロしました。右を見て、しばらくすると左を見て、斜めを見たり、上を向いたり。目玉はちっとも落ち着きません。
「嫌なんだけど」
ブリジッドは、はっきりと言いました。
「どうしてもついて来たいなら、瓶の中に戻ってよ」
ブリジッドの提案を聞いて、目玉はギョッとしたようでした。いくぶん不平なようでした。
「瓶に閉じ込められてたの?」
ブリジッドは、ふと思いついて尋ねました。目玉は否定するように少し残った液体の中に沈みました。液体はほとんど残っていないのに、目玉は沈んでゆくのでした。
「違うのね」
ブリジッドは面倒くさそうに天井を見上げました。天井には真っ白な霜が一面にきらめいておりました。
「きれい」
ブリジッドはにっこりと笑いました。チラリと眼をやると、目玉も天井を見上げております。なんだか憧れているみたい。
「えいっ!」
ブリジッドは肩から目玉をもぎ取りました。目玉は声を持っておりません。ですからじっと黙っておりました。ブリジッドの小さな手で握ると、目玉は半分くらいはみ出しました。
「それっ」
ブリジッドは痛くない方の手で、銀色の目玉を思い切りほうり投げました。目玉はまっすぐ天井の霜に向かって飛んで行きました。
目玉は空中でくるりと回り、ブリジッドのほうを向きました。とても嬉しそうでした。少し涙ぐんでいるではありませんか。
「あら、うれしいの?」
ブリジッドの問いかけに、目玉は急に銀の粉を撒き散らしました。氷や雪ではありません。冷たくも温かくもない粉でした。
「ええっ?」
ブリジッドが戸惑いながら上を見ておりますと、目玉は一目散に霜の中へと突き進んで行ってしまいました。
ブリジッドは目玉の消えた天井の霜を、しばらくポカーンと見上げておりました。銀の粉はもう降って来ませんでした。
「なんだったの?」
ブリジッドは銀色の細い眉を寄せると、小さく首を振りました。それから床に置いてあった血止めの小瓶に、木の栓をきっちりとはめました。
「少しすればとまるかな?」
ブリジッドは呟きながらローブを着ました。灰色の布地に、銀色で雪の結晶が縫い取られている自慢のローブです。ブリジッドが雪と氷の魔法を初めて見せた時、お母さんが縫ってくれた大切なローブでした。数年は着られるように、肩と腰のところ、そして裾が折り畳んで縫い込まれてありました。
フードは2、3回折り返して留めてありました。袖も折り返して、ちょうどいい長さに縫ってあるのでした。ブリジッドたちくらいの子供たちは、日に日に大きくなるのです。レマニのお母さんたちは、子供たちの服が短くなると、すぐに丈を出してくださるのでした。
ブリジッドは、血止めの小瓶をもう一度ポケットに仕舞い込みました。またコオリオオカミたちに食いつかれるかもしれないかと思ったのです。それから、痛み止めの木箱を手に取りました。箱は、ブリジッドが指をいっぱいに広げたら、やっと上から下まで届くくらいの高さがありました。
形はゴロンとしておりました。ましかくですが、中程が少しだけ膨らんでおりました。陽気な楽師のおじさんみたいな姿です。色は陰気な灰茶色。煤けて蓋と身との継ぎ目が見えません。
「手が黒くなっちゃった」
蓋を開けようとして継ぎ目を探っているうちに、ブリジッドの可愛らしい手は真っ黒になってしまいました。
真っ黒な掌をパーにして眺めると、ブリジッドはケラケラと笑い出しました。肩や頭が揺れて、目玉が降らせた銀の粉が舞い立ちました。
「あら?そういえば」
ブリジッドは笑うのをやめて、目の前に舞うキラキラの粉にふうっと息を吹きかけました。
「痛いの、無くなっちゃったみたい」
痛み止めの箱は一向に開く気配がありません。ブリジッドの手は、傷口を触ったらばい菌が入りそうなくらいに汚れております。
「じゃあいま、痛み止めはいらないや」
ブリジッドはパッと立ち上がると、箱を大事そうに抱えて廊下に出てゆきました。薬のあった棚は、もう読めるものがないのですもの。この倉庫には、他に用はありませんでした。
ブリジッドのローブが、灰色の裾を波うたせました。ひだの間に残っていた銀色の粉が、雪の結晶を刺繍した銀糸と輝き交わします。白銀の粒が光ながら踊る様子を眺めておりますと、まるで晴れた雪の日の森にいるような気持ちがいたしました。
「ありがとう、お目々」
ブリジッドはお薬倉庫を出る前に、足を止めて振り返りました。天井一面の霜は、逆さまに生えた植物みたいです。目玉の姿はもう見えません。
(気まぐれでいたずらな魔物もいるのね)
目玉は、どう考えても普通の生き物ではありませんでした。でも、コオリオオカミや血色の眼をした怖い男の子とは違います。どこかユーモラスで、親しみやすい存在でした。
痛みがなくなったのは、銀の粉のおかげではないでしょうか。ブリジッドもそう考えたので、床に積もっていた銀の粉をかき集めました。もちろん、その前にはちゃんと手を濯ぎましたよ。ブリジッドはもういつだって、好きな時に雪と氷が出せるのですから。
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続きます