逆鱗
アルスが使用人の部屋に忍び込んだ日の翌朝、フィーナは豪華絢爛なアルスの部屋でジェシカ奥と彼女の後ろに隠れるアルスの前に突き出されていた。
結局あの後、アルスはアニタの指示により担架に乗せられ自室へと運ばれていった。
そして、意識を取り戻したアルスが母親であるジェシカ奥にある事無い事吹き込んだのだろう。
アルフレッドが朝食を摂っている最中の彼の部屋から、半ば強引にフィーナは連れ出されたのだった。
「さ、言いたい事があるなら仰いなさい。うちのアルスちゃまに色目を使った珍獣の言い分を聞かせてごらんなさい。この泥棒猫」
泥棒猫なんて本当に言う人が居るんだな……とフィーナがジェシカ奥を眺めていると、フィーナが黙っている様子に何かを勘違いしたのか、ジェシカ奥はいつもの様に扇子で口元を隠し勝ち誇った表情でニヤついている。
「アルス様に実力行使を行った事に間違いはございません。しかし、仮にも女性の寝所に押し入るとは少々短慮が過ぎるのではないかと……」
割と淡々と心情を吐露するフィーナ。もはや言い訳しようにもどうにも言い逃れは出来ず、どの様な処分であろうと受け入れるしかない状況ではある。
「お黙りなさい! あなたは今日限りでクビです! この領地からも出ていきなさい!」
フィーナがちょっと意見しただけでジェシカ奥はヒステリックに喚き散らした。
どうもフィーナの言動はジェシカ奥にとっては予定外だったらしい。
まさか全面的に非を認め、泣いて許しを乞うとでも思っていたのだろうか……?
屋敷の仕事が出来なくなるのは、アルフレッドの事を考えれば不便にはなってしまうかもしれないが、屋敷のメイドに拘らなくても他にやりようはいくらでもあるのだ。
例えばインビジビリティという自身の存在を悟られなくなる魔法を使用して何食わぬ顔をして居座る方法もある。
あまり褒められた方法ではないが、ジェシカ奥とアルスの思考や記憶に干渉し操作てしまう力技も取れない訳ではない。その時
「待って下さい、お母様! フィーナさんを辞めさせないで下さい!」
廊下で話を聞いていたのかアルフレッドがアルスの部屋に入って来た。
(あ、アルフレッド坊ちゃま……!)
まさか性格的にも控えめなアルフレッドがアルスの部屋に入ってくるとはフィーナも考えておらず少し反応が遅れてしまった。
アルフレッドにおかしな事を言わない様にフィーナが声を掛けようとするものの
「そんな珍獣を庇う為に、この私に意見する気なのね。わかりました」
ジェシカ奥はアルフレッドに近付いていくと、アルフレッドの眼前に扇子を突き出し
「出ていきなさい。私に逆らう者は要りません」
何の躊躇いも無くジェシカ奥はアルフレッドに勘当を言い放った。
その態度に母親としての愛情などはまるで感じられない。
「お、お待ち下さい! アルフレッド坊ちゃまには責はありません! 罰なら私が受けます!」
アルフレッドが屋敷から追い出される訳にはいかないとフィーナが慌ててジェシカ奥に声を掛けた。
なんとかこの場を収めなければ歴史がフィーナすら知らない方向に向かってしまう。
その声に反応したジェシカ奥はフィーナに顔のみを向け
「……そう。アルスちゃま? 珍獣を好きになさい」
ジェシカ奥の言葉を聞いたアルスは、やや警戒しながらではあるが嬉しそうにフィーナに近づいて来た。そして、おもむろにフィーナの胸に手を伸ばしてきた。
「う……!」
目の前のアルスの、男性特有の手のゴツゴツした感触と体温が服の上から伝わってくる。
彼はまだ十代半ばの子供のはずだが、フィーナには酷くおぞましいモノに思えてくる。
体格は十代半ばとは言えアルスの方がフィーナよりやや大きい。
アルスの背があまり高く見えないのはお腹の出た体形のせいもあるのだろうが……
決して優しい訳でもない慣れない手の動きが絶え間なく直に伝わってくる。
フィーナが抵抗しない事に気を良くしたのか、今胸に置いた手はそのままに今度は空いた手で抱き寄せ醜悪な顔をフィーナの唇に近付けてきた。
思わず顔を逸らすフィーナだったが、アルスは強引にフィーナの顔を掴み無理やり唇を重ねようとしてきた。
「くぅっ……」
思わず抵抗しようとした両手を握りしめ状況に耐える決意を固める。
(私さえここで我慢すれば……)
アルスの鼻息荒い顔が近付いてくる。フィーナは顔を掴まれている為ただ見ている事しか出来ない。
もう避けられないと思った瞬間、彼女は意識せずに目を閉じてしまった。だが、その時
「やめろぉーっ!」
突然アルフレッドの大きな叫び声が聞こえたかと思ったら、顔と胸を掴まれていた感覚と、気持ち悪い圧迫感が瞬時に消え去った。
ードサッ!ー
同時に何かが倒れる音と共に、軽い殴打音も聞こえてきた。
一連の出来事は声が聞こえてからあっという間だったため、フィーナには何が起きたか状況を察する間も無かった。
彼女が眼を開けた時に見たのは白目を向いて床に横たわっているアルスと、彼に馬乗りになり顔面を何度も殴っているアルフレッドの姿だった。
「アルフレッド坊ちゃま! お止め下さい!」
フィーナは急いでアルフレッドを後ろから持ち上げる形でアルスから引き離す。
十歳に満たない子供のはずなのに引き離すのにかなりの力が必要だった。
「は、離して下さい! こいつは僕のフィーナさんに……よくも!」
引き離してからもアルフレッドは手をバタバタと動かし続けている。
「アルフレッド坊ちゃま、私は大丈夫。大丈夫ですから……落ち着いて下さい」
フィーナに持ち上げられたまま、後ろから抱きしめられた形で優しく声を掛けられたアルフレッドは徐々に落ち着きを取り戻してきた様だ。
彼がようやく落ち着いたところでハッとなりフィーナがジェシカ奥の方を見ると……
「き……き……き……」
ジェシカ奥は鬼の形相で扇子を手にプルプル震えていた。そして
「きぇぇぇーっ! この疫病神どもめぇっ! すぐに出ていけぇっ! 誰か! 早く来なさい! 誰かぁーっ!」
普段の貴族然とした言葉遣いを捨て去ったかの様なジェシカ奥は、半狂乱と言って差し支えの無い有り様だった。
ジェシカ奥の姿にフィーナはアルフレッドに、実の母親の醜態を見せない様に彼を抱えたまま部屋を飛び出す事しか出来なかった。
廊下に出るとジェシカ奥の叫びを聞きつけたメイド達がアルスの部屋に駆け付けてきた。
その中にはアニタの姿もあり……彼女は全てを察したかの様な表情で
「……貴女達は騒ぎが収まるまで私の部屋に居なさい」
と、アニタは自室の部屋の鍵とハンカチをフィーナに渡してきた。アニタの行動にフィーナが戸惑っていると
「早くなさい。涙もきちんと拭いておくのよ」
とだけ言うと彼女はアルスの部屋へと入っていった。両手が塞がっているフィーナの代わりに鍵とハンカチをアルフレッドが受け取る。
そして、彼を抱えたままフィーナはアニタの部屋へと急ぐのだった……。
アニタの部屋に着いたフィーナはアルフレッドを椅子に座らせ、彼の目の前で屈み込み様子を確認する。
「アルフレッド坊ちゃま……、お気持ちは落ち着かれましたか?」
フィーナの問いに静かに頷くアルフレッド。彼はおもむろにハンカチを持った手を伸ばしフィーナの頬を慣れない手付きで拭き始めた。
「…え?」
彼女自身今まで気付いていなかったが、いつの間にか涙を零していた様だ。
いつからなのかも分からないが思った以上に感情が昂ぶっていたのかもしれない。
「ごめんなさい……、僕のせいで……」
アルフレッドが申し訳無さそうな小さい声で呟いた。だが、もちろん彼のせいなどでは無い。
当然フィーナに責任がある訳でも無い。たまたま理不尽が押し寄せてきただけで、フィーナ自身昨日からの出来事を思い返してみても、この結果を回避する方法は思い付かない。
仮に昨日を別の方法で切り抜けたとしても根本的な解決にならないのなら行き着く先は同じだったはずだ。
仮にやり直せるのならアルフレッドがアルスに殴り掛かるのを止める事……だろうが、あの状況でどうアルフレッドを止めたらいいのか分からない。
今分からない事が過去に分かる訳も無く、必然的にアルフレッドのこの家からの追放は止められなかったと言う事になり……何がなんだか分からなくなってきた。
アルフレッドがアルスの部屋にやってくるなど普段の彼からは考えられなかった行動であり、ある程度先の未来を知る事が出来る神と言えど人が次の瞬間何をするのかまでは知り様が無いのだ。
「アルフレッド坊ちゃまのせいてはありません。私が至らないばかりに……申し訳ありません」
それ以降は二人共何も話さずアニタが戻ってくるのを待つのみであった。