中庭の月・4
に、2か月、だと・・・っ!?
お待たせしてすみません・・・
静謐な空気に満ちた小さな箱庭。
噎せ返るような花の香りはしないそこでほんの微かに香る匂い。
ファルネルトが嗅いでいた薫り。
嗅いでいたい香り。
ふんわりと漂う紅茶の香り。
今、他の男のそれと混じり合う香り。
見るからに逞しい腕。 月明りに近衛騎士の証である煌めく紅色の刺繍が見える。
彼女によく似合う銀色のリボン。
解けて、混じって、花園に広がる。
長い髪でよく見えない。
けれど、あぁだけれども、髪の毛のヴェールの向こうで影くらいは透けて分かる。 顎にかかる筋肉質な腕と、それに導かれて男のーーーきっと膝の上にあるーーー頭に向かって彼女の上体も降りていく様子が。
静けさに満ちた庭園。 2人の影が、重なった。
その瞬間、ファルネルトの胸の内を染め上げた感情を何と呼べばいいのだろう。
融け合うそれらはきっと一つひとつ名前を付けることは難しくて、でもジリジリと身体を灼くものから強いて取り出すとするならば、絶望?激情?懇願?恐怖? そんな風に思えた。
ファルネルトが生まれて初めて覚える感情。
ファルネルトの胸の裡で暴れ狂う感情。
(好き、です)
ファルネルトの焦がれる月。 中庭の月。
気高く、美しく、賢く、聡く、優しい銀月。
ファルネルトに、初めての「恋」を教えてくれた。 残酷な。
あぁ、どうしてこんなにも。
世界は残酷なのだろう。
※ ※
自分が無意識のうちに後退っていることにファルネルトが気が付いたのは背が壁に付いた時だった。
感情が昂っていたせいで魔力が溢れていたらしい。 沈み込むほどではないもののタンマナグが反応するには十分で、柔らかく受け止めてくれたおかげで幸いにも音はしなかった。
良かった、音がしなくて。
良かった、気が付かれなくて。
良かった、こんな顔を見られなくて。
国家の精鋭中の精鋭たる近衛騎士が武人でもないファルネルトの気配に気が付かなくて大丈夫なのかと思うが、素人の気配にも気が付けないくらい何に没頭しているのかなどとは考えたくもない。
身勝手にも煮えくり返る腑を自覚して、ファルネルトは自分自身に強い嫌悪感を抱いた。
「っ・・・」
吐き気さえ感じて、壁に触れていた背中に全力で魔力を集めて地面を蹴るようにして後退する。
一瞬だけ息が詰まるような感覚がした直後、ドン、と背中が表の庭園の地面に付いた。 日中ならば雑踏に紛れるような音でも、月の美しい夜の庭園にはよく響く。 ささやかな背の痛みを胸の痛みとごちゃ混ぜにして、ファルネルトは只管に自分の拍動が響いてしまわないことを祈っていた。
「ただいま戻りました」
それから、どうやって執務室まで戻ったのか覚えていない。
「・・・どうしたファル。 酷い顔だぞ」
「・・・何でもありません」
ファルネルトに道すがら鏡を見て自分の有様を確認する余裕なぞ無かった。 故に正確には分からないが、恐らく本当に悲惨な顔をしているのだろう。 それこそ普段ファルネルトの鉄面皮を突破できない人でも何かあったことが分かるくらいの。
火急の用でもあったのだろう。 たまたま執務室にいた文官に向けてアルベルトが視線をやったのが分かった。 どこか心配そうな眼差しを向けていた文官が気遣わしげに一礼して去っていく。 ぱたん、と音を立てて扉が閉まったのを見届けると、アルベルトが姿勢を崩した。
さっさと話せ、と言うことだろう。
(話す、など・・・)
話すことなど何もない。 そんな捻くれた気持ちが頭を擡げるが、そう言うことでは無い事も分かる。
ファルネルトの後ろにリリネルトがいない事で大体は察しているが、何があったかはよく分からないから知りたいという野次馬根性もあるのだろう。 けれど、フェルート王国王族特有の紅玉の瞳には確かに心配も滲んでいるのが分かるから。
「・・・実は、」
「失礼します」
扉が開いた。
ノックの音はしなかった。 当たり前だ。 侍女を含む多くの使用人はノックをしない。 万一アルベルトが機密に纏わる話をしていた場合に分かるように声をかけてから入室してきただけで、本来は無言無音で入室するのが一般的だ。
今、大袈裟に肩が跳ねていなかったことを切に願う。
「・・・どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
一気に脱力してしまったらしいアルベルトが椅子に沈み込んだ。 面倒そうに首を振った様子を見て、何とも言えない空気に満たされた執務室が気にかかったらしいリリネルトも無言で一礼する。 相変わらず出来た侍女である。
そうだ。 こちらから呼び出したのだからその内来るのは当たり前だ。
「これからファルネルトと会議するんだ。 2人分の紅茶を頼む。 茶菓子は要らん」
「承りました」
「酒精があるものが良いな」
「承知致しました」
「今日は就寝前の一杯は不要だからもう休んでくれ。 明日の朝は予定通りだ。 目覚めがすっきりするものを頼む。 これも2人分だ」
「畏まりました」
そのまま一礼して退出しようとしたリリネルトを、アルベルトがふと思いついたような自然な様子で引き止める。
「そういえば、今日は遅かったな。 魔道具の魔力は足りているか?」
あくまでも業務事項のように見える言葉。
アルベルトの察しの良さには恐れ入る。 きっとこれも王たる資質なのだろう。
「いえ、魔力は十分ですし、過不足なく稼働しております。 私が、少し話し込んでしまいまして。 申し訳ございません」
「構わない。 魔道具が機能していることが分かれば良い」
「お気遣い頂きありがとうございます。 失礼致します」
その仕草も、その言動も、スカートの皴一つに至るまで、中庭での秘め事を思わせるものはない。 何から何までいつも通りで、誰と何処で何を話していたかなど感じさせる物はない。 いっそ天晴れだ。 恐らく彼女はアルベルトの探りにも気が付いて上で顔色一つ変えずに相手に何も与えない模範解答のような返事を不自然な点なく返してきたのだから。 この一瞬で。
筆頭公爵家令嬢の筆頭侍女はそのくらいでないと務まらないということなのだろうか。 ファルネルトともアルベルトとも大して歳の変わらない少女があの練度に至るまでどれだけの急場を凌いできたと言うのだろう。
考えるだけで虫唾が走る。
「で、何だったんだ根性ナシ」
「・・・近衛騎士と親しげにしている所に遭遇してしまいました。 恐らく、深い仲かと」
「ほー」
「彼女には、恋人、が、いたようです」
「ほほー」
彼女に、恋人が、いた。 このたった3文節を発音するために多大な労力を要した。 アルベルトの間延びした返答にすら腹が立つ。 どうせ、薄々察している癖に。
「・・・本当に、非常に滑稽です」
そう、滑稽だ。
恋人がいる事を知ることで己の気持ちに気がつくなんて道化以外の何物でもない。
(いつからだろうか)
こんなにも、どうしようもないくらいに好きになっていたのは。
今までの、自分の中でも説明が付かなかった感情が次々と名前を纏っていく。
会いたかったのは、傍に居たいから。
話したかったのは、もっと知りたいと思っているから。
繰り返し繰り返し思い出していたのは、どうしようもなく想っているから。
他の男のものだと知って身を裂かれる痛みに苛まれているのは、生まれて初めて恋に堕ちてしまっているから。
この激情ひとつ一つに名前なんて付けられない。 分類なんて出来やしない。
どろりと溶け合ったこれらが酷く醜く感じられて、ファルネルトは込み上げた嘔吐感を飲み下すのに多大な努力を要した。
「恋情とはいつの時代も愚かしい物だ、親友よ」
「そうでしょうか・・・」
常日頃、為政者として激情に飲み込まれてはならない、全てに対して冷静沈着でいなければならない。 そんな鋼鉄の理性と訓練で自分自身の感情を支配しきっているアルベルトには、きっと恋だの愛だの端から愚かしく滑稽なものであったのだろう。 アルベルトの中で家族や国への情と愛は似て非なる物なのだ。
「そう、かも知れませんね」
叶わないと知ってから焦がれるなど。
「・・・」
再び深い思考に沈んだ親友の姿を見て、アルベルトもまた物言いたげに沈黙に興じた。
アルベルトside
(恋、か)
王太子としての教育を受ける中でまず初めに学ぶ最重要事項。 それは、感情を制御することである。
王族であるから魔力を持つのか、魔力を持っていてこその王族なのかは定かではないが、アルベルトを含む王侯貴族等は総じて高い魔力を有している。 それこそ例外なく。
そして膨大な魔力を保有する者ほどその制御は困難を極め、幼少期は感情のままに魔力を暴走・暴発させるのは日常茶飯事となる場合も多い。 過去には魔力を完全に封じる部屋に監禁され、制御可能になるまで閉じ込め続ける時代もあったとされる。
(冷静であれ、冷徹であれ、心は常に湖面のように。 心は常に雄大な山の様に)
為政者が恋に溺れたら? 愛おしむ相手に従うだけの傀儡と化したら? 望まれるままに魔力と権力を振い始めたら?
(あってはならない。 王族の身体が、心が、力が、臣民を害す事などあってはならない)
父も、母も、教師達も、社交界も、口々にアルベルトへ告げた言葉達だ。 幸か不幸か、当時のアルベルトは齢3にしてその真理を理解し嚥下していた。
「全ては愛しきフェルの為に」
だがしかし、生来の親友の悩み付き合ってやるのもいいかもしれない。
「銀月の君、ねえ」
どうやら大きな独り言も、親友には届かないらしい。
(ふむ)
アルベルトの出来のいい頭に、様々な策略が巡り始めた。




