「俺を殺してくれないか」
「俺を殺してくれないか」。
言葉が見当たらない。
ミハルはニイルと親しい関係ではなかった。むしろニイルはミハルを露骨に嘲っていたし、ミハルもニイルのことが苦手だった。
だからといって、互いの人となりを知らないわけではない。
ニイルは、闇の中でも輝き続ける男だった。
十五人を超える義勇軍をまとめ上げ、当時難攻不落と言われた旧ザラン砦の主・魔王の鱗・スケイルと戦い続けていた猛者だ。
暁の勇者団への移籍後も常に敵の眼前に立ち、文字通り一番槍として槍を構え真っ先に敵陣に斬り込む男だった。
彼が立てば、そこから迸るように光が走り、闇を斬り裂く。閃く雷のような槍兵だった。
どんな窮地でもへらりと笑って槍を構える、悔しいくらいに頼もしい、暁の勇者団でも上位の実力者。
そんな彼が、死を望んでいる。
ニイルのこれまでに一体どれほどのことがあったのか。
ミハルでは到底推し量れない「なにか」が、あの傲岸不遜な槍兵をここまで追い込んだという事実が、ただただ、恐ろしい。
「殺し、って」
うまく言葉が紡げない。
ニイルが苦手だ。でも、こんな弱々しいニイルなんて、見たくなかった。
喉につかえた感情を吐き出せずに居るミハルに、どん底を見つめたままのニイルが語る。
「ミハルくん、確か毒を持ってたよな。
それを譲ってほしいんだ。俺から返せるものはなにもないけど……お願いだ」
深々と下げられた頭を、どんな感情で見つめれば良いのか。
確かに毒は持っている。これを使えば体の大きな魔獣や魔物でも倒せることは知っている。
でも、もし今これを譲れば、ニイルは宣言通り死ぬだろう。
「嫌だ」
思考より早く、感情が言葉になった。
「……迷惑は、できるだけかけないようにする。
自分で死ねればいいんだけど、それは出来ないよう施されてるんだ。だから―――」
「ニイルが死んで、何になるんだよ。
折角会えたのに、なんで死ぬなんて」
「これ以上苦しみたくないんだ」
「苦しみたくないなら逃げればいいじゃないか! 死んだらおしまいだろ!
なにやってんだよ、そんな顔して、そんなこと言って!」
出会って以来始めて声を荒げ、ニイルの言葉に食ってかかる。掴みかかる勢いで肩を掴んで詰め寄る。
ニイルと視線は合わない。後ろ暗いなにかを思い出すように、斜め下を見つめていた。
「死んで、おしまいにしてしまいたいんだ」
笑みが浮かぶ。その笑みは変わらず弱々しい。
それが、ミハルの心を突き刺し、抉っていく。
心のなかで暴れだす収拾のつかない感情を、徐々に思考が紐解いていく。
マルカを助けたいと願った理由。
無理にでも人攫いと接触を図ろうとした理由。
この場でニイルに逆上するように掴みかかる理由。
分かってしまえば簡単なもの。
この感情は、後悔だ。
あの日、ニイルの言葉にミハルが食い下がり、ふんぞり返って暁の勇者団に居座っていれば。
あるいはガルグのように「関係ない」と斬り捨てていれば。あるいはムーシャのように「へぇ」と聞いたふりをしてほどほどに受け流していれば。
もしもの話をしたところで意味はない。だが、そうしていれば救えていたはずのなにかがあり、そうしなかったせいで壊れたなにかがあることにも変わりはない。
ミハルのせいで、暁の勇者団は崩壊してしまった。
頭の奥底で、ミハルはそう感じていた。
暁の勇者団に躍起になるのは、知らず知らずにその後悔を埋めようとしているんだろう。
気付いてしまえば止められない。
ミハルは、自分の勝手で、ニイルに「雷槍ニイル」で居てほしい。
だから、「ニイルの都合」ではなく「ミハルの都合」で話をするのだ。
「ニイルが死んだら、皆が悲しむ。
マルカはお前が帰ってくるのを待ってる、ユイ様もそうだ。
身分証のことなら心配いらない、こんなところに居るよりはマシだ。だから!」
「無理さ。この街からは逃げ出せない」
「やってみなくちゃ分からないだろ!
この街には今ランドリューも居る! 俺は弱いかも知れない、でも二人居れば―――」
「違うんだ」
掴みかかっていたミハルの体が吹き飛ぶ。
ベッドに背が弾む。体を起こすより早くミハルの首に骨ばった腕が添えられる。
体はぴくりとも動かせない。ミハルを組み伏す力は、間違いなく一線級の戦士のそれだ。
喉を押さえられた息苦しさにむせながら、ニイルを見つめる。彼の内側を満たす感情が、体の震えと、表情で、何も言わずとも伝わってきた。
「分かるかい、ミハルくん。
こんな有様になっても、俺はまだ君より強い。ランドリューよりも強い。
でもね、三人寄ってたかろうと、あいつには勝てない」
コガレとしてこき使われ、輝くような強さを失ってなおここまで強く。
そしてここまで強くとも、ニイルの心は変わらない。その怯えようは尋常ではない。
「俺だってさ、何度も、何度も、抗った。そのたびにあいつは俺を完膚なきまでに叩き潰し、踏み躙った。
抗うたびに色々なものを失った。今の俺にはもう、空っぽになった心と逃れられない苦しみしか残ってない。
俺がこの店を抜け出せば、それだけであいつが動き出して、絶対に俺たちの前に立ちはだかる。そうすれば、俺だけじゃなく君たちもそこまでの話だ。
だから、せめて、死にたい。苦しみも捨ててしまって、救われたかった」
ぼろりとこぼれ落ちた涙が、ミハルの頬を濡らす。ニイルは、必死だった。
首に当てられた腕が外され、ようやく自由が戻ってくる。
げほごほと咳をしながらニイルを見上げる。ニイルは、もうミハルのことも見ていなかった。
「君が優しいってのは、俺もよく知ってる。
もし君が、優しくも俺を助けたいという気持ちを持ってくれたなら……その時で構わない。俺を殺しに来てくれ」
以降、二人の間に会話はなく。
コガレが差し出す蜜月の時間は、無機質な鈴の音で幕を閉じた。




