ねむれない
沙里菜が眠れなくなってから、三日が過ぎた夜だった。
沙里菜のアパートは、よく栄えた都会の駅から三つほど離れた場所にある。そんな駅から徒歩十三分にしては破格の値段だ。何よりトイレと風呂が分かれていたことが契約の決め手だった。
六畳ほどの部屋の窓際、壁沿いに並べたベッドの上に横になって天井を眺めている。
今夜も眠れない。それに明確な理由があるならばよかった。ただ単に、突然眠り方を忘れてしまったように、瞼を下ろしても夢を見ることが無くなった。沙里菜は寝つきのよさを褒められて育った子だったゆえに、殊更不眠に戸惑っていた。定期的に連絡を取る母に相談してみても、目を閉じて横になってればいいじゃない、と呆れられる始末だ。全く参考にならなかった。
たった三日だ。まだ耐えられるだろうと友達の一人には笑われてしまった。しかし、一睡も出来ない日が三日なのであって、些細な時間でも眠れた日はカウントしていない。恐らく眠りが浅くなってからは一月は経つだろう。
そろそろ深夜二時を回った頃だろう。
寝返り、はたして寝返りと呼んでいいのだろうか。横たえていた体の向きを変え、ドアの方へと視線を向けた沙里菜の目に、思ってもいなかった光景が現れた。
影が、佇んでいた。
それは左右に揺れているように見えた。四角く嵌め込まれた磨りガラスの向こう側に、何かが立っていた。
閉め切って風のないこの家で、風に煽られているようにゆっくりと右へ左と先端を揺らしている。先端と表現せざるを得なかったのは、それが人なのか何なのか沙里菜には理解が出来なかったからだ。
よく目を凝らしてみる。たかが1Kの部屋だ。二メートルほど先にあるものくらい、沙里菜の視力であれば難なく理解することが出来るはずだった。しかし小さく揺れるそれが何かを理解することが出来ない。
その時、ようやくその何かの異質さに気が付いた。
口だ。
磨りガラスの向こうに、恐らくべったりと張り付いている穴に、白い羅列のようなものが見えた。その上に、丸く窪んだ黒が見える。
人であれば、歯があるはずの場所。それがもごもごと動いていた。
磨りガラスの不鮮明さはよく知っている。友人が遊びに来た時に、脱衣所が無いからと腕を広げるのがやっとの広さしかない廊下で着替えてもらったことがある。その時に、透ける肌色をからかったことがあった。磨りガラスじゃあ、人がいることしか分からないね、と。
そんなものの向こうにいる何か、を沙里菜は理解しているその異質さに鳥肌が立つのを感じた。見えるわけが無い。口があるなんて。
エアコン代を節約するためにと多めに重ねた布団を目元まで引きあげて、少しだけ躊躇した。目を離していいのだろうか。こういう怪談は、目を離すと決まって近付くものだ。そう逡巡する間に、かちかちと歯を鳴らすような硬い何かをぶつけ合わせるような音がしてくる。
いよいよ決断に迫られて、沙里菜は布団の中に頭を押し込んだ。
足先までも、中に折り畳んだ布団の上に乗せて体のどの部分もはみ出てしまわぬように、警戒する。
眠れやしない。あまりの恐ろしさに気絶してしまいたい気分だ。頭を抱えた沙里菜の耳に、不穏な音が近付く。
がちゃりと、聞き馴染んだ音がした。ドアノブがゆっくりと下ろされる音だった。沙里菜の部屋のドアには特徴があった。手前に引くと、必ず古い軋みの音がした。それは築年数のせいだと理解していたし、沙里菜が不満に思うことは今まで無かった。けれど、今はその音がする事実を信じたくないと、本気で否定したくなった。
震えに反応して、ベッドが軋む。その音にすら体を跳ねさせると、さらに小さく縮こまる。
──どうして、明かりをつけようと思い至らなかったのだろう。
小さな後悔が、沙里菜の胸に押し寄せていた。
今までも、視界の端に得体の知れない何かの存在を感じたことはあった。それの正体は白いカーテンだったり、壁とシェルフの隙間だったりした。人というものは、三つ点が並べば顔だと認識する生き物だ。故に顔があれば、それが人だと思うに決まっている。沙里菜はそんなことに、ようやく気がついた。口があった。窪みは恐らく目だ。ではやはり人のように見えたただの影だろうか。時折トイレの電気を消し忘れては、隙間から漏れ出す光におっかなびっくりしていた記憶を思い出す。
バタンと、ドアの閉まる音がした。
歯を噛み締めた沙里菜が、布団から出そうとしていた頭を中に戻す。一人暮らしだ。風もない夜に、一つしかない入口が勝手に閉まるわけも無い。
どう考えても、なにかがいる。
ひた、ひた、ぺた、ぺたりと。
お風呂上がりのように、水滴を垂らしたような足音がした。それは焦らすようにゆっくりとドアの方からベッドのそばまでやってくる。
それが幽霊といったオカルトの類なのだと理解した。何故なら、人影だとするならば、夜の闇の中ではっきりと認識できるのはおかしい事だと思い至ったからだ。
そんなものに、太刀打ちできるわけが無い。
そう思っただけで、両目からは情けなくも涙が溢れた。
唇を噛んで、自分の押し殺した泣き声を聞く。
そうして、恐怖に沈んでいた沙里菜の耳元で、息遣いがした。はぁ、はぁと一定のトーンで上がる息遣いに、沙里菜の動きが止まる。布団の端を強い力で抑え込むのと、その息が笑ったように聞こえたのは、ほとんど同時だった。
究極に追い詰められた心では、正常な判断が出来ない。このまま夜が明けるのを待つか、一か八か明かりをつけてみるか。
分からない。けれど、このままでは埒が明かないのは明白だった。
影だった。目と口のある影。それが今、きっとそばで笑っている。ほとんど賭けに近かった。恐怖心が最大まで上がりきり、反転するように怒りに変わっていた。沙里菜は確かに怒っていた。
跳ね上がるように起きて、手探りで電気のリモコンに触れる。はぁと舐めるような湿った音がした。
一瞬の沈黙の後、部屋が明るくなる。住み慣れてきたこじんまりとした部屋だった。今いるベッドの向こう側に冷蔵庫や化粧台がある。沙里菜は荒くなった呼吸のまま部屋を見渡して、安堵した。
何もいない。それはそうだ。それでこそ普通の夜なのだ。ただ不眠が続くだけで、変わらない夜。
沙里菜はほっとしてベッドに腰を下ろすと、頭を抱えて己の頭を疑った。正確には、頭の具合をだ。
不眠が続くと幻覚まで見えるらしい。どっと疲れが出て喉の乾きを覚える。ははと乾いた笑いを漏らしながら沙里菜は立ち上がった。
ベッドから降りて踏み出した足が、ふと止まる。動かなかった。金縛り、という単語が脳をよぎる。どれだけ力を込めてもその足も腕も前に進むことは無い。声を出そうにも、縫い付けられたように口は開かなかった。
どうにか動く場所を探していた沙里菜に、先程の息遣いが聞こえる。
まさか。
信じられないものを見た時のように見開いた目が、唯一動いた。一歩踏み出したままの、不安定な体制が幸か不幸かそれを沙里菜に見せていた。
ベッドの下から伸びる、黒い手。白く眩しくなった部屋で異臭を放つそれが、しっかり沙里菜の右足を掴んでいた。恐怖に喉から何かがせり上がる。しかし、体は少しも動いてはくれない。
時間をかけ、息遣いを響かせながらそれはベッドの下から這い出てこようとしているようだった。ゆっくり、ゆっくりと手首その先の肘へと見える範囲が広がっていく。
沙里菜はこのままでは、何かを見てしまうと予感した。それが的中するように、丸く湾曲したラインが見えてくる。それは人の肩のようだった。有り得ない。本来であれば頭と首を繋げるその場所には、まだ何も現れていない。沙里菜がそれに気付いて悲鳴を上げようとするが、糸で縫われたように固い口元が開かれることは無い。
「……ぁ……!」
突然、喉の奥から音が漏れた。それを皮切りに、体の節々が痛みを伴いながらも僅かに動かせるようになる。
震える体を叱咤しながら沙里菜が床を蹴って前へと駆け出す。よかった。逃げられる。
がっしりと沙里菜の足を掴んでいた何かは、もういない。ベッドの下には暗い影が広がるだけで、形を持つ何かを潜めているようには見えなかった。
数歩でたどり着くドアは閉められている。それを思いっきり開いてそのまま進もうとした沙里菜は壁にぶち当たる。
壁、では無い。本来ならばそこにあるのは二メートルほどの廊下だからだ。硬直して顔を上げられない沙里菜の耳元で、歯ぎしりのような音がする。
──ああ、そんな、どうして。
沙里菜はどっと力が抜けるのを感じた。首を、なにかの手が掴んでいた。黒いそれは、不愉快な音を立てながら、沙里菜の首を締め上げた。ゆっくりと、瞼を下ろす。諦めからだった。
沙里菜の心は、間違いなく折れていた。
左肩に、痛みが走る。水が迸るような音と、脈打つ肩の痛みに、食われたのだと思った。あるいは、肩を抉られたのか。想像していたよりもけたたましく鳴る自分の脈動に、沙里菜は絶望の中で驚いていた。
なによりも、沙里菜を驚かせたのは、数日ぶりの眠気が訪れたことだった。痛みを感じながらも、微睡みの中でかちかちと鳴る歯の音を聞いていた。