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魔王の影

○コマチ


一言、二言、無意味な言葉が紡がれる。

思わせぶりな言葉を吐けば攻撃が止まると思い込む人間は多い。

追い詰められてなお奥の手があると思わせ、疑念につけ入りつかの間の自由を得ようとする。

まあ、愚策だ。拳で殴れば壊れる策だ。


だから拳を突き出した。こういう手合は顔を殴り続ければ黙ると経験則で知っていたからだ。

突き出した拳に、何かが纏わりつく。

骨を叩く感触でも肉を裂く感触でもない。滴る血でもない。

ならばこれは、なんだ。


「なん……―――ッ!?」


思わず目を見開く。拳が深々とめり込んでいるのが、まるで川底の泥みたいな「なにか」だったからだ。

これはなんだ。どこから取り出した。

腕を引こうとするが動かない。「なにか」が食いついたように離れない。


「『ふ』」


首を締め上げたままだった手が、じりじりと開かれていく。

抗おうと力を籠めるが、開いていく手が止められない。コマチよりも強い力での抵抗とは違う。奥から奥から湧いてくる「なにか」が量で押し開いているのだ。

かさを増し、密度を上げ、空間を徐々に侵食しているのだ。


「『ふふふ、はははは』」


ぶわりと広がる薄暗い空気。今までのものとは違う気配が辺りに広がる。

感じる。理解かる。今コマチの手の先に居る者は、コマチの知る何者でもない。


「『肌を刺す痺れ。体内を満たす異物。脳を揺さぶるいくつもの感覚。

  この不自由、この不完全、この不自然。

  これが、生命……これがヒトというものか』」


渾身の力を篭めて首に伸ばした手を締め上げる。何かを掻き分け潜り込んだ指の一本一本が柔らかな肌に触れた。

爪を立て首を掻き切ろうとしたが、爪の突き立った場所から泉のように「なにか」」が湧き出てくる。


「『『実体を持つ』というのが、これほど刺激的なこととは。我が王が刺激を求める理由も、こうなれば分かる。

  感謝するぞ、ヒトのメス。貴様のおかげで我は、生まれ落ちてより初めて『悦び』を知った』」


ぎょろりと動くミハルだったものの瞳。視線が交わればなお理解かる。器が同じだけの別物だ。

コマチの手の中で「何か」が蠢き、ぎゅっと縮こまり。鉄砲水のように溢れ出す。

吹き飛ばされる腕、流される身体。ある程度突き放されたところで体勢を整え、ミハルだったものを睨みつける。

人の世の存在ではない。自然、あるいは天災に類するべき力が目の前でのたうつ。

放たれた漆黒の濁流が、徐々に、徐々に、ミハルの体を飲み込み、黒一色の人型に塗り替えていく。

聞いたこともない変身に見たこともない力。だが感じたことがある。この感覚は―――


「お前、魔族か」


かつてコマチが戦ってきたソウゲキ、ケンキョウ、クロウバア、ガラリギレル、スケイル、ガジル。それにゴーシャに住む二体の魔族。濃度は桁違いだが、性質は同じだ。

身にまとう闘気も、放たれた闇色の「なにか」も、魔族の放つ独特の雰囲気と相違ない。


「『だとしたら』」

「素晴らしい」


胸が高鳴る。脈打った分だけ身体に血が巡り、力が漲る。

視界が狭まり、世界が広がる。握った拳が燃えるように熱い。これまでにない興奮だ。

ミハルの身体を使っているということは、悲鳴が望めるということ。ここまで強い相手の悲鳴は、きっと甘美な調べのはずだ。


「名を名乗れ、魔族。名無しで殺すには惜しすぎる」

「『れ言を垂れる相手は選べよ、ヒトのメス。

  貴様程度、闇に落とされた命の一雫。ただ暗黒に飲まれるのみだ』」


纏わりつく「なにか」を蹴散らし、駆け出す。

まるでぬかるみのなかで戦うようだ。思うように動かぬ身体が、興奮を加速させる。

突き出す拳が再び闇に沈む。追撃の蹴りは空を切る。二発、重ねて五発、更に重ねて十一発。ミハル相手では見せなかった速度の連撃も、全てがいなされ避けられる。

コマチの連撃をそらしながら、そいつは悠然と名乗った。


「『だがそうだな……我が王との盟約に従い顕現し、世界に闇を広げるならば、名を轟かせるも必要か。

  我こそは『魔王の影』バルテロ。夜明けへの夢半ばで折れた身体を奪い生まれる、世界を闇で満たすものだ』」


バルテロと名乗った「もの」は、操る「なにか」(名乗りから察するに、「闇」か)と身体運びのみでコマチと相対する。

素がミハルとは思えない動きで、コマチの打撃の合間をすり抜けながら。


「『手始めに……この街を飲もう』」


天に向けて手をかざし、空に大きな亀裂を生む。亀裂から落ちる濃く重い闇が、闘技舞台を埋め尽くし。


「『暗落姿テ・コウ・ヤンド』」


言葉とともに、闇の中からいくつもの影が立ち上がる。

魔物だ。それもただの魔物じゃない。剣を、槍を、鎌を、様々な武器を象った魔物や、暴走した火霊の化け物だ。

そこでようやく、周囲からも悲鳴が巻き起こる。

観客たちも悟ったようだ。目の前で壊されていた男が見世物になるだけの存在ではなくなったと。。


押しあいへしあい逃げようとするボンボンやボンクラたちの背を、無数の魔物が追い立てる。

誰かが傷つき、誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが懇願し、誰かが怒鳴り、全ての人間が恐慌の中に落とされていた。


「俺様たちの街で勝手をしてるやつが居るようだなァ」

「ヘヒヒ! 命知らずなやつ! 食ってやるわ! 頭からバリボリ食ってやるわ!」


騒ぎの向こうで、街を影から牛耳っている二体の魔族……『魔王の爪』コーザ・イゴスと『魔王の鱗』チオデ・イゴスが姿を現した。


「『爪に鱗か。丁度いい。我の糧となれ』」

「は?」

「へ?」


次の瞬間。バルテロの広げた闇が二体を飲み込んだ。しばらく二人の形をしていた闇は、数秒で何もなかったかのように膨らみを無くして他の闇と変わらず蠢き出した。


下らん雑音の数々。胸に染みない。

今のコマチを満たせるものは、バルテロ以外にありはしない。

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