12 窓を目指して
ブリジッドがハッと眼を開けると、窓のない石壁で囲まれた部屋にいました。
「夢だったんだ」
噛まれた肩とぶつけたり踏まれたりした背中から、ズキズキと鈍い痛みが広がっていきました。無意識に雪を纏っておりましたので、幸い熱は出ませんでした。
ブリジッドは、そろそろと起き上がりました。部屋の中は真っ暗でした。重たい扉には、覗き窓すらついておりません。ブリジッドは両手を前に突き出して、暗闇の中をそろそろそろと進みました。
でこぼこの壁にぺたんと手をつくと、ブリジッドはカニ歩きで壁を伝い始めました。
「なんにもないなぁ」
その部屋には、家具が全くありませんでした。ベッドもクローゼットも、椅子も机も、一切ありません。壁際にも、壁から離れた所にも。
「ふうっ」
何もない部屋でしたが、それなりの広さがありました。あるいは、何もないので広かったのかもしれませんが。
「さて、どうしよう」
壁には、押せば開く扉はありませんでした。くり抜き窓もありません。鎧戸付きの窓もありませんでした。
「どうやって逃げだそう?」
一通り調べて部屋の真ん中に戻って来たブリジッドは、銀色の眉をぎゅうっと寄せて思案しました。
「そうだ、血止め」
ブリジッドは小さな女の子ですから、夢とうつつがはっきりとは区別出来ておりませんでした。それで、夢の中で手に入れた、血止めの小瓶を思い出したのです。
ブリジッドは、ローブのポケットに手を入れました。銀糸で縫い取られた雪の結晶が、ちらりと暗闇で輝きました。
「あれ?あれれ?ここに入れたはずなのに?」
ブリジッドは、ポケットを探ります。細い指を握ったり伸ばしたりしながら、灰色のローブについた二つのポケットを隅々まで調べました。
「あれれえ」
そういえば、痛み止めの木箱もありません。
「ない、ない、ないよぅー」
ブリジッドは声に出して焦りました。
「どこにいっちゃったの?寝てる間にポケットから転がり落ちちゃったのかな?」
そうだとしたら、探すのはかなり難しいと思いました。このお部屋は、真っ暗なのですから。
「あっ?」
ブリジッドの小さな爪が、革紐を探り当てました。
「これ……」
指先をごにょごにょと動かして、ブリジッドは紐を手繰り寄せました。ポケットから取り出したのは、小さな革の袋です。
「お目々の粉を入れた袋だ」
このお城に来る前には、ブリジッドはこんな小袋を持ってはいませんでした。夢の中で、お薬倉庫に行った時に手に入れた袋です。
「でも、こんな真っ暗なところであけたら、せっかくの銀色の粉がなくなっちゃうかもしれないなぁ」
ブリジッドは、傷も痛みもすっかり消した不思議な粉を袋からこぼしてしまうんじゃないか、と怖かったのです。夢の中で拾い集めた粉ですが、ブリジッドにとっては現実でした。夢のお薬だから消えてしまう、とは思えませんでした。
(けど、この粉をつけたら、痛くなくなるなぁ)
ブリジッドは、銀の粉を浴びた後のことを思い出しました。
(見えないけど、気をつければ大丈夫かな?)
ブリジッドは、片手でしっかりと小袋を持って、反対側の人差し指を袋の中に差し入れました。
(冷たい)
袋の中には、思った通りの粉がありました。雪とも氷とも違う、硬くてざらざらした手触りでした。冬の朝に晒された金属みたいに冷たく感じられました。粉は、キーンと冷えておりました。
ブリジッドは、歯を食いしばりました。それから、コオリオオカミに噛まれた肩に粉のついた指をつけました。
(嘘みたい)
ズキズキとした痛みが引いて行きました。触った時にはぬるりと流れていた噛み跡の血も、粉をつけたら止まりました。
「お目々、ありがとう。今どこにいるのかしらないけど、ほんとに助かった!ありがとう」
ブリジッドは、暗闇の向こうへと囁きました。大きな声を出してしまったら、またコオリオオカミや怖い魔物がやってくるかもしれないからです。
ブリジッドの囁きがすっかり闇に吸い取られると、まるでお返事を返すように、銀の粉が降って参りました。
「お目々?いるの?」
あの銀色の目玉は、話すことができません。ですから、本当にあの目玉がここにいるのかはわかりませんでした。けれども、頭の上から降り注いだのは、夢の中で目玉が降らせた銀色の粉そのものでした。
「ありがとう。痛さがすっかり消えちゃった!すごい!」
ズキズキも、ヒリヒリも、血で張り付いた服の不快さも、あっという間になくなってしまったのです。ブリジッドは声を弾ませてお礼を口にいたしました。
銀色の粉は、傷を癒してくれただけではありませんでした。うっすらと明るく部屋を照らしてくれたのです。自分の手のひらを目の前に持って来ても、さっきまでは何も見えませんでした。それが今は、床と壁がぼんやりと闇に浮かび上がっておりました。
ブリジッドは、重そうな扉に近づきました。夢の中では、扉はギイーッと開きました。ですから、試してみようと思いついたのです。
ブリジッドは、背中をぴたりと扉に押し付けました。それから、全身の重みをかけて、ウーンと扉を押しました。ローブのフードが背中で跳ねて、銀色の粉が飛び散りました。
粉は扉にかかりました。すると、扉が銀色に光ったのです。
「開いて!」
他に出られそうな場所はありません。ブリジッドが逃げ出すためには、この扉を開けなければならないのでした。
銀色に光った扉に勇気をもらって、ブリジッドは吹雪を起こしました。小さな自分の身体だけでは、押してもなかなか開かないと思ったのです。吹雪には、ブリジッドを夜の森に運び去ったほどの力がありました。
(扉くらい、簡単に開いてしまうに違いない)
ブリジッドは自信を持って、ビューンと吹雪を扉に吹き付けました。扉は凍ったりひび割れたりはしませんでした。けれども、ブリジッドが思い切りよく吹きつけた雪の竜巻は、重たい木の扉を押しました。しばらくガタガタいったあと、がちゃんと重たいおとがいたしました。
どうやら、外側にかかっていたカンヌキが、強く揺さぶられた弾みにはずれて落ちたようでした。
ブリジッドは開いた扉の隙間から、素早く廊下を見回しました。ローブにくっついていた銀色の粉を握って投げると、廊下もほんのり銀色の灯りで照らされました。
(こっちから来たはず)
廊下には、ひとつも気配がありませんでした。ブリジッドは、急いで来た道を辿り始めました。
(この廊下の先には階段があるはず)
階段には、細長いくり抜き窓がございます。窓という名前ではありますが、鎧戸のないただの穴にすぎません。ブリジッドなら、吹雪に乗って抜け出すことができるでしょう。
(よし、急ごう)
しばらくは慎重に足を運んだブリジッドですが、魔物がやってこないと分かると、大胆な行動を始めました。ブリジッドは、程よく吹かせた吹雪に乗って、窓の開いていた階段へと急いだのです。
(階段を降りて、曲がって、坂を登って、回って、階段を昇って、渡り廊下、曲がって、曲がって、降りて)
ブリジッドは、頭の中で早口に道順をおさらいいたしました。そして、そのとおりに廊下や階段を通り過ぎてゆきました。窓のある階段は、まだ見えて参りません。
(もう少し、あとちょっと)
お城の中は、どこもかしこも真っ暗でした。けれども、ローブについた銀色の粉が、少し先を照らしてくれるのでした。
ようやく窓が見えて来ました。お城の中はしんしんと冷え込んでおりました。氷柱も霜も見当たりません。埃や汚れもないのです。お城は、主としてここに住む魔物のようにのっぺりと冷淡でした。
「窓だ」
ブリジッドが吹雪のスピードを上げた時、ゴトゴトという不規則な音が聞こえてきました。
「なんだろう」
ブリジッドは、後ろを振り向きました。遠い暗闇の先に、銀紫の塊がみえました。塊は、たいへんな速さで近づいて参ります。
「コオリオオカミだ」
ブリジッドは呟くと、追っては捨て置いて前に向き直りました。そのまま後ろは気にせずに、ブリジッドは縦長のくり抜き窓に突っ込みました。
「させるか」
ブリジッドはゾッといたしました。あの血色に湿ったまなこを持つ、紫髪の小さな魔物がやって来たのでした。
「おとなしく部屋に入っていろ」
魔物はブワッと風を起こして、ブリジッドの行手に回り込みました。
「どいてよぉ」
ブリジッドは精一杯の強気を出して言いました。ここには、巻き上げられる土や木の葉はございません。風で折りとる小枝も見当たりませんでした。ただ純粋に風だけが、ブリジッドの身体から吹き荒れました。
「お前」
魔物の男の子は、相変わらず髪の毛一本揺らさずに浮かんでおりました。
男の子が片手を上げました。ブリジッドは、ギッと睨みつけました。吹雪が狭い階段に渦巻いております。窓からは、お月様が銀色の光を投げかけてまいります。
階段にならんだ細長い窓は、吹雪が上がった雪空を切り取って、反対側の壁に映しておりました。
「出られやしない」
魔物が宣告いたしました。
「出る」
ブリジッドが断言します。
「帰るんだから!」
小さな灰色のローブは、ごおっという音と共に風を含んで広がりました。
ブリジッドが窓まで勇敢に突き進んでも、魔物の男の子は動じません。むしろ余裕の表情でした。
「お前にこの窓は越えられない」
コオリオオカミの主は告げました。
「諦めるんだな」
ブリジッドが窓から窓へと移動してゆきますと、小さな魔物もついて回りました。
「絶対に逃がさない」
魔物は淡々と述べました。
「通ります。帰るんだからね!」
ブリジッドは、そのたびに反論をいたしました。
ブリジッドが見上げると、夢の中で乗ったお月様が浮かんでおりました。上が平らな、お船のようなお月様です。夢の中と違ったのは、ブリジッドが乗っていないことでした。
「お月様、乗せてぇ!」
ブリジッドは大声を出しました。吹雪を使って、思い切りお月様に伝えようといたしました。
「こざかしい」
魔物は氷で、窓という窓を塞いでしまいました。
「ブリジッドーッ!」
その時、一つの窓にはめられた分厚い氷が溶け去りました。溶けた氷は波となって、魔物のお城に流れ込みました。紫色の髪をした魔物は、頭から自分で出した氷が溶けた水をかぶってしまったのでした。
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