逃げ道は
「何者だ」
走りながらなのに確かに聞こえるその声に、ちらりと一度目を向ける。
後ろで一つに括られた髪が、馬の尾のように揺れていた。
だが、その速度と破壊力は馬の比ではない。障害となるものを次々ぶち抜きながら、屋根を跳ねて逃げ回るミハルを地上で真っ直ぐに駆けて追ってくる。
どんな技を使っているのかまったく立ち止まらずに、むしろ地を蹴る脚の速度を上げながら、徐々に距離を詰めてくる。
ビリビリ感じる強い敵意。前を向き直しても背中から感じ取れる、追いつかれれば一瞬で負けるほどの力量差。
ここから逃げる。いや、逃げねばならない。捕まれば救出が望めないという点はミハルも同様だからだ。
ならばどう動くか。
頭をフル回転させ、策と罠をいくつもいくつも巡らせ、試算を重ねる。災害級の暴力に吹き飛ばされない罠をあれやこれやと思い浮かべては消していく。
その間も逃げる足と、足止めになれと半ば投げ捨てるように放る煙玉や悪臭兵器の手は止めない。
煙も臭いも拳の一振りで霧散する。だとしても、無駄だとしてもだ。やって稼げる一瞬の積み重ねに賭けるしかない。
屋根を踏み砕き、街路を蹴り砕き。悲鳴と混乱を切り裂いて走り続ければ、見えてきたのは町の中央・闘技場の大警鐘。
狙ってではない。少しでも追撃を逃れられるよう建物の多い方へと駆けた結果だ。
だが、これを利用しない手はない。さしものコマチも巨大な闘技場をちぎって投げてとはいかないはずだ。
空間知覚で闘技場外壁周辺の構造を把握。大きく跳躍し、闘技場の外壁をなんとか飛び越え、把握した構造に従い受け身を取る。
コマチが索敵やそれに類する能力を持っていないのは判明済み。
ならば彼女の持つミハルを追いかける手立ては、驚異的な反応速度と目視ということになる。
索敵と空間知覚を駆使して隠れ、忍び、やり過ごし、身を潜めれば、逃げ出せる可能性はグンと高くなるはずだ。
そんなミハルの目論見を打ち砕くように、轟音が響く。
闘技場も、闘技場内に残っている人間も、知ったことかと、いうようだ。
ただひたすらに、真っ直ぐに、人知れず音もなく降り立ったミハルとは対象的に、悲鳴と轟音を巻き起こしながら。
掘り穿つようにミハルの着地した地点目掛けて最短距離で迫ってくる。
「なんでもありかよ」
不安が声になって溢れだす。それを自分で聞きながら、ぐっと歯を食いしばり策を練り直す。
どこにどう逃げても必ず直線で迫ってくるなら、コマチの身動きを封じる他ない。
半端な罠ではこれまでの煙玉同様何事もないかのように蹴散らされるのみ。
鞄の中に残る道具は、だいぶ少なくなってきている。
使えそうなものと言えば……
「これか」
取り出したるはミズゴショウ。たくさん採ったがあれこれ使って、ついに最後の一個だ。
潰れないように握れば、遠く離れたガルグとムーシャの顔が浮かんだ。かつての旅の思い出に賭ける、なんて感傷的な言葉が浮かんだ。
どれだけ身体能力が優れようと味覚ばかりは鍛えようがない。そう信じるしかない。
あとはこれを口に叩き込むために、そこに至るまでの流れを作り上げる。
罠。罠。罠。
闘技場の外壁を駆けながら縄に髪油を染み込ませ、矢に括り付けて眼下で燃える炎目掛けて射出。火が縄に燃え移ったところで回収する。
布を取り出し、洗濯のりを塗りたくる。そして少量の急造火薬と大量の霊素粉末をまぶして手に縛り付ける。
残った霊素粉末をありったけ袋に詰め、回収した燃える縄を火種に矢を着火。
同時に響く轟音。石造りの床を突き抜け人影が飛び上がってくる。
ちろりちろりと燃える火矢が灯り代わりに、その人物の輪郭をぼんやりと照らしあげる。
後ろで一つにまとめた黒髪。退屈そうな冷たい表情。闇夜の中にあれば輝くような白い肌。
身にまとっている服こそ勇者団の頃とは違うが、近くで見ればやはりコマチだ。
「次は何を―――」
言い切るより疾く動き出す。
まず放つのは、袋詰にした霊素粉末と火矢だ。




