3 ブリザード
ブリジッドの周りには、今や小さな吹雪が渦巻いておりました。
「ブリジッド、吹雪を使えるようになったじゃないか。その吹雪で僕が仕留めたユキガモをこのほら穴まで持ってきておくれよ」
アンリはさも当然のことのように言いました。
「そんなの、無理よ」
ブリジッドは狼狽えました。
「無理なもんか。そんなに雪や氷が渦巻いているのに、なんで出来ないなんて思うんだよ?」
アンリは不思議そうに言いました。アンリには、思う通りに魔法が動いてくれないことが理解できませんでした。だってアンリは、まだ座ることすら出来ない赤ちゃんだった頃から、自在に炎を操っていたのですから。
「アンリのイジワル」
「イジワルなんかしてない」
「出来ないもん!うわぁぁん!」
ブリジッドが泣き出すと、長い銀髪が洞窟の中でぶわりと広がりました。ブリジッドを取り巻いていた吹雪は、細かい氷の粒に変化してゆきました。
「うわっ、ブリジッド、痛い!」
アンリは思わず眼を瞑りました。
「ブリジッド、落ち着け!」
「ブリジッド!」
様子を見ていた大人たちが、流石に声を上げて駆けつけます。ブリジッドのお母さんは、抱きしめようとして飛びつきました。
「ああっ」
けれども、お母さんの腕は虚しく空を掻くだけでした。激しい氷の竜巻がブリジッドをすっかり覆っていたのです。
「ブリジッドー!」
大人たちの叫びに薄目を開けたアンリは、ブリジッドを吹雪の夜へと運び去るブリザードを見ました。氷がぐるぐると回転して、冷たい柱を作っておりました。氷雪の渦巻きには、銀色の巻毛が混ざっておりました。まるでブリジッドの髪の毛までが雪の竜巻になったみたいに見えました。
灰色の空は凄みを増して、森の木々は黒々と繁っておりました。重たい雪雲の向こうに、お月様もお星様も、みんな隠れてしまいました。鳥の鳴き声も獣の吠える声も聞こえません。猛吹雪の中では流石に夜の狩人たちも、雪を逃れて何処かに隠れているのでしょう。
いつもはすぐ泣くブリジッドでしたが、吹雪に巻かれても泣きませんでした。叫び声すらあげませんでした。自分の魔法が漏れ出して吹き荒れるブリザードだからでしょうか?いいえ、きっと、何が起こったのかわからないうちに、自分の吹雪に連れ去られてしまったのにちがいありません。
「そんな」
アンリは呆然と立ち尽くしました。あまりのことに、頭が真っ白になってしまったのです。いくらアンリでも、ブリジッドが吹雪に乗って外に出かけたとは思いません。風に吹き飛ばされる木の葉のように頼りなく、ブリジッドは闇の中に消えてしまったのです。
半狂乱のお母さんが、ブリジッドを追って吹雪の中に飛び出そうとしました。
「やめろ!暴走に巻き込まれたら、お母さんも命が危ないぞ」
ブリジッドのお父さんは、冷静に言い聞かせました。
「なんで落ち着いてるの!」
お母さんが金切り声を上げました。
「落ち着かないと、助かる命も失ってしまうぞ!」
「なによ!ブリジッドはいなくなってもいいって言うの?」
「違う!闇雲に出て行っても、吹雪と魔物とブリジッドの暴走に巻き込まれてたおれるだけだ、って言ってるんだよ」
「2人とも、深呼吸でもしなさい」
夫婦の言い争いに、長老が割って入りました。
「まずは、何が出来るか考えよう」
「僕のせいだ」
長老の一声で静まり返った洞窟の壁に、アンリの呟きがこだましました。洞窟の中で、声は壁や天井にぶつかって奇妙に響き渡るのでした。
「違うよ、アンリ」
アンリのお父さんが、そっとアンリを抱きしめました。この時ばかりは、お父さんもアンリを叱りませんでした。
「僕がブリジッドを怒らせたから」
アンリは尚も自分を責めました。
「僕のせいで、ブリジッドの魔法は暴走しちゃったんだ」
アンリも、暴走のことは知っていました。オーギュストは時々、魔法をうまく使えずに辺り一面をお花だらけにしてしまいます。反対に周囲の木々を枯らしてしまう時もありました。普段はそれほど強くないオーギュストの魔法でしたが、扱い損なうとびっくりするほど困った影響が出てしまうのです。
「ブリジッドが暴走するなんて思わなかったんだ」
アンリは赤ん坊のころから、一度だって魔法の操作に失敗したことがありません。オーギュストの魔法が暴走するたびに、アンリは仲間外れになった気持ちがしました。
お父さんとお母さんは、いつでも暴走を止めようと必死でした。やがてオーギュストが落ち着くと、慰めたり励ましたりいたしました。それから、美味しいものを家族で食べるのでした。
そこにはアンリもいます。けれども、アンリは経験したことがないので、家族が暴走のことを話していても分かりません。誰も仲間はずれにはしません。それでも、アンリは独りぼっちでした。
暴走の怖さは小さいながらも分かりました。ですから、オーギュストの暴走に終わりが来ないのではないかと、いつも不安になりました。
「アンリ、心配するな。みんな通る道さ」
そんな時お父さんは、アンリを慰めてくれたものです。
「お父さんもお母さんも、みんなもついてるからね」
お母さんも言いました。
「そうやって、みんな自分の魔法をうまく扱えるようになるんだよ」
長老は優しい土色の瞳を細めてアンリの肩をぽんと叩きます。
「ぼく、暴走しない」
アンリはその度に口をへの字に曲げて、プイと背中を向けるのでした。
「ごめんなさい」
アンリは唇を震わせて泣き出すのをこらえていました。
「謝ることない」
お父さんが抱きしめました。
「暴走がいつ起こるかなんて、予想が出来ないんだから」
お母さんも手を握ってくれました。
「でも僕、ブリジッドが吹雪を纏えるようになったのかとおもっちゃったんだ」
長老がはっとして眼を見開きました。
「だから僕、ブリジッドに僕が仕留めたユキガモを運んでって言っちゃったんだ」
アンリは心底後悔していました。声が震えています。
「ブリジッドが出来ないって言うから、励ましたつもりだったんだ」
アンリの琥珀色に輝く瞳から、大粒の涙がぽろりと溢れ落ちました。アンリの言葉は本心でした。同い年のブリジッドがついに魔法を身に纏えるようになったと思ったのです。それはとても嬉しいことでした。
「嬉しかったんだ、僕」
アンリは鼻水と涙を垂らして俯きました。
自分がなんでもなく出来ることが、他の子供たちには難しい。練習する子供たちの中で、アンリはいつも不機嫌でした。みんなは魔法を操るコツや、暴走の怖さを楽しそうに話しあっているのです。アンリには解らない話です。
「自分ばっかり出来て、みんなに教えないなんて」
厳しい大人には叱られました。
「知らないよ!コツなんかないもん!」
アンリは寂しかったのです。けれども、誰1人としてアンリの気持ちをわかってはくれなかったのです。ですがアンリもまた、他の人たちの気持ちに寄り添うことが出来ませんでした。
この時までは。
「ブリジッド」
アンリは小さな手の甲で鼻水をキュッと吹きました。アンリは悟ったのです。自分たちは「違う」のだということを。そして、「魔法をうまく操れない」ことの恐ろしさを。
「ブリジッド、帰れるの?」
アンリは優しい長老に尋ねました。
「ほ」
長老は思わず驚きの声を漏らしました。アンリが暴走の怖さを理解したことは、思いがけないことだったのです。
「ブリジッドは雪と氷の魔法使いだからな。朝になったら帰ってくるさ」
長老はアンリの背中を優しく撫でました。
けれどもアンリは、誰かに見られていると感じました。強い思い、憎しみまでもが感じられるのでした。アンリが溢れる涙を拭って辺りを見回すと、ブリジッドのお母さんと目が合いました。ブリジッドと同じ、神秘的な青緑色の瞳です。
ブリジッドのお母さんは、黙ってアンリを睨みつけておりました。長老がアンリは悪くないと言ったので、責めることもできません。ブリジッドのお母さんにとっては、アンリはいじめっ子なのです。可愛い大事なブリジッドの魔法を暴走させた悪者でした。
アンリはその気持ちを感じ取ると、無言で外へ飛び出そうとしました。炎を纏い、熱と灯りで雪夜を照らし、ブリジッドを追いかけるつもりだったのです。
「アンリ、だめだ」
「朝まで待つんだ」
「ブリジッドは氷雪の魔法使いだから、大丈夫だ」
大人たちが口々に言いました。炎で傷つかないレマニたちがみんなでアンリを止めました。アンリのお父さんは強く抱き留めました。オーギュストは行手を阻むように両手を大きく広げて、アンリの前に立ちはだかりました。
アンリはもう、人の心がわかるようになったのです。お父さんたちが怖い顔をしているのは、アンリを心配しているからだということが、ちゃんと伝わりました。
アンリは、お父さんとお兄さんから大切にされているのだ、と感じました。
「父ちゃん、兄ちゃん」
アンリは急に、胸のつかえが取れたような心地が致しました。物心ついてからずっとずっと、つかえていた何かが、突然なくなった気がしたのです。
悲しくて、不満で、どこか冷たい岩の上で、たったひとり取り残されているような。向こう側は見えているのに、けして割れない氷の壁があるような。炎と熱を持って生まれたアンリは、レマニの中で温かさを感じられずにいたのでした。
ですが、それはアンリの思い違いだったのだ、とわかったのです。アンリは、暖かな焚き火を見つけたような気持ちになりました。アンリはぐずぐずと泣き出しました。
ブリジッドのお母さんはまだ睨んでおりました。けれども、アンリの家族はみんな、その怖い眼から小さなアンリを守るように抱きしめてくれました。アンリはほどなく泣き疲れて眠ってしまいました。
ブリジッドは自分の吹雪に運ばれて、森の小川につきました。小川はすっかり流れを止めて凍りついておりました。氷の上には雪も積もっておりました。ようやくやんだ吹雪の名残で、ブリジッドは全身氷の破片でキラキラと飾られていたのでした。
「誰?」
ブリジッドが凍った川から岸辺を見上げると、黒々とした森を背にした男の子がいました。オーギュストくらいの年頃に見えます。見たこともない紫色の髪の毛に、血のような赤い瞳をしていました。薄い唇を引き結び、温度のない眼差しを投げかけておりました。
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続きます