動き出したその女
罠を仕掛ける際に、既に街の構造は把握済みだ。
その上、罠の場所についてもしっかりと把握しているため、安全なルートや罠が作動して通れないルートを考慮して移動できる。
他人の目からは、逃げ惑う客とコガレにしか見えないとしても、身を潜めながら、街の外を目指して走る。
ゴーシャは王都ほどではないが巨大な街だ。ミハルの空間知覚を使いながらでも、少し骨が折れた。
だが、その逃亡の完了も、もう少しの所まで来ていた。
街を囲む火霊灯でぎんぎら照らされた外壁が見えた。
外は近い。
俄然やる気が湧いてきて、ニイルを引く手も強くなる。
がらんごろんと、大きな鐘の音が鳴り響いた。
大警鐘。ミハルが鳴らすはずだったものだ。街の異変で混乱した誰かが鳴らしてくれたのだろう。
とはいえ見ての通り。これだけの混乱を巻き起こせば、もう大警鐘がどうだとか警備をおびき寄せるとかいう話ではない。
ランドリューとも既に「大混乱に乗じて」に策の変更を打ち合わせ済み。ミハルはもう、あの外壁を超えてこの街を抜け出すだけだ。
抜け出すだけ。
それで終わり。
そのはずだった。
「それ」を知るまでは。
「……ミハルくん?」
街中を範囲に広げた空間知覚が覚えのある存在の移動を知らせる。間違いない、コマチだ。
索敵に引っかかっていないことを考慮すると、まだ敵意や害意での行動は行っていないと見ていい。それがまた、事態を複雑にしていた。
だが、彼女の向かっている場所がまずい。あの場所は、街長の家……今回身分証が収集されていたランドリューの潜伏地に他ならない。
事態の収集で魔族が家を離れたのは索敵で確認済み。そしてその隙を見計らってランドリューが事に及んでいるはずだ。
その瞬間を見計らって長の家にコマチが、しかも索敵でひっかからない状態でやってきたとなると、ランドリューでも即時の対応は難しい。
「どうした、ミハルくん」
「ランドリューが危ない」
どうする。罠の作動で注意を引けるか。
遠距離から発動できる罠は設置していない。そこまで大掛かりになれば露呈の可能性と暴発の危険性が絡んでくるからだ。
駆けて寄っては時間が足りない。もうしばらくもせず、コマチは長の家に到着する。
「『あいつ』か」
「ああ。街の中心に向けて駆けてってる」
「だ、だったら、今がまさにチャンスってやつだ! 行こう、ミハルくん!!」
ニイルの顔に活力が戻る。
当時からミハルを蔑んでいたものの、その能力を侮ることはそうそうなかった。
だからこそ、ミハルの感知を信じ、逃げきれるという希望がより鮮明なものになった。
ニイルの諦めていた自由は、すぐそこにある。
「……」
「……ミハルくん、まさか、君は」
「ニイル、一人で先に行っててくれるか。俺は少し、寄り道してくる」
「ば、バカ!! バカか!? 何をする気だ!!」
「……例えばだけどさ、ニイル。
俺がもし、ランドリューを助けたいから力を貸してくれって言ったら、ニイルは一緒にこの街で暴れ倒す準備をしてくれるか?」
「そんなこと、やるわけないじゃないか!!」
「だよな。だから、今しかないんだ」
ニイル救出が半ば成功したのはランドリューの助力あってのもの。
ランドリューがこの街に囚われれば、片棒を担いでくれる人間は居ない。
混乱を抜け罠が暴かれ警戒を強めた魔族二体とコマチの居る街相手では、ミハルが足掻こうと転がろうとどうしようもない。
ならば、ランドリューを助けられる可能性が一番高いのは、罠が効き、混乱が走り、相手がまだミハルとランドリューに気付いていない今しかない。
激昂したのはニイルだ。
ちらつかされた希望を取り上げるような言葉に、そのまま噛み付きそうな勢いでミハルに食ってかかる。
「そんなバカなことがあるかよ!? 今逃げなきゃ、なんのためにここまで来たんだよ!!
アンタ何がしたいんだ!? 俺を助けたいって言って、今更また戻るって、そんなのないだろ!!
逃げるんだろ、生きるんだろ!? それを聞いてついてきたんだ!! アンタは俺に信じていいって言ったじゃないか、なぁ!?」
「……」
「……頼む。もう少しじゃないか。
捕まって以来死ぬことばかり願ってきた……そんな俺でも、ここまできたら、逃げ出したい、まだ生きたい……もう、戻りたくなんてないんだ……
ここで俺を一人にしないでくれ。もう少しでいい、俺の手を引いてくれ。ミハルくんだけを信じて走らせてくれ……」
逃げるために繋いでいたミハルの手を空いていた片手で握りしめ、自身の額に近づけ懇願するように瞳をきつく閉じる。
ニイルはこの街の恐怖を振り払えていたわけではない。ミハルの背だけを見て、街を見ずに駆けてきただけだった。
「ニイル」
「……言わないでくれ」
「ランドリューは自分の策の変更まで含めてニイルを助ける策に乗ってくれた。
ここで見捨てるのは、そりゃあ、あんまりだ。見て見ぬ振りは出来ない」
「言わないで、くれよ」
握られた手が濡れる。それでも、ミハルは止まれない。
前線に身を投じることをいとわないと決めたのだ。
ミハルになんとか出来るのならば、ミハルは前に進む。自身の夢見た夜明けに向けて歩いていく。
ミハルにとっての今の最良は、コマチを引きつけランドリューを逃し、ニイルとともに脱出すること。
ここで退けば待つのはランドリューを救えなかった後悔だ。あの日への後悔が拭えないとしても、新しい後悔を背負いたくはない。
ミハルが目指す夜明けは、笑って迎えられる夜明けのはずだ。
「ここからまっすぐに行けば外壁に着く。
外壁を左手に進めばランドリューが抜け出すために用意した段差がある。そこから外壁に打たれた楔を登ればすぐに外だ。
ニイルは先に逃げて、森の中に隠れててくれ。俺は少ししたらちゃんと逃げてくるし、絶対にお前を見つけるから」
片手で女性向けの弓兵帽を被り直し、片手で腰の鞄を漁る。取り出すのは少量の火薬袋と着火前の火矢。既に、ミハルの両手は戦場へと向けられた。
握るべき手を失ったニイルは、拳を握り、肩を落として立ち尽くしている。
「ミハルくん、俺は―――」
続く言葉は跳び上がる音で聞こえない。いや、続く言葉を耳にしないために、わざと音を立てて跳び上がる。
言い聞かせるのは無謀な言葉。「ミハルがやり遂げればいい」ということだけを考え、建物の屋根を登っていく。
途中、街中に走る火と「罠師の腕」で爆撃火矢を作り上げる。引き絞り、街長の家屋付近を目掛けて放つ。
数秒の間の後に轟く爆音。強い敵意が、街中から現れ立つ。
場所は街長の家付近。感じる強さは、街中の魔族どころかガルグやギルゲンゲ、かつての大敵ヨミすら遥かに上回っている。
そんな敵意が、一瞬の間を置いて、こちらに向かって恐るべき速さで駆けてきた。
爆撃の角度と方向からこちらの居場所を特定したのか。流石はニイルとランドリューが共に認める化け物だ。
震えては居られない。このままこの場に居れば、ニイルがこの場を離れるまでの時間稼ぎも出来やしない。
勝つ必要はない。街中の罠を用いて、しばらく相手の足を止めればいいだけだ。
「走破の足」に力を込め、屋根を駆けながら再び爆撃火矢を作成。路地に飛び降り火を拾い、再度飛び上がって矢を放つ。狙いはまっすぐ、追手の方だ。
爆発が起こる。敵意が大きく軌道を変え、ミハルの後を追い始める。それでいい。想定通りの動きだ。
想定外が有るとすれば、ただ一つ。コマチの身体能力が、想定より遥かに高かったことだ。
轟音、轟音。そして轟音。
ミハルの背後を、轟音と爆煙が追いかけてくる。
轟音のたびに瓦礫が舞い、どんな無茶苦茶をしているのか、場合によっては引きちぎられた建物が倒壊していく。
敵意は、素早いミハルを大きく上回る速度で距離を詰めてくる。
屋根を跳び伝い縦横無尽に逃げるミハルに対し、規格外の腕力で障害物を薙ぎ払いながら純粋な脚力だけでミハルに肉薄してくる。
暁の勇者たるユイですらここまでのことはしない。いや、出来ない。純粋な身体能力ならばユイすら遥かに凌ぐということの証左。
「あるいはユイと同等以上か」くらいの想定はしていたが、現役勇者ユイの遥か頭上に居るなんて、誰が想像できるのか。
「見つけたぞ」
最初の爆撃火矢からその声が聞こえるまで、時間にすればきっとたったの数十秒。
伝説すら霞むほどの身体能力の高さで、コマチはミハルのすぐそばまで追いついてきた。




